【2】じぇっとばばー。




 ――一年後。

 俺は、高速道路で捕まえた老婆を、手術台に拘束していた。この国の、少し前の都市伝説――ジェットババーというらしい。すごい名前だ。その名の通りで、速度制限のある高速道路を、非常に速く走っていた所を、自衛隊に確保された妖怪である。

 妖怪がいつ生じるのかは、まだ解明されてはいないが、都市伝説として噂されるようになった頃には、大概実態がいる。このジェットババーもそうだ。日本国の機密書類には、高速老女と書いてあるらしい。しかしながら、男型もいるかもしれないとして、また、『ババー』は差別用語ではないのかとして、この国の官僚達は長きに渡り話し合いをしていた。暇そうである。

「ルイくん!」

 その時、会議室の扉が、音を立てて開け放たれた。俺が視線を向けると、そこには紗衣が立っていた。

「生まれたよ! 代理母だから、私、立ち会ったんだけど、本当に良い、もう一人のお母さんだった!」
「?」
「私達の子供! 双子! 絆と紬にするね!」
「は?」

 俺はこの時、一年前の話など、すっかり失念していた。逆にこの頃になると、玲瓏院紗衣という名前の彼女の頭が奇天烈であると、俺は学んでいた。やる事なす事意味不明なのである。

「会議なんて放っておいて、早く来て!」
「……」

 正直な話、『何言ってんだこの馬鹿』と、俺は思った。ジェットババーは、名前も政府対応も適当であるが、一度事故を起こしたら、凶悪な存在だ。

「早く!」

 しかし、彼女が叫ぶ。俺が無表情を保っていると、会議室の視線が集まった。俺はもうすぐ十四歳になる子供だが、この国の官僚達から見れば、異国から来たエリートらしい。

 説明用のモニター脇にある手術台と入口を、俺は交互に見た。

「れ、れ、玲瓏院のご息女のお言葉ですしなぁ」
「そ、そう! 紗衣殿の!」
「ミシェーレ氏は、婿殿だとか……」
「ええ、ええ、我が派閥も心得ておりますぞ!」

 しかし、日本の政治家達は、机の上の書類と紗衣を見比べた。誰も俺の事は見なかった。結果、二分後には、俺は、会議室を追い出された。

「……」
「行こっ、ルイくん!」

 二十四歳になったらしい玲瓏院紗衣は、俺の手を握ると、恋人同士のように繋いだ。その柔らかさが――気持ちが悪い。これまでの間に、俺の周囲に、このように柔らかく暖かいものは、殺害対象しかいなかったからだ。

「ルイくん?」
「離せ」
「やだ」
「……じゃあ、死ぬ?」

 投げやりに俺が聞くと、紗衣が驚いた顔をした。それから彼女は眉を吊り上げた。

「冗談でも、そんなこと言っちゃダメなんだよ。この国では、特に! 言霊っていうのがあるんだからね」
「それ、神道の概念なんじゃないの? 君さ、仏教徒でしょ」

 俺は的確な指摘をしたつもりでいた。しかし――直後に軽く頭を、撫でるように叩かれた。まさか、彼女が手を挙げるとは思っておらず、俺は目を見開いた。

「関係ないわ」
「っ」
「死んだら、全部終わりなんだよ。何を犠牲にしても、生きなきゃダメ」
「……」
「良い? ルイくんも、何よりも、自分の命を大事にしてね。そうしてこそ初めて、命を奪う他者を、怒って良いんだからね!」

 その後、彼女は破顔したのだったが、俺の胸は妙に疼いていた。

 ――この年、俺には、彼女との間に、人工授精で二人の子供が生まれた。しかしながら、日本という国において、十四歳の俺は、妻帯できない。よって、手続き上、十八になれば婚姻できるように、戸籍を用意してもらう事が叶った。仏に、戸籍が無かったわけではない。より、婚姻しやすい状況を整えてもらったというのが相応しい。

 例えばそれは金銭面だ。これは、分かりやす過ぎるか。
 紗衣は――とにかく、俺が求める事柄を、一歩先を回るように処理してくれた。

 だが。

 だが、それがなんだ?

 彼女の行いは、俺にとっては、無価値だった。平穏に暮らせる事、安寧など、俺は求めてはいなかった。俺が理解できるのは、白と黒だけだった。それはあるいは、生と死だ。血肉を柘榴のように、切り刻む時だけが、俺の生きている瞬間だったと言える。

 いつか、仏の書評家が寄稿しているのを見た。

 グロテスクな描写を飲食描写と重ねるのは、酷く下品であると。対談していたこの国の小説家は、直近の著作で、脳症とストロベリーを混ぜ合わせていた。俺は思う。滑稽だと。しかし俺の意見は、誰も、耳を傾けてはいないのだ。

「離せ」
「早く私達の子供を見に行こ――」
「お前が勝手に生んだ子供だろう。いいや、産みすらしなかったのか、俺を付き合わせるな」

 そう告げて俺が手を振りほどくと、彼女が奇妙なものを見るような顔をした。

「ルイくんは、私に生んで欲しかったの?」
「――は?」
「私はそれでも、勿論構わないけれど」
「何の話をしているんだ?」
「だって、不貞腐れているように見えるんだもの」

 俺はそれを聞いて、掌に爪を突き立てた。本当は、俺を馬鹿にしている彼女を殴りつけたい衝動にかられたのだが、仏人の男として、弱者の彼女を嬲る自分が許容できなかっただけだ。

「だけど、そんなルイくんが、好き」
「……黙れ」

 俺がそう吐き捨てた時、俺達がいる場所からよく見える場所を、ジェットババーが走り去っていった。辟易した気分になる。すると、紗衣もまた溜息をついた。

「ひらがな、って、感じ」
「ひらがな?」
「ニュアンス。気が抜けた」

 彼女が何を言いたいのか、俺にはさっぱり分からなかったのだった。