【序:新】白い箱あるいは部屋の名





 目が覚めたら、白い場所にいた。足元、頭上、左右――そこは、白い箱のような空間だった。木で出来た、背もたれのある、四つ脚の物に、俺は座っていた。『それ』の『名前』が、『椅子』だと思い出すのに、数分がかかった。

 ――名前?
 ――思い出す?
 ――数分……それは、時間?

 そこで気づいた。この空間は、『部屋』と言うのだ。
 おぼろげに、状況認識を俺は始めた。だが、『俺』は『俺』が何者なのか、分からない。俺自身の事は思い出せず、名前も分からない。目を開けたらここにいたわけであるから、何時から自分が座っていたのかも分からない。

 自由になる両腕を動かし、俺は自分の掌を見た。足は僅かに開いた状態で、椅子の脚に固定されている。俺の全身の肌が、部屋の空気に触れている。暖かくもなく、寒くもない。

 この場所に在るのは、俺と椅子――そして、気づいた事としては、真正面に黒い物がある。透明な丸い部分がはめ込まれている。三本脚の器具で、それは固定され、俺の方を向いている。あの品の名前は分からない。全体的には四角くて、隅に赤い光と文字があり、『REC』という記号が見える。

 俯いた俺は、足の合間からぶら下がっている部位を見た。それは長く萎れていて、先端が少し独特の形をしていた。首の長い鳥の首元に似ている気もしたが、『鳥』とは何なのか、すぐに分からない事に気がついた。

 何も分からないのに、いくつかの『名前』が勝手に浮かんでくる。
 同様に、俺はその部位の名を思い出した。『ペニス』――と、『教わった』ではないか。

 しかし『教わる』という事がどういう意味だったのか、唐突に分からなくなった。それは、『誰か』から『聞く事』のように思うのだが、俺は一人しかいない。俺しか存在しないのだから、俺が考え俺に教えたのかもしれない。いいや、俺が存在するのだから、どこかに『俺以外』も存在するのだろうか?

 分からない。何も、分からない。だが、分からない事が自然であるように、俺には思えた。そう――俺は、『何も思い出せず理解出来無い状態で一人で座っている事』が、常であり自然なのでは無かったか?

「俺の自由になるのは、この二本の腕と、首……それと、ペニスか」

 まずは、首に手で触れてみた。それからペニスを握って、持ち上げてみた。何の反応も見せていない。ただペニスは首と違って腰を使わなければグルグルと回せる気がしない。だから手で握り動かしてみた。自分の体の確認をしようという意識だった。

「っ、ぁ……」

 すると少し大きくなり、同時にじわりと熱――快楽が浮かんできた。
 もっと、気持ち良くなりたい。そしてペニスに刺激を与えれば、そうなれる。
 そう考えた俺は、手の動きを早めた。

「ぁ、ァ……っく」

 そうしたら、背筋をゾクゾクとした快楽が走り抜けた。ペニスは、どんどん硬くなっていく。暫く浸っていると、先端から透明な液が溢れ始めた。それが気になって、出てきた箇所を親指でなぞってみたら、さらに気持ちが良くなってしまい、俺はそこを重点的に刺激した。

「あ、あ、イく」

 気が付くとそう口走っていたが、俺は『イく』というのが、どういう事なのか、分からないでいた。しかし熱がペニスに集中していて、何かが放たれ用としているのは理解出来た。ああ、体が蕩けてしまいそうだ。喉が震えそうになる。

 何かがせり上がってくる感覚、そう、これが『快楽』なのだ。俺は確かに『覚えている』ではないか。俺の肌が、体が、本能的にこの状態を知っている。そう理解した瞬間、椅子に触れている俺の肛門という部分が、ヒクヒクと動いた。ギュッとそこに力を込める。内部が蠢いている感覚がする――ああ、『欲しい』。そうだ、ペニスを弄るだけでは、足りないのだった。でも、ここには俺しかいないし、腰もまた椅子から回る紐のようなもので動かせないようになっているから、指を挿入する事も出来無い。

「ぁ、ァ……ああ」

 ペニスを擦る手の動きが早くなってしまう。これだけでは『足りない』のだが、それでも、気持ち良いのは間違いない。

「もう、ぁ……――ああア!!」

 その時、俺の先端から、白液が飛び散った。荒い吐息を繰り返しながら、俺は一気に静かになった全身から力を抜く。だがそれは一瞬の事で、明確に後ろを刺激されたいという欲望が、今度は俺を支配した。何なのだろう、ここは。

 壁の一角が音もなく消失し、白い衣を纏った『俺ではない人間』が、部屋に入ってきたのは、それからすぐだった。黒い物に近づくと、上部の突起に触れた『彼』は、ちらりと俺を見ると、退屈そうな瞳をした。

「エピソード記憶以外も喪失させようとしたが、失敗か。自慰を覚えていたのか、発見したのか、判断が難しいな」

 白衣の下には、深く濃い、黒に似た緑色の、首元まで覆う服を着ている。首から下がっている紐の先の、透明な四角い板には、『樫鞍』という記号があった。

「俺ではない……お前は、誰だ?」
「――基本的には、きちんと記憶が消えているのか。新(アラタ)」
「アラタ? それは、俺か? ……いいや、俺だ。俺の名前だ。俺は、新だ」

 そこで思い出した。記号だと思っていたものは、『文字』だ。『REC』も文字だ。
 その事を俺に教えたのは、目の前にいる『樫鞍(カシクラ)』だ。
 俺は樫鞍に会う前は、草を編んだ『服』と毛皮から作った品を着ていたはずだ。今、樫鞍が皮膚の上に、服を着ているのと、それは同じ事だったはずだ。俺は、ヒタカミの誇り高き戦士では無かったか? だけど、ヒタカミとは、何だろう?

「次の実験を開始するか。記憶制限は目に見える効果がすぐに得られない事はよく分かったしが、認識の研究には悪くない。また記憶を消去――リセットして、今度は別の感覚を……しかし、リセットか。嫌な言葉だな」

 ブツブツと呟いてから、樫鞍は白い壁の前に向かい、手を当てた。するとそこがまた消失し、彼が出て行くとそこは壁に戻った。こうして俺は、再び白い箱のような空間に、全裸で残された。体の奥深い場所に、物足りなさを感じたままで。

 視界が二重にブレたのは、その時の事だった。俺の意識が暗転した。