【28】温度


 

「送りますよ」

 絢樫Cafeでお会計をした僕に、火朽くんが言った。しかし、ここが火朽くんの家である。

「平気だよ。バス停までも近いし」

 この辺の地理を、僕はよく理解している。何せ、享夜さんの藍円寺までの道中にあるお店だ。

「いいえ、送ります」

 しかし僕の言葉に、笑顔で火朽くんが繰り返した。なんだか申し訳がなかったが、僕も……正直、火朽くんともっと話がしていたかったから、結局甘えてしまう事に決めた。

 扉を押すと、小さなベルの音がした。既に日は落ちている。
 この分だと、すぐに霜が降りる季節となるだろう。

 色づいた銀杏が染め上げている歩道を、並んで二人、歩きながら、僕は吐いた息が白くなる事に気が付いた。指先が冷たい。思わず両手を合わせると、火朽くんが僕を見た。

「寒いですね」

 それから火朽くんは、僕の指先にそっと触れた。

「冷たい」
「うん。もうすっかり秋だよね……秋は、この土地にはあんまりないから、すぐに冬かな」
「冬ですか」

 僕の指先を右手で握り、火朽くんが頷いて歩みを再開した。そのまま手を引かれる形になり、僕は驚いた。

「え、あの」
「なんです?」
「手……」
「つないでいれば、暖かくなるでしょう? それに僕は狐火ですので、温度を上げるのは得意です」

 ――そういう問題なのだろうか? 僕は、そう聞きたかったが、声がのどで詰まって出てこない。

 妖と人間では、考え方が違うのかもしれない。だから、火朽くんにとっては手をつなぐというのは自然な事であり、ただの善意なのかもしれない。けれど、最近、火朽くんを意識してばかりの僕の心臓には、こうして二人きりの夜道を、手をつないで歩くというのは、尋常ではなく悪い事だ。胸の鼓動が早くなりすぎて、うるさい。それすらも聞こえてしまったらどうしようと、恥ずかしくなる。

「次の週末は、手袋を買いに行きましょう」
「うん……」

 つないでいる手が、どんどん暖かくなっていく気がする。次の約束もできた。僕のスマホには、今では毎日のように、火朽くんとの予定が書いてある。もちろん、約束なしに出かける事も多いのだが、火朽くんは約束を決めるのも決めずに出かけるのも手際が良い。

 そのまま日時を火朽くんが決めたので、僕は小さく頷いた。その間もずっと、つないでいる手の体温を意識していた。これは――正確には、狐火を象った、さらにその狐火が人間を模した温度なのかもしれないが、僕の中では偽りではなく、これが火朽くんの温度だ。

 それから、会話をしているうちに、ひと気のないバス停についた。僕は時刻表を見なくても、次の時間を覚えていたが、火朽くんが見ているから、隣に立った。すると、僕に小さく火朽くんが振り返った。

「まだ、三十分以上ありますね」
「そうだね。寒いし、ここで大丈夫だよ」
「そうではなく……時刻に合わせて絢樫Cafeを出るといった配慮は、無かったのかなと気になりまして」
「ごめん……」

 僕は火朽くんに寒い思いをさせてしまっている事を悔いて、素直に謝った。
 そんな僕を見ると、火朽くんが、半眼になって溜息をついた。
 そして、僕の頬に左手で触れた。右手では、僕の手を握ったままだ。

「僕の事は問題ではないんです。分かっていますか?」
「え?」
「紬くんが風邪をひいてしまったら、僕は心配します。バスが来るまでの間に、何かあったならばと考えても不安です」
「……次からは、玲瓏院の車を呼ぶね。本当に、ごめん」

 俯いた僕は、謝りつつも、火朽くんの指先に気を取られていた。頬に触れる指先が、優しく思えてならない。そう考えていたら、その指が、うつむいた僕の顎を持ち上げた。あわてて顔を上げると、正面からのぞきこまれた。

「そういう問題ではないですが、それは一つの解決策にはなりますね」

 火朽くんはそう言うと、僕の目をじっと見た。

「僕は、紬くんが大切だと、伝えましたよね?」
「うん」

 大げさだと内心で考えた覚えがあるが、僕にとっては非常にうれしい言葉だった。僕は、火朽くんの言葉や、一緒にした事は、大体なんでも覚えている。我ながら気持ち悪いが……僕の中では、日に日に火朽くんの存在感が増していく。それが、止まらない。

「今は、心配していると、伝えました」
「ありがとう。僕は、本当に良い友達を持ったと思う」

 友達、と、口に出した時、僕の胸が僅かに疼いた。友達である事が嬉しいのは変わらないが、僕はやはり、それ以上を求めているのかもしれない。無論、親友という意味合いではない。僕は、火朽くんが好きらしい。優しい所も……あんまり優しくない部分も、時折見た怖い眼差しも、全てを含めて、火朽くんは、僕の中では大切だ。どんな火朽くんも、僕は好きだ。ああ……そうか、好きなんだなぁ。

「友達、ですか」
「――友達で、いてくれるんだよね?」

 僕は、平淡に変わった火朽くんの声音に、思わず聞き返していた。

「今後ずっと隣にいるという約束は絶対に破りませんが、僕はもしかすると、紬くんの友人ではいられないかもしれません」
「え……」

 衝撃を受けて、僕は目を見開いた。友達ですらない関係……つまり、ただの知人に戻るという事なのかと考えて、僕は泣きそうになった。そんな僕を、真摯な瞳で、火朽くんが覗き込む。そして端正な唇を動かした。

「こういう意味です」
「っ」

 その時、火朽くんの唇が、僕の額に触れた。驚いて硬直した僕は、何か言おうと静かに唇を開ける。すると顎を強く持たれて、今度は唇に唇が降ってきた。先ほどまでつないでいた手が、僕の腰に回る。

「ン」

 動揺と混乱で僕は、息ができなくなる。そんな僕の舌を絡め取り、火朽くんが口腔を貪り始めた。

「っ、ぁ」

 舌を強く吸われて、僕は体をピクンと跳ねさせる。息継ぎがうまくできない僕を誘導するように、火朽くんがキスの角度を変える。次第に口づけが深くなっていく。僕の体は、ふわふわとし始めた。

「意味、分かりますよね?」
「!」
「キスは、一体どんな関係性の場合にするものですか?」

 僕は、唇が離れた時、それを聞いて一気に赤面した。するとそんな僕を見て、火朽くんが微笑した。今度は両手で僕の頬に触れている。

 バスが来たのはその時だった。硬直したままの僕を見て、火朽くんがくすりと笑うと、バスへ視線を投げる。

「また明日、大学で」

 こうしてこの日、僕達はわかれた。