【11】さらしな荘



 水咲は、新南津市ハイランドのバスターミナルがある場所から、緩く続く坂道を降りていった。暫しの間歩いていくと、右手に林が広がる一角にたどり着き、そこで一度足を止める。彼の視線を追いかけると、そちらには獣道が続いていた。

「こちらだ」

 頷いて、薄闇の中、僕は木々の間に向かう。僕の前を水咲が歩き、僕はその後ろだ。人型をしていると、一人が通るのがやっとである。地面は次第に土ではなく、木の根が幾重にも重なり、路を作っているように変わった。木のトンネルみたいだ。

 上を見ても、暗い夜空を隠すように木々の枝と葉が覆い隠しているから、星明かりすら見えない。僕達には、人間のように照明は必要無いが、人間の社会で暮らしていると、灯りが無い事自体が、不思議な気分になってしまう。

「ん」

 しかし、暫く進むと、正面に光が見えた。水咲の体の影から先を窺うと、次第に道が開けていくのが分かる。道自体も次第に、踏み固められた土――そして石畳に代わり、その左右には、点々と提灯が浮かんでいた。支えは無い。提灯が、等間隔で浮かんでいるのだ。

 ――人間の道具としての、提灯で無い事は直ぐに分かった。

 僕達と同じ進行方向に、左右からも道が続いていたらしく、合流して道幅が広くなる頃には、他の『客』達の姿も視界に入り始める。この時、少し水咲が速度を落としたので、僕は隣に並んだ。

「ここは?」
「――この新南津市で数少ない、今も妖が滞在出来る宿だ」

 水咲がそう言った時、いつもと同じ服装に変わった。妖狐の耳と巨大な尻尾が見て取れる。左側に回している狐面と、白いマフラーはあまり似つかわしいとは思えないが、赤い着流しを見ていると、こちらの方が見慣れているからしっくりとくる。狐色のふわふわの髪は、日中の人間を装っていた時と変わらないが、先程まで黒く見せていた瞳の色が、現在では元々の緋色をしている。僕よりも背が高い。芹架くんよりも少し低いだろう。

「そうなんだ。繁盛してるみたいだね」

 頷いた僕は、寧ろ僕だけが、この場では人間を象っている気がして、複雑な気分になった。他の客達は、見るからに――妖型だとしか言い様がない。一本たたらやぬりかべというような怪異達が、正面にある宿屋を目指して進んでいる。絢樫Cafeもこのくらい賑わう日が来たら良いのだが……。

「昔に比べれば、だいぶ数は減ったが」

 水咲はポツリとそう言うと、僕の背に触れた。丁度その時、僕の隣を、帰る途中らしき客が通り過ぎた所だった。天狗が帰っていく所だった。

「いらっしゃいませ」

 それから少しして、正面の門をくぐった時、前方からそう声がかかった。水咲が立ち止まったので、僕も歩みを止める。視線を向けると、玄関から今しがたくぐった門まで、臙脂色の和装姿の妖達がズラリと並んでいた。柄は様々で、縞模様もあれば、斑模様もあったが――外見はその大半に猫耳がついてる。猫又らしい。前にお店を訪れた花想猫の事を僕は思い出した。

 ……それにしても、何か、すごい。

 絶対実力主義の妖魔の社会では、強いものは基本的に傅かれる。それはローラを見ていても分かる。だが、例えローラであっても、ここまで腰を低くされる事があるのだろうか、と、驚くほどに、従業員らしき猫又達が、一斉に水咲に頭を下げたのだ。どころか、門をくぐってからは、通行人だった他の客の妖達も、皆が足を止めて水咲に頭(がある場合は、頭部)を下げたのである。横に居る僕まで、敬われるかのごとく、お辞儀をされている。居心地が悪すぎる。

「楽にしてくれ。私事だ」

 水咲がそう言ったが、誰も姿勢は正さない。僕は引きつった笑みを浮かべながら、彼らと水咲を交互に見る。明らかに僕が、場違いだ。僕も水咲に平伏した方が良いのかもしれない。僕は、水咲はこの土地には普通に居る妖狐だと信じていたのだが、間違いだったようだ。

「水咲様を前に楽にしたら、天罰が下りますからねぇ」

 その時、カラカラと笑うような声音が響いてきた。僕が視線を正面に戻すと、そこには巨大な唐傘をかぶった一人の青年が見て取れた。青年――人型を象ってはいるが、人間でないのは明らかだった。顔には大きな御札がついている。僕は、キョンシーという名前の、別の国の怪異について思い出したが、眼前の青年の頭部にある猫耳を見る限りゾンビでは無さそうだった。彼もまた猫又らしい。

「鳥遊里(タカナシ)、久しいな」
「全然、水咲様がおいで下さらないんですから、そりゃあ久しぶりですねぇ」

 鳥遊里と呼ばれた青年は、それから唐傘を手に取ると、一度深く腰を折って、そうして改めて僕らの前に立った。

「こちらは? 餌ですか?」
「――友人だ」
「これは失礼を。ようこそおいで下さいました、さらしな荘へ」

 僕を見て、御札の下の唇で弧を描き、鳥遊里さんが言った。

「さらしな荘は、妖の皆様をもてなす旅館でして、水咲様にはご贔屓に――……あんまり来ないけど……たびたび目をかけて頂き……いいや、たまにかな」
「鳥遊里、早く中へ案内してくれないか? 疲れているんだ」

 呆れたような顔で水咲が言うと、喉で鳥遊里さんが笑った。そして踵を返してから、手を持ち上げて軽く振る。猫には手がないのだが、人型を象っているのだし、手と表現して良いだろう。その角度が、招き猫に似ていた。

「今宵は絶品のマタタビを用意させて頂きます」
「それはお前の好物だろう?」
「そうでした。ええと水咲様の好物は――ご持参なさっておいでのようですが。当店は、持ち込みは推奨しておりません」
「友人だと伝えたはずだが?」

 隣で水咲が歩き始めた。腰に触れて促されたので、僕も進む。他の人々とは異なり、鳥遊里さんは水咲に対しても気さくだ。ただ、僕への扱いが食料となっている。実際、僕は現在、鳥遊里さんの心は読めないし、明らかに『覚』の僕よりも、猫又の彼の方が、強力な力を持ってるように感じられる。だから納得の扱いではある。妖怪社会は、格差社会だ。

 こうして、僕達は『さらしな荘』の中へと足を踏み入れたのだった。