【1】『妻』との出会い




 ――嫌な夢を見た。

 俺は目を見開いて、玲瓏院家の天井を視界に捉えた時、今の光景が全て、『過去の出来事』だったのだと気づき、全身を震わせた。びっしりと汗をかいている。それが冷や汗なのか、それとも熱感を伴っているのか、一時的に意識できないほどに、俺は動揺していた。

 そう……今の光景は、『夢』だ。

 現在の俺は、玲瓏院縲(レイロウインルイ)という名の、一介の日本人男性である。ここは、フランスでは無いのだ。こめかみに張り付く金髪を、指でくしゃりと撫でるように持ち上げる。戸籍的には日本人であり、血縁的には、俺はクォーターである。金髪と一口に表しても、俺の場合は、祖母のプラチナとは異なり、ダークブロンドだが。

 俺は祖母を、写真でしか目にした事が無い。

 移民政策化で困窮していた元第二身分――白色人種と古の爵位を誇りとしていた我が祖母は、最も大切な誇りを、俺から見ると売り飛ばしたと言える。旧とはいえ、仏貴族社会にあっては蔑みの対象ですらあるが、金で家柄を売り飛ばしたのである。それも、婚姻などというような、生易しい階級移動の手法では無い。己の卵子を売り飛ばしたのだ。

 購ったのは、DGSE――仏諜報機関に属する、対ル・ヴァンピール特殊部隊の研究班だった。そして、協力関係にあった、日本国CIRO――内閣情報調査室庶務零課から精子提供を受け、実験として、『日本で言う所の霊能力が強い子供』を生み出した。それが、俺の父だ。DGSEは、各国の『スピリチュアル』な力……国連定義の霊性とは異なる意味合いにおける、それこそ『能力者』を求めて、人工授精を繰り返したようである。

 そうして生まれた――生み出された父は、第一身分……三部会の制度を引きずっていた、聖職者家庭に生を受けた母と恋に落ちた。母もまたプラチナブロンドだった。俺のこの、日本人離れした髪の色は、父の暗い髪の色と遺伝学を考えるならば、母譲りでは無いが――少なくとも、三歳まで、俺は愛を疑う事なく育ったはずだ。

 しかしながら、実験体かつ戦力と、単体戦力であった、父と母は亡くなったと聞いている。死因は――吸血鬼に、喰い殺されたそうだ。今となっては、この事実関係すら、俺には不明だ。なにせ、俺の最古の記憶は、DGSEの面々が、幼い俺を迎えに来た光景なのだから。

 以降俺は、ただひたすらに、吸血鬼を排除しなければならないとして、育てられた。どのようにして拷問し、どのようにして殺傷し、どのようにして人類を存続させていくか。それが俺にとっての全てであり、他の世界は存在しないと言えた。

 愚鈍に歩く通行人を見る度に、俺は感じたものだ。
 ――吸血鬼という脅威がすぐそばにいるのに、知る事も叶わず、平和だと妄信している、愚かで哀れな存在だ、と。

『Il est au Japon』


 ――彼は、日本にいる。

 少女らしい吸血鬼の声が蘇った。契機が訪れたのは、まさにあの『拷問』の頃だった。俺はあの頃、『オロール卿』と呼称される、ディフュージョンされている国際手配書『深緋』の吸血鬼を追いかけていた。Auroreは女性名詞であるが、歴とした男性型吸血鬼である。オロールは、この国では、黎明という意味だ。現在では、その者は、『夏瑪夜明』と名乗っているらしい。端緒、俺は、仏諜報機関より、オロール卿の討伐のために、この日本という国へと派遣された、祓魔師(エクソシスト)だったのである。

「ねぇ、精子を売ってくれない?」

 初任日に、俺はそう声をかけられた。てっきり、仏での噂を、その日本人女性も耳にしているのだろうと考えた。聖職者(エクソシスト)である俺は、一度でも姦淫の罪を犯したならば、永劫、この身に宿る力を使う事が出来なくなる。大和撫子は過去の幻想だという言説が誠であり、現代の日本人女性が獣に成り下がった事を、俺は嘆こうとした。だが、彼女は言った。

「そうすれば、貴方の人生の借金の半分は返せるもの。人生は謳歌しないと勿体無い!」

 ……その言葉を聴いて、俺は初めて彼女の顔を正面から見た。
 白い肌に、そばかすの痕が残る、俺よりも十歳年上の女性だった。
 当時、俺は十三歳だった。

「知ってるの、私。ルイくんは、大叔父様達の借金が終わるまでの間、DGSEで働かなければならないんでしょう? 大叔父様が、精子提供をしたと聞いたの。つまりルイくんと私は、またいとこ」
「それが、何?」

 その時の俺は、目を細めて、無表情で返答した自信がある。

「DGESがね、私とルイくんの子供を作るならば、これからは、ルイくんを日本国籍にしても良いと話していたんだって!」
「――体の良い厄介払いか」

 ポツリと、俺は返した記憶がある。移民政策への反対という世論が巻き起こって久しかった。いくら『能力』があろうとも、国策に合致しない人間など、存在価値は無いのだろう。別段俺は、驚かなかった。そもそもが、大別するならば基督教徒がしめる仏において、異教徒の血が混じっているにも関わらず、『敬虔』だとされる自身の方に違和すらあったからだ。

「……そんな事は無いと思うよ?」
「それで? この国で、俺を引き受けて貰う条件は?」

 淡々と俺が聞くと、彼女は両頬を持ち上げた。

「まずは、私のお婿さんになってもらいます! いやぁ、玲瓏院家は今ね、私しか後継者がいなくて困っちゃってるんだ」
「婿? この国の戸籍制度について、俺は何一つ詳しくは無い。好きにして。後は?」
「……、……子供を、作ります」
「へぇ」

 俺が適当に頷くと、彼女は笑みを強ばらせた。東洋人は若く見えると耳にした事もあるが、俺はそうは思わない。149cmの僕の身長と、彼女の身長は、ほぼ同じだ。しかしながら、肌ツヤを見る限り、僕は子供と表するに相応しいが、彼女は老化している。

「俺に、おばさんを抱けっていうの?」
「私まだ、二十三歳なんですけど」
「僕は十三歳だけど?」
「……ええと、人工授精します」
「生殖可能だけど――とすると、能力を遺伝させつつ、俺にも力を残したいんでしょう?」
「え、ええ、まぁ」
「採取してくるから、精液採取キットを」

 慣れていたので俺が伝えると、彼女は呆気にとられたように目を丸くした。それから赤面した彼女を見て、その時になって俺は、初めて気がついたのである。見た事こそあったが、一応同僚である彼女の名前すら知らない事に。

「名前は?」
「紗衣(サイ)です!」
「俺は、ルイ・ミシェーレと言うんだ」
「知ってます! お婿さんになってもらった場合には、『縲(ルイ)』くんってどうかな!?」
「どうかなと言われても……」

 掌に漢字を書いている紗衣を見て、この日の俺は、多分馬鹿にしていたのだった気がする。彼女というよりも、俺は女性を見下していた。卵子を売り払った祖母と彼女が重なったのだ。記憶に無い母だけが、俺の中で象徴的な女性だった。