【19】火朽桔音の復讐
火朽は、飲み会の帰り道で、紬を見た。帰路が別れる角での事だ。
「紬くん」
「どうかした?」
「僕は、紬くんを見ていると、とても楽しい気分になります。本当に、興味深くて」
微笑した火朽の声に、酔っているのか心なしか顔が赤い紬は、一度視線を下げると、それから満面の笑みを浮かべた。最近では笑う姿が増えたが、紬がこのように笑うのは珍しいと火朽は既に知っていたから、やはり酔いが回っているのだろうと判断する。
火朽は酒に酔う事は無い。酒に関しては、酔う妖も存在するが、火朽にとっては、あくまでも空気を楽しむための小道具であり、娯楽の一形態だ。
「僕も――火朽くんと友達になれて、すごく嬉しい」
小さな声で紬が言った。口元の微笑を深くして、火朽が頷く。
こうして二人は別れた。
――歩きながら、火朽はそれまでの、作り笑いを消し、代わりに本来の表情で、うっすらと笑った。
「友達、ですか」
喉で笑って、一度だけ、歩いていく紬を振り返る。
「そろそろ、良いでしょうか。十分でしょうね」
火朽は繰り返すが、非常に心が狭い。すぐに怒りに駆られるし、その怒りは持続する。例えそれが勘違いであったとしても、何もなく許すような性格ではない。
――そろそろ、無視をされて傷ついた、復讐をする頃合いだ。
一人満足そうに笑いながら、火朽はその日、機嫌よく帰宅した。
「おかえりなさい」
出迎えてくれた砂鳥が、笑顔で麦茶を出してくれた。
「何か良い事でもあったんですか?」
「――そうですね、これから、とても楽しい夏期休暇中の予定があるんです」
それを聞くと、砂鳥が何度か頷いた。
「大学、順調なんですね」
「ええ。きっと、これからもっと楽しくなると思います」
すると、そこの姿を現したローラが、不機嫌そうな表情で、半眼になった。
ここの所、ずっとローラは不機嫌だ。
餌にしていたマッサージ客が、来ないからであるらしい。
「お前だけ楽しい日々なんて、イラつく」
「そう言われましても」
「あ――それはそうと、夏瑪は元気か?」
「少なくとも、僕から見る限りは、普段と同じですね」
「そうか。じゃ、その内会いに来いと伝えてくれ」
「ええ」
そんなやり取りをして、夜が更けていった。
***
僕は、特別講義の初日、バスから降りた。
夏期休暇中のゼミの特別講義は、民俗学科の三年生が火曜日の三限、四年生が四限と決まっている。だから変わらず、この日だけは、大学に人が溢れている。
出席は自由だし、内容は卒論の相談が主だから、既に資料集めをしている学生も多い。
嘗てだったら、僕はさっさと図書館へ向かったかもしれない。
だけど最近の僕は、講義だけが目的じゃなくて、みんなと話をするのも楽しい。
歩きながら、僕は自然と、いつも火朽くんが座っているベンチを見た。
七号館前のそのベンチは、講義前に早めに来た学生が座っている事が多い。
ただ、最近では、火朽くんの定位置と化している。
そして彼は、普段いつも、通りかかった僕に、自然と挨拶をしてくれるのだ。
「……?」
だがこの日、火朽くんの姿がベンチに見えなかった。
なんとはなしに、勝手にいると想像していたから、僕は少しだけ寂しくなった。
「自由登校だしね。来てるとは、限らないか」
ポツリと呟いて、僕はその前を通過した。
僕が早めについた事もあって、まだゼミの教室には、誰もいなかった。
自分の席へと向かいながら、僕は本日は不在の火朽くんの椅子を一瞥する。
もうテーマが決まっているのだろうか? 火朽くんは、何を卒論に書くんだろう?
沢山話がしたい。漠然とそう考えていた時、扉が開いた。
「よぉ、相変わらず早いな」
入ってきたのは時岡だった。隣には、本日は宮永ではなく、南方がいる。
――二人は、お揃いの指輪をしている。
本格的に、恋人同士になったらしい。
僕も、いつかカノジョが欲しい。そう、考えていた時だった。
「紬くんも、火朽くんも、いつも早いよね」
南方が明るく笑いながら、僕と――誰も座っていない火朽くんの席を見た。
僕は思わず硬直した。
――え?
反射的に火朽くんの席を見る。
椅子は僅かにテーブルから距離を作っていて、確かに人が一人、座っていても不思議は無い。
だが、僕の目には、そこには誰も見えない。
事態が理解できなかったが、全身に冷や汗をびっしりとかいていた。
「おはよーございまーす」
もう午後であるが、宮永がそう言いながら入ってきた。
大抵の場合、宮永はいつの時間帯でも「おはよう」と口にする。
「イチャラブしてるリア充共は爆ぜろ。玲瓏院と火朽は、許す。お前らは早く来すぎ。偉い」
宮永もまた、僕と、僕の横の空席を交互に見た。
目を見開いたまま、僕は動く事が出来なくなり、言葉にも詰まった。
その後やってきた日之出くんと楠原も、みんなに挨拶をしていた。
――僕には見えない、火朽くんにも、だ。
最後に、夏瑪先生が顔を出して悠然と笑った。
「自由参加なのに、七名全員が出席するなんて、私のゼミの諸君は、非常に優秀だね」
その後、特別講義が始まったが、僕は一切身が入らない。
何度か火朽くんの席を見たが――僕には、誰も見えない。
先生に相談する傍ら、自由な時間だから、みんなは雑談交じりで、その最中にも火朽くんの名前が出る。これ、は。
――僕が、火朽くんを見えなかった頃と、全く同じ状況だ。
時々、火朽くんの言葉を待つように、みんなは言葉を止めて、空席を見る。
また、先生は、まるで二人で話しているかのように、火朽くんから相談されているかのごとく、間を置きながら、一人で喋っている時間もあった。
だが、どう目を凝らしても、僕には火朽くんが見えない。
心臓が、ドクンドクンと煩い。
嫌な汗が止まらない。夏の熱気のせいじゃない。
雑談中、何度かみんなが火朽くんに話しかけた様子の後、一斉に僕へと視線を向けた。
僕の反応を待っているのは明らかだった。
「お前ら、喧嘩でもしたのか?」
すると、不思議そうに、不意に時岡が言った。
僕が小さく首を振ると、日之出くんが口紅で真っ赤な唇を持ち上げた。
「じゃあどうして玲瓏院くんは、火朽くんを無視しているんだい?」
その言葉に、僕は硬直した。
――どうして?
――どうしていきなり見えなくなったんだろう?
無論、僕は火朽くんが手品師なんかじゃないと、本当は分かっている。
動揺するあまり、僕は何も言えないまま、思わず立ち上がった。
そして改めて隣の空席を見据えてから――教室を後にした。
混乱が収まらない。
確かに、当初僕は、火朽くんが見えなかった。
その状態に、戻ってしまったという事なのだろうか?
狼狽えるなという方が無理だった。
僕は悪い夢である事を祈りながら、バスに乗り込み、震えながら帰宅した。
自室に戻り、唇を手で覆う。
「嘘……だろ? 来週には……見えるよね?」
一人そう呟いた僕の声は、虚しく室内で消えていった。
翌日、僕は動揺を収めようと――卒論のテーマの選択に集中する事にして、大学へと向かった。僕と同じような考えの学生も多いようで、普段よりは人が少ないが、それなりの学生が歩いていた。部活やサークル活動で来ている学生もいるみたいだ。
無意識に僕は、いつも火朽くんが座っているベンチの方を見た。
今日も火朽くんの姿は見えない。
もっとも今日は、来る可能性すらあまりないから、気にしないで通り過ぎようとした。
「そうなんだ、火朽くん」
その時――声がした。
見れば、数人の同じ学科の女子達が、ベンチの……人が一人分空いている場所に向かって話しかけていた。そこは、火朽くんが座っている事が、特に多い場所だった。え?
驚いていると、すぐに女子達が僕を見た。
それから挨拶されたので返すと、彼女達は再び空きベンチを見て、その後また僕を見た。
沈黙が訪れる。僕の言葉を待っているのが分かる。
「え、えっと……? 玲瓏院くん?」
「何?」
「な、何って、紬くん……あの、火朽くんが今……」
するとまた、沈黙が降りた。火朽くんが、何だろう……?
「え!?」
「嘘、また?」
「何の心当たりもないの?」
その後、彼女達は小声でそんな事を囁きあっていた。
僕に聞こえないようにしているつもりらしかったが、僕はそちらを凝視していたから、しっかりと耳に入ってきた。
何が、「また」なのだろう? 心当たりとは、何なのだろう?
よく分からないままだったが、彼女達が引きつるような笑顔を浮かべてから立ち去ったので、僕は誰も座っていないベンチを少しの間眺めてから、図書館へと向かった。
嫌な動悸がする。
その後の日々も何度か大学へと足を運んだのだが、日増しに同じ学科の学生達が、僕を見ると、以前のように、心なしか硬い表情になり、離れていくようになった。
そして迎えた翌週の特別講義の時間――僕は、歩いていると、時岡に呼び止められた。
火朽くんが不在のベンチの前を通り過ぎて、少ししてからの事だった。
「な、なぁ、玲瓏院」
「何?」
「火朽と一体何があったんだ? 挨拶まで、スルーするとか……」
僕は短く息を飲んだ。僕には、火朽くんの姿が、道中で一度も見えなかったし、挨拶をされた記憶もない。
「この一週間でも、学科の奴らの間で、お前が無視してるって広まってるぞ?」
「……」
「喧嘩か……?」
困るような時岡の声に、僕は俯いた。
僕はその日――特別講義を欠席し、家へと帰った。自主休講だ。出席義務は無いのだし。
時岡に、なんて答えたのかは、思い出せない。
それから僕は、何度も何度も、大学へと足を運ぶたびに、火朽くんの姿を探した。
周囲の会話に耳を澄ませ、火朽くんがいるらしき所を何度も見た。
けれど、僕には火朽くんが見えない。
火朽くんがいそうな所で名前を呼んでみた事もあるが、何の反応も無かった。
トークアプリで数度連絡をしてみたが――『存在しません』という表示が出た。
嫌な胸騒ぎが広がっていく。
次第に周囲もよそよそしくなっていく。
火朽くんがいなければ、僕は人の輪には入れない。
だがそれ以上に、初めて出来た大切な友人の喪失に、息が詰まりそうになる。
「どうして……」
どうして見えなくなってしまったのだろう。
存在しませんというあのアプリの表示はなんだろう?
ブロックされているのだろうか?
僕は両手で顔を覆った。胸が痛い。ジクジクと痛む。
僕の世界からだけ、火朽くんが、消えてしまった。
――もうすぐ、一緒に行こうと約束した、夏祭りの日が近づいてくる。
このままもう、僕は二度と、火朽くんと会う事は出来ないのだろうか?
誰もそんな僕の疑問には、答えてくれない。