【*】美味しそう



 ――夏瑪夜明は、霊泉学園大学で民俗学科の教授をしている。
 天然物の銀糸の髪をしていて、切れ長の瞳は瑪瑙色だ。

 彫りの深い顔立ちを、洒落た眼鏡で隠している夏瑪は、外見は三十代半ばであり、教授にしては非常に若い。無論それは外見年齢であり、彼はローラと同じ、吸血鬼だ。ローラとは、スラヴで己の起源――吸血鬼伝承を調べていた際に出会ってからの縁である。

 細い紙巻きの葉巻を口に銜えながら、この日夏瑪は街にいた。
 珍しい事に、ローラに店へと招かれた帰りである。
 夕暮れの空は、まだ夏だという事も手伝い、胸騒ぎを誘うような紫色をしている。

 吸血鬼ではあるが、日光や十字架といったものは、何の害にもならない。
 ――一般的な品であるならば。

 しばらく歩いていくと、瀧澤教会が目に入った。プロテスタントに分類可能な基督教系のそれなりに歴史のある教会だ。ただ現在では、瀧澤家の人間は、一人は心霊協会の役員となるものの、瀧澤学院という私立の学校経営を主要な仕事としているらしい。

 夏瑪は――仏教徒でも神道の人間でもない。強いて言うならば、人であった古の過去には、それこそキリスト教徒だった。まだ当時は、ルターがいた記憶もなく、ルーテル関連のプロテスタントの宗派は無かったように思う。とはいえカトリックだった記憶もない。己がどこの国で生を受けたのか、夏瑪は意識しなければ思い出せない。

 瀧澤教会の礼拝堂を含め、地上にある建造物は非常に新しく、洗練されている。
 だがこの教会に関しては、問題なのは地下であると、夏瑪は知っていた。

 世界遺産の登録関連で名称について揺らいでいるらしいが、俗に言う『隠れキリシタン』として、この教会の信徒が新南津市に存在した頃、建築された地下の教会遺跡こそが、夏瑪にとっては、強いて言うならば真の脅威だ。

 ――そこには、悪魔が封じられている。

 当時から、宗教チャンポンとでも言うしかなかったのだろうこの土地においては、キリシタンは隠れていなかったらしい。仏教が広まってなお、神道も絶大な力を誇っていたという。全ては、その時々の当代の玲瓏院家の当主の采配だったようだ。

 そう考えていた時、瀧澤教会の前に、黒い高級車が停まった。

 降りてきたのは、瀧澤教会の牧師である心霊協会の役員で、送ってきたのは玲瓏院家の車だった。後部座席から、現在の当主の玲瓏院縲が顔を出している。

 ――轟音がしたのは、丁度その時の事だった。

 地面が崩落し、瀧澤教会の庭が陥没した。周囲の通行人が騒然となり、教会からは何人もの聖職者が顔を出す。隣接している学院の教師や、帰宅途中の生徒達も硬直していた。夏瑪もまた歩み寄り、砂埃が舞う庭を見る。

 すると、地下へと伸びる階段が見て取れた。
 車から降りてきた玲瓏院縲が、ごく近くにいる。

 あちらが夏瑪を見る事は無かったが、夏瑪はすぐにそちらを向いた。
 理由は簡単だ。美味しそうだったからだ。
 玲瓏院紬も大抵美味しそうで、蚊に姿を変えて何度か吸血したが、非常に美味だった。
 その父である現当主の縲は、輪をかけて美味しそうな香りがする。

 浅葱色の紋付姿で、金髪に緑色の瞳をしている縲は、一見すればチャラチャラとしている青年だ。とても三十代半ばには見えない。同じ年頃を象っている夏瑪と比較したら、それこそ二十代で通るだろう。

 縲は、霊能力を持たない婿として、紬と絆の養父として、玲瓏院家のつなぎの当主として、この土地では認識されている。夏瑪もそれは聞いていた。

「なんだこの禍々しい気配は」

 瀧澤牧師の声に、夏瑪は腕を組んだ。
 現れた地下遺跡からは、そこに封印されている悪魔の気配が漏れ出している。
 先ほどの崩落で封印が緩んでいるらしい。

「これは、エクソシストで無ければ、対処が困難だ」

 瀧澤牧師を見ながら、夏瑪は率直に言った。すると狼狽えたように瀧澤牧師が顔を上げる。

「エクソシストなんて、日本には、ほぼいない。きちんとした司祭はおろか……そもそも新南津市には、この教会くらいしか――……いいや、この教会にもエクソシストは一人もいない」

 焦るように言った瀧澤牧師を見て、その時悠然と夏瑪は笑った。

「そこにいるじゃないか」
「え?」
「――ルイ・ミシェーレ。DGSE認定及び内閣情報調査室指定エクソシスト。ああ、今は玲瓏院縲さんと名乗っているのだったかね」

 夏瑪の声に、驚愕したように縲が硬直した。息を飲んでから、ぎょっとしたように視線を向ける。

「早く行かなくて良いのかね? 悪魔が逃げる」
「……っ」

 夏瑪の声に忌々しそうな瞳をしてから、縲が瀧澤牧師に歩み寄った。

「行きましょう」

 ふたりの姿を見送りながら、夏瑪はニヤニヤと笑っていた。愉悦を含んだ表情で、腕を組みなおす。

 夏瑪は知っていた。玲瓏院縲は、先々代の現玲瓏院のご隠居の縁者だ。亡くなった先代である妻は、即ちまた従姉だったのである。正しく縲は玲瓏院の血筋だが、フランスの人間とのクォーターである。別段染めている外見ではない。

 そして――エクソシストは、基本的に他者と関係を持てば、その力が使えなくなる。それに紬と絆が実子ならば、十三歳で子供をもうけた形となるのだが……夏瑪はこちらも知っていた。体外・人工授精だ。

 そもそも縲自体、玲瓏院家の好奇心をかったフランスの情報機関が、対悪魔用に人工的に生み出した人物である。二人の子息に関しては、内閣情報調査室庶務零課が子孫の研究のために亡くなった彼の妻との間に子供を人為的に受精させたという経緯がある。

 よって、吸血鬼にとって非常に美味しい童貞および力の持ち主であるエクソシストにも関わらず、縲には子供が二人いるのだ。ただしこの事実をしるものは、新南津市には、夏瑪を除けば二人しかいない。一人は玲瓏院家のご隠居であり、もう一人は庶務零課時代の同僚の、藍円寺朝儀だ。あちらは僧侶であるから、子供がいてもなおやはり美味しそうではあるが、童貞からは程遠いので、あまり夏瑪の食指は動かない。

「ああ、いつか喰べてみたいものだねぇ」

 玲瓏院縲の後ろ姿を見ながら呟いて、夏瑪は踵を返した。
 その『いつか』は、願望による来ない未来という意味ではなく、時機の問題である。