【20】夏祭り
――夏祭りの当日が訪れたのは、八月の最後の週の事だった。
もう一ヶ月以上前の事ではあるが、バスの中で約束した午後五時に祭りに行くという話を思い出しながら、火朽は朝から上機嫌でいた。キッチンの椅子に座り、長い足を組んで時計を眺める。正面にはアイスコーヒーがある。紬に美味しいと教えてもらった店で購入してきた、最近お気に入りの飲み物だ。
そして時計が午後二時を回った時、火朽は紺色の浴衣に着替えた。
これもまた、紬に推してもらった店で買った浴衣だ。
その後、絢樫cafeを出て、火朽はピッタリ午後三時に、御遼神社へと到着した。
果たして紬は来るのだろうか?
来ると半ば確信しながら待ち合わせをしている鳥居を見た時、既にそこには紬がいた。
鳥居の左側に立ち、まだ出店などが準備中の敷地を不安げに見ている。
それから幾度も、石段の下へと視線を向けている。
――一体いつから待っていたのだろうか?
火朽は興味があった。二時間前には来ている気がしていたが、紬はそれよりも早くからそこにいたらしい。しかし、それよりも興味があるのは、いつまで己を待つかという事だった。
火朽は鳥居の右側に陣取り、堂々と左手に視線を向ける。
紬には火朽が見えていない。
通行人達は、紬の姿を見ると会釈をして通り過ぎる事が多い。
それもまた、紬には距離を感じさせているようだと、火朽は判断した。
本日は、紬もまた浴衣姿だ。
火朽と同じ店で買ったのだと分かる。どちらの色にするか、火朽が迷った――もう一方の色を着ている。黄緑色のその浴衣は、紬によく似合っていた。
人が横を通るたびに、紬は表情を引き締めている。
不安など微塵も感じさせないように――取り繕っているのが、火朽には分かった。
だが、ずっと見ていると、押し殺せない寂しそうな瞳をするから、本当は心細いのだろうと、手に取るように分かる。それを眺めていると、火朽の気分がさらに良くなった。
時計の文字盤が四時を指し、四時半を指し、ついに五時を指す。
紬が辛そうな顔で周囲を一瞥している。
ただそれを、火朽は楽しそうに笑いながら見ていた。
――祭りが始まったのは、午後六時の事である。
笛や太鼓の音が谺する中、ぞくぞくと見物客が集まり始める。
石段を登り、敷地へと入っていく人の波が、紬と火朽の間を流れていく。
どこか焦燥感に駆られているような表情で、紬が通行人を見ていた。
六時半、七時、七時半――花火が始まったのは、その時だった。
二人の背後、夜空には、満開の炎で出来た花が咲いている。
しかし、紬がそれを見上げる事は無い。
ただひたすら、紬は大勢の人の中に、火朽がいないか探しているようだった。
その白い横顔を見て、苦しそうな眼差しを見て、火朽は考える。
花火よりもよほど情緒的で風流だ。
人間が生み出すある種の芸術よりも、人間そのものの方が見ていて刺激的だ。
長い刻を生きてきた火朽だが、今までその事に気付かなかった。
そのまま眺めていると、八時となり、花火が終了した。
祭り自体は八時半までを予定しているようだったが、帰り始めた客が多い。
二人の間には、再び人の波が出来る。
九時になる頃には、帰る人の波が最高潮に達した。
渋滞しだしたせいで、列が進むのは非常に遅い。
そうして九時半、十時。
既に敷地の出店は撤収準備を始め、幾ばくか人の波が緩まった。
「五時間、ですか」
火朽がそう呟いたのは、諦観するように紬が腕時計を見た時の事だ。
暗い表情で俯きながら嘆息した紬が、何度か瞬きをしてから歩き出そうとした。
それを見て、火朽は吐息に笑みをのせてから、紬に歩み寄った。
そして――穏やかに声をかける。
「紬くん」
「!」
紬の足が止まった。息を飲んでいるのがよく分かる。
火朽はそれに気を良くしてから、帰る人の波に紛れ、逆方向――神社の中へと歩き始めた。
***
「っ」
僕は息を飲んで顔を上げた。確かに火朽くんの声がしたからだ。
優しげで、心地の良い――いつもの声だった。
慌てて視線を走らせると、鳥居をくぐって境内の方へと向かう火朽くんが見えた。
柔和な微笑を浮かべ、首だけで振り返りながら僕を一瞥している。
「火朽くん!」
僕は咄嗟に名前を呼んだ。手を伸ばしかけ、追いかけようと足を踏み出したのだが、帰る人の波が僕の行く手を阻む。逆方向に進もうとしている僕は、何度か立ち止まり、その内に――店じまいをしている焼きそばの出店の前で、火朽くんを見失った。
「……」
見えた。確かに見えた。火朽くんが歩いていて、僕の名前を呼んだ。
――火朽くんは、きちんと約束を覚えていてくれたのだ。
何度も周囲を見渡すが、火朽くんが見つからない。
とはいえ、出店の並ぶ場所は一本道だから、彼が引き返してきていない以上、まっすぐに進めば会えるはずだ。
僕は走り出したかったが、そうすれば人目が僕に向くだろうし、帰る人々とは逆方向だから誰かにぶつかってしまうかもしれない。そう考えて、必死で焦りを制しながら、僕は人の合間を縫って、早足で歩いた。
しかし、周囲に誰もいなくなり、敷地の隅にある要石の祠の前まで来ても、僕は火朽くんに会えなかった。見間違いだったのだろうか?
会いたいという僕の想いが、幻想を見せたのだろうか?
僕はそう考えてから、首を振った。見間違えるはずがない。
だとすれば、僕にはまた火朽くんが見えなくなってしまったか、あるいは――さらに先に、火朽くんが進んだのだという事になる。
……僕は、再び火朽くんが見えなくなってしまったと考えた途端、恐怖に駆られ、体が震えた。小さくかぶりをふり、まぶたを伏せる。ちらりと先程見えた火朽くんは、僕がどちらの色を買うか迷った浴衣――紺色の浴衣を着ていた。
確かに僕は、火朽くんを見た。見えた。火朽くんは、今この御遼神社のどこかにいるはずだ。そう考えると、僕は認められなかった。火朽くんがまた見えなく――いなくなってしまう事を、認めるのが怖い。
だが、この先に広がっているのは、神社の脇の深い林だ。
急な坂に杉の木がいくつも生えている。
――通称、迷いの林だ。本当の名前は、違ったはずだけど。
祭りの夜に立ち入ると、神隠しにあうなんていう伝承もあるし、普段立ち入っても、行逢神に遭遇するとも言われている。僕が火朽くんと発表をした時にも扱った。
けれど、ここまでの道中で遭遇しなかったのだから、僕に見える火朽くんがいるとしたら、この林の中しかない。そう考えている内に、僕は自然と足を動かしていた。どうしても、火朽くんに会いたかった。
暗い林の中に入ると、背が高い木々のせいで、月明かりすら見えなくなった。
真っ暗な中で、土で出来た坂道を、僕は周囲を見渡しながら進む。
もう人目を気にする必要はないから、ほとんど僕は走っていた。
誰もいない。蝉の鳴き声すら聞こえない。そう思った時、僕は蚊子の音に気づいた。
「防虫スプレーをしてくるのを忘れた……」
どうしてこんな時に、鬱陶しい蚊子がまとわりついてくるのか。それは僕がスプレーを忘れたからだが、今はそれどころでは無いから、溜息をついてから、蚊子を気にしない事にした。
その内に息切れがしてきた。
僕は、どんどん林の奥深くまで進んでいく。
祭りの夜だから誰もいないのは当然だし――火朽くんだって、ここにいる保証はない。
単純に、僕が会いたいと願って、こちらにいるかもしれないという僅かな希望に縋っただけだ。そう思えば悲しくなってきて、思わず立ち止まり、俯いた。
するとまた、蚊子が飛んでいる。本当に、空気を読んで欲しい。
こんなに辛い気持ちの時に、蚊子に悩まされる余裕なんて無いのに。
そう考えて、僕は半ば八つ当たり気味に、蚊子を手で振り払おうとした。
「ッ」
そして、凍りついた。僕は、蚊子を振り払ったはずなのに、僕の手が触れる直前で、それは霧のように変わり、急に手首が現れたのだ。その手が、僕の振り上げていた右手首をきつく掴む。恐る恐るその手の主を見ると――そこには、悠然と笑う夏瑪先生が立っていた。
「何をしているんだい? 玲瓏院くん」
「せ、先生……先生こそ、どうして、ここに……?」
というより、いつどうやって現れたのだろう? 蚊子を振り払う直前、僕は周囲を確かに見ていたが、どこにも人影など存在しなかった。
「私は、常に美味しい餌を求めているからね。美味しそうな餌がある場所には、大体足を運んでいるよ」
夏瑪先生の言葉に、僕は驚いて上がっていた息を落ち着けながら、何度も瞬きをした。
「餌……?」
「私は吸血鬼だからねぇ。コウモリよりも、より血を得やすい姿で、君のように美味しい血液の持ち主をいつも狙っている。玲瓏院の人間の血は、非常に美味だ」
狼狽えて僕は、一歩下がろうとした。すると僕の手首を握る先生の手に力がこもった。
普段ならば、僕は笑い飛ばす。
しかし、この時の先生の瞳は、あまりにも獰猛そうで、獲物をとろうとしている獣に見えた。
「蚊子の姿ではなく、是非一度、君には牙を突き立ててみたかったんだ」
先生の目が、闇のように光った時、ゾクリと背筋に恐怖が走り、僕は逃れようとした。
しかし先生の指が僕の手首に食い込み、離れない。
「っ……離し――」
「祭りの夜は、この林には魔が満ちる。どの道、君は無事には帰れないだろう。私に素直に喰べられる方がマシだと思うがね」
「――止め」
僕が制止しようとした時、先生が薄い唇を開いた。
いつもは見えない――牙が覗いている。息が凍りつく。
逃げようとした僕を強引に引き寄せ、先生が楽しそうに口を開けた。
――噛まれる。
そう覚悟して、僕はギュッと目を閉じた。
瞬間、僕は後ろから誰かに腕で引き寄せられ、目を開けた。
同時に、真正面には青い炎が舞っていて、目を瞠った先生が咄嗟に飛び退いたのが分かる。
「……」
恐る恐る僕が振り返ると、そこには、火朽くんが立っていた。
僕を片腕で庇いながら、非常に冷ややかな眼差しで、火朽くんは夏瑪先生を睨めつけている。
「――やぁ、火朽くん」
先生はそう言って笑ったが、心なしか表情が強ばっていた。
周囲には禍々しい……というよりも、見る者を絶対的に畏怖させるような、ある種神々しいのに、恐ろしい青い炎が舞っている。僕と先生の間には火柱のように炎があって、さらに先生の周囲には、宙全体に青い炎がいくつも揺らめいていた。
「君はここで何をしているんだい?」
「――あまり頭がよろしくない様子の紬くんが、何故なのか危険な林に入っていくのが見えたので、少々心配になりまして」
僕が最初に会った時以来、初めて聞く、火朽くんの淡々とした冷たい声が響く。
「確かにねぇ。今夜は、稲荷達が林で官位を、この神社の神様から頂戴する日でもある。君と違って、妖狐は食欲旺盛だ。血肉を特に好む。私のように紳士でも無いから、玲瓏院くんのような格好の餌は、まず生きては帰る事が出来ないだろうね。普段見えない分、玲瓏院くんは強力な魔には、非常に弱い」
夏瑪先生は、少し距離を取ってから、周囲の狐火を見渡しつつそう言った。
「玲瓏院くんが僕を見えない事を、ご存知だったんですか?」
「ああ。共同研究の打ち合わせを、君がすっぽかしたと聞いた日から、気づいていたよ」
「――どうして、その時点で教えて下さらなかったんです?」
「火朽くんが、いつ気づくか楽しみだったからとしかいえないねぇ」
すると火朽くんの瞳が一層険しくなり、あからさまに不機嫌そうな顔になった。
「そうですか。それはそうと、教え子を躊躇なく餌にするのは、いかがなものかと思いますが」
「私なりの善意だ。私は玲瓏院くんの極上の血液を少し貰ったら、無事にお礼として、林の外まで送ってあげるつもりだったんだけれどね。大切な教え子だからこそ」
「不要です。僕が、責任を持って送りますので。僕にとっては大切な友達ですので」
火朽くんの声に、夏瑪先生は少し沈黙した後、短く吹き出した。
「友人、か。人間と友人になるというのは、実に面白い刺激の一つだ。火朽くん、人間の学問も面白いが、人間も実に興味深い生き物だ」
「ご教授頂かなくても、既に僕はそれを知っています」
「――それもそうか。君はブラックベリー博士の愛弟子だものね。ああ、今はローラと名乗っているんだったか」
そう言って喉で笑うと、不意に夏瑪先生の姿が闇に溶けた。霧に変化したらしい。
呆然とそれを見ていた僕は、思わず火朽くんの腕に触れた。
触ってみる。僕を庇ってくれている腕が、確かにそこにある。見える。触れられる。
――紬が危うく、夏瑪教授に喰べられそうになっていたため、舌打ちして飛び出した火朽は、右腕で庇ったままの状態の紬を、改めて見た。己の腕に、そっと触れられたからだ。
紬の指先は、僅かに震えている。
それはそうだろう。吸血鬼に襲われかけたら、一般的に人間は恐怖する。当然だ。
「大丈夫ですか?」
しかし迂闊な紬に対して苛立っていたので、火朽は冷たい声で聞いた。
本当は穏やかな声で、慰め、恐怖を和らげてあげるべきだと分かっていたのだが、そうする気分にならなかったのだ。
「……」
紬は何も言わない。ただ震えている。俯いて、指先で火朽の浴衣を掴んでいるだけだ。
そんなに怖かったのだろうかと、火朽は呆れそうになった。
所詮、強力な霊能力を持つと言っても、人間はこの程度という事なのかと考える。
「安心して下さい。夏瑪先生ならもうここにはいませんし、僕も紬くんに危害を加えるつもりはありませんから」
嘆息しながら火朽が告げた時、紬の肩が震えた。
それを見て初めて――火朽は、紬が泣いている事に気がついた。
「紬くん?」
「……良かった」
「え?」
「火朽くんに、会えて良かった。また会えて良かった」
涙混じりの小声で、紬が言った。虚をつかれて、火朽が息を呑む。
「――怖くて泣いているんじゃ……?」
静かに火朽が尋ねると、紬が大きく首を振った。
その時閉じた瞼から、透明な雫が紬の頬を伝う。
「もう……もう、会えないのかと思って、それで、っ、あ……良かった」
「紬くん……」
「火朽くん、もう見えなくならないで。いなくならないで」
泣いている紬を見て、火朽は息を飲んだ。今度こそ、慰めるべきだと確信した。なにせ、紬が泣いている理由は――自分の行動が原因だ。
「――ええ。僕は、きちんとここにいます」
「ここだけじゃない。ちゃんと、いつもと同じように、ずっと、いて」
どこに、だとか、いつもとはどういう意味かだとか、火朽は聞いてみたいと思ったが、紬があんまりにも震えているから、言葉を止めた。
「火朽くんは、僕の大切な友達だから。僕の初めての友達だから、もう、会えなくなるのは嫌だ。吸血鬼よりも、人間じゃない事よりも、僕は友達が、火朽くんがいなくなるのが怖い」
それを聞いた火朽は、最初は驚いた後、それから思わず苦笑した。
「――僕にとっても、玲瓏院くんが、初めての人間の友人です。そうですね、ええ。また、一緒に色々な所に遊びに行きましょう。僕は、もういなくならない事にします。きちんと、見てもらえるように」
火朽は優しい声で言った。だがそれは、普段のような作り物の声では無かった。
紬を見ていたら、自然と出てきた声音だった。
その後、紬の背中を撫でて、火朽は落ち着くのを待った。
そして、二人で林を抜ける。
既に神社に灯りは無い。暗い中を進んで石段まで向かい、火朽は大きく吐息した。
もう――この先は、人のテリトリーである。
「紬くん」
「……何?」
「来年は、きちんと一緒に花火を見ましょうね」
そう告げて火朽が微笑する。これも自然と浮かんできた笑みだ。
すると目を丸くしてから、何度も紬が頷いた。
こうして夏祭りが終わった夜、ある妖怪と人間は、正しく友人となったのである。