【35】賽ノ神




 クリニックの鍵を開けたのは、一月の下旬の事だった。ご隠居から、手紙が届いたのである。

 ――安泰だ(と、示すためにも、いつも通りに)。

 そんな文面だった。朝儀は帰ってこないと思っていたら――玲瓏院家で、斗望と共に受験勉強のため、しばらく過ごすという連絡があった。本当に受験勉強のためなのかは不明だ。それは、まだ解決していないことがあるのに、昼威がクリニックを開けるのと同じように、あくまでも表向きの理由からかも知れないからだ。

 なお、これは、享夜も同じだ。享夜は、除霊のバイトという怪しげな仕事に復帰した。ローラと共に……。避難対象に入っていなかったローラ達であるが――現在、人間サイドに加わり、他の残っていた妖魔を倒して回っているのである。これは良い事だろうと、昼威は考えている。絢樫Cafeも砂鳥が繁盛させているし、火朽という狐火も、変わらず大学にいるらしい。

 ――なお、大学には、夏瑪夜明もいるそうだ。

 一体、どういう経緯なのか、昼威には分からない。玲瓏院家は、縲の件について、箝口令を敷いていて、それは藍円寺の関係者であっても、朝儀は不明だが、少なくとも昼威と享夜には教えられなかった。

 煮え切らない思いもあったが――とりあえず、縲は無事らしいから、良いと考えつつ、昼威は久方ぶりに、良い匂いのする空気清浄機を稼働させた。カーテンを開け、クリニックの中を整えていく。

 普通。日常が戻ってきた。

 恐らく、侑眞はそうではない。だが、昼威に、侑眞がどんな妖を討伐してきたかを話した事は無いし、避難についても語ったことはない。ただいつも、会うと温かい表情で出迎えて、酒と食事を振舞ってくれるだけだ。

 しかしそれも、もうすぐ頻度が減る。昼威が引っ越したら、侑眞は「今度は俺のほうが遊びにいくから」と、話していた。実際、神社の仕事よりも除霊を主とした仕事をしているらしい現在は、神社に必ずしも侑眞が戻る事は無いのかもしれない。先代もいるからだ。なお、芹架もまた玲瓏院家で斗望と共に受験勉強の追い込みに励んでいるらしい。霊泉の付属であるから、受験勉強というのは、オカルト知識や訓練だろうが……。

 来週からは救急のバイトも再開だ。
 引越しは、その三日前を予定している。
 本日と明日が、最後の週末となる。クリニックを完全に再開するのも来週からである。

「昼威先生」

 そこへ侑眞が顔を出した。やはり神聖な気配がするようになったなぁと思いながら、昼威はコーヒーサーバーの前に立った。二つ淹れて、片方を手渡す。

「今夜は賽ノ神だね」
「そうだな。今年は俺が顔を出すように言われているんだ。享夜はローラと行くらしくてな。藍円寺のものを色々持っていくのが俺の仕事になった。朝儀は斗望といくらしい」
「芹架くんも朝儀さんが連れて行ってくれるって。俺は先生と行こうと思ってた」

 昼威は頷いてから、珈琲を飲み込んだ。


 ――逢魔が時を過ぎた頃、二人は会場へと向かった。藁を積み上げられて作られた柱に、餅などがくべられている。だるまもある。火が付いたのはすぐの事だった。二人は振舞われている甘酒を片手に、全てを浄化していく炎を見る。

 その場には、人間だけではなく、人間に友好的な妖も多数来ていた。神聖な行事だが、この土着信仰のなごりは、人も妖も問わず、この新南津市においては新年の大切な行事の一つとして受け入れられている。

 昼威がそう思い出しながら周囲を見た時、侑眞がそっと昼威の手を握った。

「おい」
「ん?」
「誰が見ているかもわからないんだ、離せ」
「手袋をしてこなかった先生が悪いです。冷たい」
「ポケットがある。だいたいお前もしてないだろう」

 そう言って昼威が目を細めると、そんな昼威の左手を、そっと両手で侑眞が掴んで持ち上げた。そして、静かに指輪をはめた。

「っ」
「クリスマスプレゼント、渡せていなかったから」
「な」
「ペアリングって奴です」

 その言葉に、昼威は不覚にも照れた。思わず俯いて誤魔化すと、再び侑眞が昼威の手を握る。

「来年も、再来年も、全部の行事を昼威さんと見られると良いな」
「人前では先生と呼べ」
「そんなに人目が気になる?」
「気になる!」

 昼威はそう言ったが、手を振り払うでもない。顔の赤い昼威を見て、侑眞は楽しげに笑った。


 こうして――新しい一年を新しい関係で、二人は歩み始めた。昼威はそれを幸せだと思ったし、その後はずっと指輪をはめている。たとえば節分の思い出もあれば、端午の節句の思い出も出来ていく。積み重なる二人の物語は、恐らく長く続いていく。それこそ、墓場まで、となるのだろう。生まれた時期は学年が違うし、恋が生まれてからは、まだそう、昼威側から見れば、時はたっていないのだが。

 新南津市には、怪異が息づいている。
 だが、そこに暮らす人々には、人間なりの葛藤や想いもあって、それは土地を問わない。どこにでもある、ありふれた恋が、ここにもまた存在するというだけだ。

 御遼神社という縁結びの神様を宿している侑眞が相手だったからだけではなく、たとえばその使いの妖狐であれば、妖だって恋をするだろうし、そういった感情には種族は関係ないのだろうと、昼威は考えている。

 ――と、このようにして、藍円寺昼威と、御遼神社の狐と神様の関係は、その後も続いていった。



【完】