【29】敵の名前



「これはこれは、昼威先生」

 ローラが藍円寺へと訪れたのは、午後三時の事だった。住居スペースの方にやってきた猫目の青年を見て、昼威が半眼になる。

「写経は、ここではやらないだろう。寺へ行け。そしてさっさと帰れ」
「昼威! どうしてそういうことを言うんだ!」

 すると享夜が慌てたように声を上げた。僧服に着替えている享夜を見つつ、リビングで昼威は腕を組む。そこで、何気なく考えた。享夜が着用しているのは、玲瓏院規定の正装だ。市販品の袈裟ではない。しかも、ローラは、実際に写経をするのであれば、寺が平気だということだ。

「……」

 思わず唇を掌で覆う。いくら吸血鬼が強い鬼とされるとはいえ――通常の怪異であれば、こうも易々と敷地に入ってこられるのだろうか? しかも、考えてみれば、わざわざ六条彼方は公的な機関から依頼を受けて調査に来ていたという。もしかすると、ローラは、強力な存在なのではないか……昼威は、改めてそのように思い当たったのである。しかし、それにしては奇妙だった。昼威は、強い妖魔が放つような威圧的な空気を、ローラから感じ取った事は、過去に一度も無かったからである。

「――享夜、やはり出かけてくる事にする」

 昼威がそう言うと、享夜が目を丸くした。
 聞いていたローラが、猫のような瞳を柔和に細める。

「義兄(おに)いさんも、空気が読めたんですね」
「おい。俺はお前の、義兄になったつもりは皆無だ」

 その後、軽く机を叩いて抗議を明確に示してから、昼威は立ち上がった。
 意識上の理由は、簡単だ。この土地に封じ込めたい妖が誰なのか知りたかった。

 しかし本音を掘り返すとするならば――このままここで雑談をしていたら、逃がしてやりたくなりそうで怖かったとしかいえない。昼威は、享夜をお人好しだと表するが、本人も相応に人が良いのかもしれない。

 こうして外へと出て、昼威はバス停を目指した。時刻表は記憶している。寺からの一本道を歩きながら、冬の空を何度か見上げた。未和という少女が繰り返し轢かれている場所を過ぎ、絢樫Cafeの前を過ぎ、そうして無事にバス停に到着する。

「縲(ルイ)さんが、空いてると良いんだが」

 腕時計を一瞥してから、昼威はバスに乗った。
 アポを取っていなかったが、まだ心霊協会にいるはずの時間だと判断する。


 ――新南津市の心霊協会に到着すると、そこは、相変わらず混雑していた。しかし、心霊協会の職員達は、いつもとは異なり、昼威の姿を見ると、すぐに駆け寄ってきた。

「縲様でしたら、役員室におられますよ」

 空気からして、既に、結界の再構築について周知されているのだろうと、昼威には分かった。小さく頷き、昼威は促されるがままに、縲の役員室へと向かう。そして、軽く二度ノックをした。

『はい』
「昼威です、少し伺いたい事がありまして」
『昼威先生! どうぞ!』

 すると明るい声が返ってきたから、暇そうで良かったと判断しつつ、昼威は中へとはいった。そこでは萌黄色の紋付姿の縲が、一人お茶を飲んでいた。

「お座り下さい。俺も先生に用事があったんだ」
「失礼します」
「先に、昼威先生の話を聞くよ。どの件?」
「――どの?」

 そんなに色々と話す用件があるのかと、思わず昼威の頬が引きつった。

「ごめん、ごめん。色々急だったし話があるかなって思ってさ」
「……単刀直入に一つだけ。時期が早くなった理由が知りたいんです。具体的には、結界内に閉じ込めたい妖魔がいるのか、いるとしてその相手の名前です」

 昼威が気を取り直してそう告げると、ゆっくりと縲が頷いた。

「うん。ある吸血鬼なんだけど」

 吸血鬼と聞いて、昼威は嫌な気分になった。身近では、それこそローラについてしか、この新南津市にいるとは聞いた事が無かったからである。

「夏瑪夜明(ナツメヨアケ)と言うんだよね。霊泉で教授をしている。紬のゼミの担当教授なんだ」

 しかし、続いた言葉に、緊張感が途切れた。良かった……と、思って、享夜が食べられているのに良いわけはないのだが、と、続けて考えた。

「一体、その吸血鬼は何をしたんですか?」
「――存在が罪なんだよ」

 何気なく聞いた昼威だったが、不意に帰ってきた縲の暗い声に、驚いて顔を上げた。いつもは朗らかに笑っている縲が、珍しく神妙な面持ちをしている。

「存在が? それは、吸血鬼という存在全てという意味ですか?」
「……これは俺の個人的な感情もあるから、明言は控えさせてもらう」

 普段の明るさとは明確に異なる縲の眼差しを見て、昼威は冷や汗をかきそうになった。これまでの間、縲に気圧された事など、記憶にない。とすると、相手はよほど警戒が必要な、凶悪な存在なのだろうか。ただ――存在を許されないものなど、人と妖の違いはあるとはいえど、本当にいるのだろうか?

「直接的に、昼威先生に、夏瑪教授を相手にしてもらおうとは考えていないから、心配しなくても大丈夫」

 その時、縲がいつもと同じ笑みを浮かべた。それを見たら、昼威の体が一気に弛緩した。

「来週いっぱいは、万が一に備えての休暇――と、なる。来週末から本格的に準備をする事になるから、昼威先生もそれまでの間は、ゆっくりと休んでね」

 朗らかに笑った縲を見て、昼威は嘆息してから頷いた。
 その後短く雑談をしてから、昼威は役員室を後にした。