【30】準備期間



 その後、藍円寺に戻るか考えたのだが――ローラが来ている事を思い出す。

「……」

 今後、あるいは戦う事になるかもしれない相手と顔を合わせるのが気が引けるからであり、決して弟の幸せの邪魔をしないためではないと、内心で昼威は言い訳をしながら、スマホを取り出した。侑眞に連絡しようと思ったのだ。

「藍円寺昼威」

 しかし、外に出てすぐに、そう声をかけられた。見ればそこには、妖狐の水咲が立っていた。夏には暑苦しそうなマフラーだが、真冬の今は、その着流しが寒そうに見える。

「送る」
「? 何かあったのか?」
「御遼神社に行くんだろう?」
「今、そうしようか検討を始めた所で、まだ行くと決めたわけじゃ――」

 昼威はそう言いかけたが、次の瞬間には、周囲の風景が変わっていた。バス代が浮いたのだし良いかと感じつつ、御遼神社の石段を見上げる。既に、水咲の姿はどこにもない。代わりに――雪の処理をしている侑眞が視界に入った。

「あれ? 先生、早かったね。水咲に迎えに行ってもらったんだけど」
「――今まさに、連れてこられたぞ」
「入れ違いになったわけじゃなくて良かったです。ご神託で、今日は藍円寺に戻らない方が良いって出たものだから、驚いちゃってさ」
「そのご神託とやらは、信用できるのか? 前回のご神託は、確か俺が絢樫Cafeに享夜を迎えに行った日だったな」

 そんな事を言いながら、昼威は侑眞の隣まで歩み寄った。すると手袋を外しながら、優しく侑眞が笑う。

「どうかなぁ」
「――来週末から、非現実的な仕事の手伝いをするはめになった」
「え?」
「つまり、その……来週は、週末までは暇に決まった」

 昼威がそう告げると、侑眞が目を輝かせる。

「じゃあ、どこか行きますか」
「せっかくの休みだ。休みは休むものだ」
「先生って、出不精だよね。そういえば、行きたい場所はどこだったの?」
「一番安らげる場所だな」
「地名でお願いします」
「生き物の横でな。固定されていないんだ」
「先生って、猫とか好きだっけ? 最近、享夜くんのそばに、黒猫がいるって噂になってるよ」
「藍円寺では見かけなかったが」

 そんな話をしながら、二人で離れの庵に入ると、夕食の準備がしてあった。今夜は、カニだ。もうすっかり、この場所で食事を取るのが、常になりつつある。


 結局その日から――昼威は、侑眞の家にいた。出かける予定を話し合うはずだったが、結局決まらず、二人でダラダラと家で過ごす。侑眞は朝が早いから、昼威を布団に残して仕事に行くが――朝食時には戻ってきて、昼威を優しく起こした。

 普段が忙しい分、この怠惰な日々が愛おしい。

 侑眞の横でダラダラしていると、平和だなと昼威は感じたし、心が休まった。そうして、一日、また一日と、時が経っていく。すぐに水曜日が訪れ、そして、木曜日。

「明日は金曜日か」

 昼威が呟いたのは、週末間近の事だった。すると隣に寝転がりながら、侑眞が頬杖をつく。

「昼威先生は、どんなお手伝いをするの?」
「さぁな。御遼神社は何をするんだ?」
「特別な禊と御食の他は、逆に妖に気取られないように、いつもとそう変わった事はしないかな。あとは、友好的な妖への通達準備や保護もあるけど、それは水咲に任せる予定」「友好的な妖、か」

 その言葉を聞いて、ポツリと昼威が繰り返した。すると侑眞が苦笑した。

「今の所、ローラさん達への、連絡の要請は無いよ」
「奴らが友好的だとは思えないからな」
「うん……ただ、水咲もちょっと渋ってたんだよね」
「どういう事だ?」
「――或る覚を、さらしな荘で雇用してはどうか、なんて、言ってたなぁ」

 最後の『休日』は、そんな話をしながら二人で過ごした。この日までにさんざん交わっていたが、この日も二人で共に寝た。



 ――翌日から、昼威は玲瓏院本家へと泊まり込んだ。本当は藍円寺で準備をする事が可能だったが、それでは享夜に黙している意味が欠ける。それにローラが藍円寺に入り浸りだという話は、変化が無い。

「寒いな」

 冷たい水で墨をすりながら、昼威は溜息をついた。現在の玲瓏院家には、心霊協会からも多くの人が極秘裡に顔を出している。表向きは、一月にある賽の神という行事の準備だという事になっていた。指揮をしているのは、縲だ。ご隠居の姿もある。

「昼威よ」

 そこへ統真が訪れたから、昼威が顔を上げた。するとご隠居は、肩に手を当てながらため息をつく。

「雑念混じりじゃな」
「そう言われましても。非科学的すぎてやる気がおきなくて」
「馬鹿者」

 このようにして、着実に準備をしていき――十二月二十三日が訪れた。

「明日――玲瓏院結界を再構築する。明日の夜には、妖は新南津市の外へは出られなくなる。同時に、結界が力を吸収するから、妖魔はその力を失うか――消滅する事になる」

 日付が変わろうとした頃、縲が人々にそう言った。昼威もそれを聞いていたが、見ていたのは縲では無い。縲の隣で、驚愕した顔をしている紬を、昼威は見ていた。

「縲、年末じゃなかったの?」
「決行は早いほうが良いからね。何か不都合でもあるの?」

 笑顔の縲の言葉に、紬の表情が引きつったのが分かった。

「紬。これは玲瓏院家の大切な仕事だからね。無論、ここにいる者を除いては、部外秘だよ」
「けど――火朽くんに言わないと」
「紬、火朽くんは、確か仲の良いお友達だったよね?」
「っ、その……――縲、僕達は、共存出来るよ。共存できる妖には、事後にこの事を伝えるんだよね?」
「もちろん。共存できる場合はね」

 縲と紬のやりとりを見て、昼威は腕を組んだ。侑眞から、連絡対象に、絢樫Cafeの面々が含まれていなかったと聞いた事を思い出す。その後、何か言おうとした紬が口ごもったのを、昼威は眺めていた。紬は思ったよりも冷静に受け止めているようだが――果たして、享夜はどんな反応をするのだろう。それが今から、怖かった。



 翌日――。

「え?」

 藍円寺に、午後の一時に戻った昼威は、朝儀と享夜と合流した。朝儀は当然のものとして、玲瓏院結界の再構築を受け入れていたが、享夜が話を聞いて目を見開く。

「ま、待ってくれ。結界を再構築? 来年の話じゃないのか?」
「今日に決まった」

 昼威が述べると、隣で朝儀が微笑した。

「負担が大きい作業だし、早め早めが良いよね」
「な」
「朝儀の言う通りだな」

 昼威と朝儀がそれぞれ大きく頷くと、驚愕した様子で、享夜が唇を震わせた。

「ま、待ってくれ。確か、結界を再構築すると……妖魔は消滅してしまうんだよな?」
「良かったね、享夜。もう、マッサージに行かなくて良くなるよ」
「最近いっていないんだ、朝儀。俺はもう、柔軟な体を手に入れたみたいで――って、待ってくれ、そうじゃない! そ、そんな、みんな消滅してしまうのか? 嘘だろう?」

 動揺している享夜を見て、昼威は深々とため息をついた。

「――力の強い妖魔は消滅しない。代わりに、保持している力を抜き取られるから、姿は保っていられても、力が使えなくなると言う状態になるそうだ」
「昼威……いつもは、オカルトだって否定するのに、どうして……」
「無論、オカルト現象など存在しない――し、仮に存在するのであれば、文字通り、無くなるだけだ」
「無くなるって……そ、そんな。じゃ、じゃあ! ローラはどうなるんだ!?」

 享夜が思わず口走った時、朝儀と昼威は顔を見合わせた。

「僕の記憶する限り、吸血鬼クラスの強力な怪異は、力を封じられる事はあっても、消滅はしないよ」
「な……力を封じられる? そ、そのあとは? みんなで除霊をして回ると前に聞いたぞ。というか、朝儀は、この方面の知識があったのか? どうして今までバイトをしなかった……」
「う……んー、と、斗望もいるからね! まぁ、玲瓏院一門に近づいた妖は除霊優先度が早いとは思うよ」

 朝儀はそう言うと、笑顔のままで顔を背けた。本日斗望は、瀧澤教会のクリスマス会に、芹架と共に遊びに出かけている。ふたりの幼なじみである少女が主催しているのだ。

「とにかく、準備をするぞ」

 仕切り直すように昼威が言い、法具を並べる。朝儀が手伝い始めた。すると、袈裟をつけた正装姿のままで、享夜が一人震え始める。泣きそうになっている弟を見て、昼威は胸がえぐられそうになった。

「享夜、経文を読まないとならないんだ。それが、藍円寺の人間の務めだろう。医者の俺よりも、住職のお前の務めだ」
「……」
「享夜……気持ちは分かるけど、僕達は、あくまでも分家だし、人間だし……ね?」

 諭すように朝儀が言う。すると、享夜が錫杖をその場においた。

「無理だ」
「享夜、お兄ちゃん、怒るよ?」
「朝儀に怒られても何も怖くない。俺は、ローラに言いに行く!」
「子供みたいなこと言わないの! 斗望の方が大人だよ?」

 そんな二人を見ていて、昼威は額に手を添えた。そして――ポケットに朝から入れておいた車の鍵を取り出した。

「今から行ったとしても、徒歩ならば、俺と朝儀が発動している間には、絢樫Cafeにはつかないんじゃないか」
「な」
「――享夜。共存できる妖には後ほど連絡が行くらしい。大人しく結界を張っていけ」
「……ダメだ。俺は、ローラが心配だ。結界なんてはれない。ローラを逃がさないと」
「ならば、お前が苦しんだような頭痛や肩こりに悩まされる多くの一般市民は見捨てるのか?」

 昼威が言うと、享夜が息を飲んだ。そして――それから俯いて唇を噛んだ。

「ローラが除霊されてしまうなら、俺も一緒に死ぬ」
「「……」」

 その言葉に、再び昼威と朝儀は顔を見合わせる。そうして、昼威は、ため息をついてから、車の鍵を投げた。

「藍円寺の住職は、職務を投げ出したと告げ口しておくから覚悟しておけよ」
「昼威!」
「しょうがないなぁ。享夜の代わりに、僕がいつもよりも頑張るよ……ただ、もしこのあと、戦う事になったら容赦はしないからね。僕、享夜ごと殺れるタイプだからね」
「朝儀……――二人共、有難う」

 こうして……鍵を受け取り享夜が走り出した。

 玲瓏院結界が再構築されたのは、そのすぐ後の事である。