【13】憧れの狐



 二人でお茶を飲みながら、僕は机の模様を眺める。描かれているススキを見ていると、なんだか懐かしい気持ちになってくる。理由は不明だ。僕は過去に、ススキを直接目にした事があったかどうかすら思い出せない。

「鳥遊里が変な事を言って悪かったな」
「いえ。悪いのは鳥遊里さんなので」

 僕は笑顔を浮かべたが、変な事を言われたというのは、訂正しなかった。だって変だ。僕は水咲の奥さんでは無いのだから。

「その……砂鳥は、恋人はいるのか?」
「ここでそういう雰囲気の恋バナに持っていこうとするのは、水咲が真面目に、肉食だから? 食物の好み的な意味じゃなくて、『まだ』僕に手を出していないだけで、予定にはあるから?」

 笑顔のまま、率直に僕は聞いた。外見は人間の十代後半を象っているとはいえ、僕はもう数百歳だ。未確認の不穏な状況下では、迂闊に休めない。

「安心して欲しい。俺には、下心は無い」
「良かった。水咲が水咲で、本当に良かったよ」

 安堵から僕は、全身を弛緩させた。仮に、腕力に訴えられたら、僕に勝ち目はない。

「純粋に話をしたいと思ったんだ。ただ――最近では、藍円寺昼威やアメ様、ここの所は御遼侑眞と話す以外は、会話をしていなくてな」
「僕は妖狐の生態に詳しくないんだけど、一般的には、日常的に雑談するものなの?」
「それすらも忘れて久しい」

 長い時を生きていると、まぁ、そういう場合もあるだろう。頷いて僕は、湯呑を傾けた。

「僕も、誰かと話をするのは好きだよ」
「そうか。俺は別段、好きなわけでは無いんだ。ただ、その……せっかくだからな」
「わかる。せっかく遊びに来たんだしね」
「そう、それだ」

 僕達は、まったりと頷きあった。そこに二匹がいるからといって、それが性差の堺を気にせず恋愛しがちな妖同士であるからといって、必ずしも恋が生まれるわけでは無いのである。うんうん。間違いないよね。

「だが、最初に断っておくが、俺は飲食という意味合いでも肉食だし、『まだ』という意味で、手出しをしていないだけでもある」
「――え?」
「俺の前で、隙を見せるべきではない」

 それまでと変わらぬ声音で、水咲が言った。驚いて、僕は目を見開いた。え……?

「目の前に美味しそうなものがあって、それが食べて良いものならば、俺は食べる」
「そ、そりゃあ、僕だって食べるけど……――ああ、なるほど。僕は美味しそうじゃないんだね、そうだよね?」
「どうだろうな」

 そう言うと、水咲がこれまでとは異なり、揶揄するように笑った。僕は彼の笑顔を、この時、ほぼ初めて見た。こ、これは……口説かれている? それとも僕の自意識過剰? 判断に迷うから、本当にやめてほしい。僕の方が意識してしまうではないか。

「逆に、砂鳥にとって、俺は美味しそうには映らないのか?」
「僕は女の子が好きなんだよ」
「性別にこだわる妖も珍しいな」
「それって、この、新南津市基準?」
「――そうかもしれないが、妖狐は種族的に、好みの相手がいる場合、性別すら変化させて、落としにいく事が多いからな」
「情熱的な種族なんだね」
「よく言われる」

 神妙な顔で頷いた水咲を見据えながら、漠然と僕は、玉藻の前について思い出していた。

「それってさ、僕がお願いしたら、僕の好みの女の子になってくれるって事?」
「――そうしたら、お前を喰わせてくれるのか?」
「え? い、いや……そ、そういう意味じゃ……正確には、深く考えていなかったっていうか……だ、だって! 目の前に、ヤれる美女がいたら、ヤらない?」
「俺はどちらかといえば、男が好きだ」
「水咲の好みは聞いてない! 一般論!」

 僕が声を上げると、水咲が吹き出した。こんな顔もできるんだなぁと、本日は表情豊かな彼を見て思う。普段、絢樫Cafeで見ている時は、どこか物憂げというか、無表情が多いというか、あまり感情の変化が見えなかったからだ。

「一般論か」

 水咲は呟くように繰り返すと、机の上に鳥遊里さんが並べていった徳利に手を伸ばした。僕が見守っていると、その内の片方に手酌した。

「客観的に考えて」

 そして、そう言いながら、僕に酒を注いだお猪口を手渡す。狼狽えながらも、反射的に僕はそれを受け取った。

「親しくなれそうだと思った相手、その後、親しくなったと感じた相手、さらには、より親しくなりたいと感じる相手が、宿屋についてきたならば、食べても良いというお許しが出たのかとは、検討するだろう?」

 それを聞きながら、僕は焦って一気にお酒を煽った。甘口だ……。

「僕をからかって遊ぶの、そろそろやめて?」
「悪い。あんまりにも、砂鳥が初々しいものだから――面白くてな。俺の戯言に逐一真っ赤になる姿を見ていると、気分が良くなる」

 吹き出した水咲を、半眼で睨めつけながら、僕はおかわりを要求した。すると日本酒を水咲が、注いでくれる。

「俺に抱かれるのを想像したのか?」
「ううん。水咲が、僕好みの女の子になってくれる所を想像した」
「そうか。お前は、嘘が下手だな」
「……」
「過去の経験は?」
「……」
「顔が曇ったな。嫌な経験しかないのか」

 それを聞いて、僕はグイとお猪口を煽った。水咲の言う通りである。僕には、嫌な記憶しかない。それは、僕が異性愛者なのだと、強く自分に対して思う理由とも同じである。僕は過去に、人間の男に、嬲られた記憶があるのだ。だからどうしても、同性の男には拒否感があるし、人間は嫌いだ。妖が特別好きだというわけでもないけれど。

 ただ、妖しは、分かりやすい。人間よりも、ずっとマシだ。少なくとも、僕にとっては。

「……悪い事を言ったようだな」
「うん。本当にその通りだよ。反省して、僕に指一本触れないでね」
「それは約束できない。そんな顔を見たら、尚更な」
「――真面目で堅物そうに見えたのに、水咲は変わり身が早すぎるよね!」

 僕が笑顔を再び取り繕うと、水咲が自分の猪口に酌をしながら、唇の端を持ち上げた。

「俺には、な。憧れている狐がいるんだ」
「話を変えた?」
「――星の王子様。知っているか?」
「へ? サンテグジュペリ?」
「そうだ。読んだ事があるか?」
「挿絵だけ眺めた事があるけど、狐? 狐が出てくるの?」
「二十一」
「?」
「俺はお前とであれば、特別な絆を構築するのは、やぶさかではない。だから、続きを聞かせてくれ」
「僕には、どういう意味かさっぱりなんだけど……――続き、かぁ。世の中にはさ、続かない物語や、続かない方が良い世間話は、ありふれていると思うんだよね」

 嫌な過去を、僕は振り返りたくはない。だからそう伝えると、水咲が机の上に肘を載せ、頬杖をついた。

「そうか。ならば、新しく紡ぐべきだな」
「え?」
「嫌な記憶は、塗り替えるに限る」
「……どういう意味?」
「今夜、お前を俺に喰わせてくれるならば、全てを忘れさせてやる」

 その言葉を耳にして、僕は硬直した。