【0】黎明のarchaea



 俺の仕事は――こと、今回にあっては、拷問官だ。

 ……聖職者は、無論、生ける物を傷つけてはならない。
 だが、生きていない物は、その限りではない。

 よって、『吸血鬼は存分に傷つけて良い』というのは、俺が生まれながらにして、刷り込まれてきた信念だ。今回に限らず、対吸血鬼戦闘においてであれば、俺はいつだって拷問官と言えただろう。

 概念的には、俺は恐らく、刷込や洗脳といった手法を用いて、感情をコントロールされているのだと分かる。だが、俺にとって吸血鬼は、生き物ではない。

「嫌……っ、やめて……」

 泣きじゃくる、俺と歳が変わらなく見える、幼い少女姿の吸血鬼は、外見上は何も人間と差異が無い。パチンとバタフライナイフを広げた俺は、無感情に、そんな吸血鬼を一瞥した。吸血鬼の力を無効化する、仏諜報機関DGSEが開発した、特別な銀製の手錠が、高い音を奏でている。

 恐怖から血走った白目、涙が止めど無くこぼれ落ちていく頬。

 理性では理解できる。この『人間の子供と同じ姿』をした存在が、恐怖し、助けを請い、死にたくないと訴えているのだと。そして吸血鬼などという非科学的な、それこそ民間伝承の中における架空の存在など認めない人間が見たならば、即座に拘束されるのは己の方であるとも理解ができる。

 吸血鬼に歩み寄り、俺は華奢な左手を持ち上げる。それから握るように、吸血鬼の人差し指を、左手で握った。右手では、バタフライナイフを、第一関節へとあてがう。

 ――誰も、非人道的だとは言わない。

 吸血鬼を殲滅しない事こそが、人類への冒涜であると、俺は教わって生きてきた。善悪の観念など、既に麻痺しているのかもしれない。躊躇う事なく俺はナイフを引いた。少女が絶叫しているが、この時には既に、俺の三半規管は麻痺してしまったかのように、人ではないその存在の声を拾わなくなっていた。あるいは――聞きたく無かっただけなのかもしれない。

 左手の人差し指の第一関節から肉を削ぎ落とし、最後は骨を切った。ナイフからは特殊な酸が滲み出ているから、楽に切断可能だ。暗いこの地下牢において、黒く見える血飛沫が、俺の顔を濡らす。だが、目深に被った帽子と、暗視ゴーグルのおかげで、皮膚に直接的な被害は無い。

 俺にとって少女の鮮血は、ただの邪魔な水滴だ。
 直ぐに、二本目の中指に取り掛かる。

 本日の俺の任務は、この少女姿の吸血鬼の、右手五本の第一関節から先を、全てそぎ落とす事だ。滑稽で下らない部類の仕事である。何の感慨も抱く事は出来ない。黒く見える吸血鬼の指の肉にも、そこから覗く骨の白にも、絡みつく黄色い脂肪の線にも、そのいずれにも、憐憫など想起しない。

 涙と鼻水と涎が入り混じった吸血鬼を見れば、痛覚があるのは理解できる。他にも、人間と吸血鬼の類似点として、思考や感情がある事も、既に判明している。だからこそ、こうして古典的な手法で拷問を行っている。

 この吸血鬼に罪はない。偶発的に別の吸血鬼に噛まれ、その後は他の人間を噛む事もなく、街の空家の片隅で蹲っている所を、俺が所属する機関が発見しただけだ。緩慢に瞬きをしながら、俺はその事実を思い出す。だが――吸血鬼とは、存在が罪なのだ。よって、元々の『この吸血鬼に罪はない』という前提が誤っていたのだと、考え直す。

 ――早く楽にしてあげれば良いのに。

 俺の中で、悪魔の声が囁いた。生きてはいない吸血鬼にも、『死』は、在る。完全なる活動停止を、我々はそう表現している。我々というのは、この機関に所属する、対吸血鬼専門部隊の人間全ての事だ。

 床を一瞥し、俺は落下した人差し指の肉を見た。蠢いている。元の位置に接着すべく、振動している。他の血液も融合するように集まっていく。それらは群となり、やがて床で手の形を象り始めた。これは吸血鬼の思考が、自分のその部位を、人間の少女の手と同一だと考えているがために起きている現象だ。吸血鬼の血液には、旧源菌(アルカエア)と呼ばれるある種の系統が見られるのだが――それは、どの『生物』の持つ系統とも異なる。

 最も似通っているのは、原核生物だろうか。我々の機関では、吸血鬼の実態は、変化した血液中の旧源菌(アルカエア)だと捉えている。理論的には、旧源菌が、吸血鬼の牙により、人間の血液に注入されると、人間は死亡し、その後は旧源菌がその者の体を操作するのだと――提唱されている。ただ旧源菌は、意図的に、脳機能のみ保全する。これは蟻を操るある種の菌と類似した働きだ。人の脳機能が保たれている方が、旧源菌にとっては有益らしい。しかし本来、肉体が死すれば、脳機能もまた損なわれる。

 現在、解明出来ていない吸血鬼に関する事柄としては、三つある。一つ目は、何故旧源菌が、人の脳機能を保全するのかという疑問だ。二つ目は、何故旧源菌に感染すると、死した肉体が再生能力を保持するようになるのかという問題である。最後に、三つ目であるが、理論上仮定されている旧源菌が、いかなる手法においても、未確認であり、推論の域を出ない――即ち、どうすれば旧源菌を確認できるのかという、命題だ。

 仮に旧源菌を確認できたならば、その時点で、この行為は、吸血鬼に対する戦闘行為では無くなる。未知の旧源菌という存在に冒された死体の処理と、名前が変わるのだ。あるいは、病者への屠殺処置となる。病者は生者だ。つまり、俺達は人殺しだという事になる。

 この観念――自分達が人殺しでは無いかと、人間を恐怖させる事を目的として、旧源菌は、敢えて脳機能を残し、人と類似した言動を肉体に取らせているのでは無いか。

 この一連の考察を俺達の機関に齎したのは、吸血鬼研究の第一人者である、ブラックベリー博士であると言う。

 確認する事が出来ないにも関わらず、俺達人間も、この系統が存在すると、認める以外の術がない。証明する事が出来なくとも、存在する事を、本能的に理解している。そして、目の前には、現にこうして吸血鬼が存在している。

「オロール卿は、何処だ?」

 痙攣している吸血鬼に、俺は問いかけた。これが、ここ連日の拷問の主題である。初日は、指の皮膚を、一本ずつ剥いた。二日目は、爪を引き抜いた。そして三日目の本日が、第一関節の切断だ。明日は、第二関節、明後日は手の指の全てを切り落とす。では、五日目は? 足に移る。その後は? 顔の部位だ。既に死している吸血鬼は――そのような拷問にかけてもなお、死なない。このままならば、この少女姿の吸血鬼に待ち受けるのは、肉塊と等しい姿のままでの、永遠の生だ。

 吸血鬼を殺害する方法は、唯一だ。人間の血液を摂取させない事である。

 しかし、この少女姿の吸血鬼の首筋には、輸血用の血液パックが突き刺さっている。傷つける手法は、古より伝わる特別な銀など用いるまでもなく、こうして対人時と同一でも問題は無い。問題は、彼らが、『死なない事』及び『人間を食料とする事』である。

「Il est au Japon」

 震える唇でそう紡ぐと、吸血鬼は意識を落としたようだった。