【14】過去の嫌な記憶



「……あ、あの……ご遠慮させて頂きます、というか、水咲は、僕とヤりたいの?」

 狼狽えながらも僕が率直に尋ねると、水咲が吐息に笑みをのせてから、猪口を煽る。

「より正確に言うならば、困って照れる砂鳥を見ているのが楽しい」
「つまり、類稀なる変態さんということだね!」
「否定はしない」

 水咲はそう言うと、猪口をおいて立ち上がった。そして僕の隣に座ると、優しく僕の手首を握り、もう一方の手で猪口を奪った。それから、触れ合いそうなほど近くに、唇を寄せる。僕は、真正面にある彼の唇を、吸い付けられるように見た。

「目の前に、傷ついた顔をしている麗人がいたら、俺は少なくとも、慰めたくなる」
「麗人って、僕のこと?」
「今、ここには、俺と砂鳥しかいないと思うが?」
「……」

 僕は、水咲が豹変したものだから、真っ赤になってしまった。悔しい。なんとなく僕の中で、水咲は、安全な存在だとメモされていたのだ。だが、考えてみれば、安全な妖など存在しないのである。

「っ」

 水咲が僕の腰に腕を回し、体を引き寄せた。唖然として、僕は目を見開く。すると覗き込まれて、唇が本当に触れそうになった。水咲の髪が僕の頬を撫でる。もう一方の手で、水咲が僕の頬に触れた。

「本当に嫌ならば、止める。嫌か?」
「うん。止めて」
「即答か」

 吹き出してから、あっさりと水咲は僕を解放してくれた。

「――まぁ、なんだろうな。二人きりで宿泊しているのに、手を出そうとしなかったというのは、それはそれで失礼だろう?」

 僕は曖昧に笑うしかない。はっきり言って、手を出されなくて、全然構わない。なにせ、僕には、体を重ねるというのは嫌な記憶しかないからだ。

「しかし、純情だな」

 そんな事を言ってから、水咲が元の席に戻り箸を手に取る。
 その後、僕達は料理の感想を述べながら、食事を楽しんだ。

 ただ――その最中、僕はずっと、思い出していた。
 過去に、人間に体を暴かれた、嫌な記憶について。

 僕が初めて、人間の形を象ったのは、この国が暦を、明治と変えてからだった。ただ、僕がいた田舎は、江戸との連続性しかなくて、なんの変化も、外見上にはなかった。武士すら存在しないど田舎だったから、ちょんまげについて、僕は気に止めなかったのかもしれない。

 人間の元号は、江戸から明治に移ったらしかった。その時の僕は、人間には視認できない粒のような光を象っていたのだと思う。ただ、たゆたっていた。そんな僕の唯一の楽しみは、山間にある露天風呂の、湯気に紛れて漂っている事だった。人のような体は無かったから、一度も入ろうと思った事は無い。

「――ということが、今日あったんだよ」

 その温泉には、毎日ひとりの人間が、入浴に訪れていた。
 そして彼には、僕の姿は見えないはずであるから独り言なのだろうが――毎日、その人は、その日起きた出来事を呟いていた。

「まったく、近代化など名ばかりだ。それならば、ウィリアム・シェイクスピアを翻訳する方が、ずっとずっと、ずーっと、俺達の生活は豊かになるのになぁ」

 その人間は、そう言うと、持参した布をギュッと握った。僕には、彼が何を思って、どういった趣旨で発言してるのか――さっぱり分からなかった。人間の心を読み取れる、それが特性の、『覚』の僕は、実を言えば、そんな初めての事象に狼狽えていた。

 人間の心を、読み取る事が出来ない。
 それは、初めての経験だったのだ。

「それに、ただの病者を、憑き物筋だとして座敷牢に閉じ込める文化。この田舎をすみずみまで見わたすと、嘆かわしい事しかない。一体どこが近代的だと言うんだ」

 人間はブツブツとそう言うと、温泉の上に浮かべた盆を見た。猪口と徳利が乗っかっている。そして僕が、見えるわけでもないはずなのに、猪口を手に取ると、こちらに向かい傾けた。

「この国の、誠たる近代化のために必要なのは、情報だ。人々は、それを手にする事ができないでいる」

 ただたゆたっていた僕には、彼が何を言いたいのか、さっぱり理解できないでいた。
 彼は無造作に切りそろえた黒い髪をしていて、その下に、大きな黒い瞳が見て取れる、端正な顔立ちの青年だった。

「だから――俺は、新聞社を作る。より多くの人に、事実を伝えなければな。それが、俺にできる事柄だ」

 シンブンシャとは何なのか、僕にはわからなかった。ただ、明るい未来を捉えるかのような彼の視線が、僕にとっては心地が良かった。

 そんな僕と、彼の視線が交わったのは――それから八十年が過ぎた頃の事だった。

 彼は、人間としての一生を終えた。温泉に入りに来なくなって、もう長い時が過ぎていた。ただ僕は、人間の噂話を読み取る事が出来たから、彼が死に際にいると、すぐに悟った。

 僕が、一方的に彼を知っているだけの関係だった。ただ、それでも僕は、もう二度と会えなくなるのだと思った時、彼の死に際に――立会いたくなったのだ。寿命のない僕が、これからは、この国の先を見ているからと、伝えて安心させたいと思っていたような気もする。だから、僕は人の形になった。彼に見える形に、なろうと必死だったのだ。

 しかし――間に合わなかった。

 彼の家に僕が到着した時には、線香の匂いが香っていた。
 ――人間は、簡単に死んでしまう。
 その事実を改めて噛み締めた、その時だった。

「――お前」

 何者かが、僕の後ろに立った。その者が、僕に触れた瞬間、僕は何が起きているのか、分からなかった。

「お前、覚か? あの、覚か?」
「……」

 得たばかりの人間の視覚を用いながら、僕は混乱していた。そんな僕の手首を握り、僕に触れた人間は、嘆息する。

「ここまで来てやる程度には、叔父様を意識してはいたのか」
「……?」
「しかし、遅かったな」
「……」
「叔父様は亡くなった。叔父様を思うならば、その体、少しはこの、椿沼の者に差し出すがいい」

 僕は、何を言われているのか理解できなかった。そのまま、人間の形になった僕の手を引き、その人間は、僕を納屋へと連れて行く。そうして藁の上へと突き飛ばされた直後、僕は人間に囲まれた。

「叔父様を温泉で拐かしていた妖だ。あとは、存分に」

 状況がわからないままで、僕はそんな人間の声を聞いた。



 ――その後は、嫌な記憶しかない。僕は、ローラに解放されるまでの間、痛みに耐えた。それは、肉体的な苦痛ではない。元々が人の身では無い僕にとって、意識すれば痛みはすぐに『存在しないもの』へと変わった。だが、心の痛みは消えなかったのだ。


「貞操が硬い妖に会ったのは、久方ぶりだ」

 水咲の声で、僕は我に帰った。確かに妖は、貞操観念がゆるい存在が多いかも知れない。一般的な考えと比較するならば、特定他者を選ぶ、ローラや火朽さんといった僕の周囲は、妖の中では一途な方だと言える。

「水咲は、この新南津市の将軍様のような存在なんでしょう? それなら、相手には困らないんじゃないの?」
「実際の人間がどうだったかは知らないが、周囲が勧めてくるという意味では困らない」
「自主的な恋愛には困ってるの?」
「いいや。良いなと思った相手がいたら、俺は積極的に行動へ移す方だ」

 上品に箸を動かしながら、穏やかに水咲が笑う。僕は、その言葉が嘘ではないと、確信していた。やはり僕はからかわれていたのだ。積極的な妖しが、僕を選択する必要は無いだろう。

「その点、御遼神社の血縁者の人間は、奥手で困る。見ていて、やきもきする」

 それを聞いて、僕は顔を上げた。

「ローラが言ってたよ。昼威先生が、最近、御遼神社に入り浸りだって」
「藍円寺昼威に――十年以上かけて、御遼侑眞は、ようやく告白したんだ。妖とは異なり短い一生を生まれながらに決定されている人間にしては、非常に長い時を待ったと言える」
「両思いになったんなら、良かったと思うよ?」
「――御遼侑眞は、そうだろうな」

 どこか含みがある口調で呟いてから、水咲が甘い日本酒を舐めた。

「しかし、御遼芹架は……果たして、思いを告げるまでに、何年かかる事になるのやら」
「え? 芹架くん?」
「藍円寺斗望が大切で仕方が無いらしい」

 僕はそれを聞いて、暫しの間考え込んだ。僕は、斗望くんが誰かに恋をしている思考を読み取った事は無い。そんな斗望くんの思考に登場する、『非常に親しい相手』は、おもに二人だ。一人はそれこそ芹架くんである。しかし、もう一人、斗望くんが頻繁に思い浮かべる相手が居るのだ。

「瀧澤冥沙(タキザワメイサ)ちゃんって知ってる?」
「知っている。藍円寺斗望と御遼芹架の、幼馴染の少女だ。瀧澤教会の娘だ」

 それを聞いて、僕は大きく頷いた。玲瓏院と御遼神社に次ぐ、第三位の実力者――と、多くが考えているのは、瀧澤教会という、プロテスタント(?)の教会らしい。

「しかし瀧澤冥砂は、御遼芹架を好いている」
「え?」
「人の世の三角関係という事象となるな」

 思わず僕は、目を丸くした。僕は、冥砂ちゃんという女の子を、直接見たことがまだ無い。

「過去、藍円寺昼威には、女性の恋人がいた事がある。その度に、御遼侑眞は、非常に怖い顔をしていた。御遼芹架も、荒れるのだろうか――いいや、御遼芹架は、自分の気持ちを押し殺す努力をするのだろうか。御遼侑眞も、初めはそうだった」

 御遼神社の人間達を、これまでの間に見守ってきたらしい水咲を見て、僕は腕を組む。

「藍円寺のお宅の人は、鈍いの?」
「どうだろうな。藍円寺昼威は、鈍かった。藍円寺享夜は、どうなんだ?」
「昼威先生はともかく、藍円寺さんは、鈍いというか――藍円寺さんの中で、ローラは天使扱いだからね。まさか天使が自分を見るとは、というような感覚かな」
「藍円寺享夜もよく分からない性格の持ち主だな」
「ずっと見てると、わかりやすいんだけど」

 僕は、藍円寺さんのフォローをしようと試みたが、無理だった。僕には信じられない。あの、性格が悪魔のローラを、天使だと感じる、藍円寺さんの感性がさっぱり理解できないのだ。そこまで考えて、僕も、水咲同様、よく分からないのだと気が付く。

「――砂鳥」

 その時、水咲が改めて僕を見た。

「何?」
「やはり、俺はお前を抱きたいらしい」
「え?」
「お前が――あんまりにも辛そうな顔をしているのを見ていたら、抑制が効かなくなりそうでな。今すぐ、全力で逃げるか、覚悟を決めてくれ」
「へ?」
「全て、俺が忘れさせてやろう」
「っ……忘れさせるって……」

 僕が狼狽えていると、片手に猪口を持ったままで、水咲が立ち上がった。そして僕が呆然と見ている内に、静かに僕の横へと座り直した。

「後悔はさせない」
「な……」

 驚いた僕の手首を軽く握ると、水咲は自分の猪口を机に置き、僕からも取り上げた。それから僕の腰に腕を回すと、唇を触れ合いそうなほど近くへ寄せる。

「絶対に、嫌か?」
「……、……そ、その……責任を取れと言うつもりもないけど……絶対に嫌なわけじゃないよ。ただ、この後が怖いんだ。寝るのは簡単でも、同じくらい簡単に、僕達の関係が変わってしまうかもしれないでしょう?」
「責任は取る。関係も変えるつもりだが」
「僕は、どちらかといえば、責任を取らなくていいから、今まで通りの関係が良いんだよ……」

 率直に僕は伝えた。はっきり言って、この状況ならば、一夜のあやまちを犯す事に、僕はそこまで抵抗はない。だが、その先に、水咲と恋人関係になるだとか、お客様と店員以上の関係になるだとか、そういうのは、僕は望んでいないのだ。残念ながら、僕は純粋な妖では無いのである。

「……」

 僕の言葉に、水咲が押し黙った。それから、静かに視線を逸らす。

「失恋した気分だ」
「あ、あはは」
「確かに絢樫Cafeの茶は美味い。だが、それだけを理由に、通っていたわけでもないからな」
「芹架くんの護衛でしょう?」
「――それは、ある。だが……そうか。ここまで伝えて、拒否されたのでは、面白くはないな」
「僕、面白味のある妖では無いからね! というわけで、僕の心は手に入りません。だから、体もいらないんじゃないかな?」

 それとなく僕が伝えると、吹き出すように水咲が笑った。そしてそのまま、僕を畳の上に押し倒す。

「いいや。体だけもらっておくとする」
「虚しいとか思わないの?」
「虚しさと、目の前にある美味しい食べ物の話は、俺の中では交わらない。同意を得た以上、味見くらいはさせてもらわないとな。そして今は、別の動機ができた。快楽は、嫌な記憶を塗り替えるには最適だ」

 僕は慌てて水咲を見上げる。

 ――雷が轟いたのは、その時の事だった。

「「!!」」

 水咲が僕を庇うようにして、抱き上げると横に退いた。僕は、焦げた畳を見ながら――この雷が、ローラが落としたものだと理解していた。なにせ畳が、雷により、『砂鳥に手を出してはいけません』という形に焦げていたからである。

「……ローラという吸血鬼は、藍円寺享夜と恋仲なんだろう?」
「うん。そうだよ。だけど、僕を守ってくれる存在でもあるんだよね」

 その後僕達は、駆けつけてきた鳥遊里さん達と話しつつ、朝を迎えた。