【一:水折】楽園研究室と二つの理論






 珈琲の入るカップを傾けたのは、一つの実験を終えた時の事だった。
 ギシリと椅子の背に体重を預けた僕は、無機質な白い天井を見上げて考えた。

「いつになったら、全世界に人は満ちるんだろうな」

 僕はこの楽園研究室において、文明の研究をしている。
 地上に人間を含めた動植物の多くが住めなくなったのは、約千年前なのだという。地下に逃れた僕の祖先達は、再び地上で太陽の下、暮らせる日を願って研究を始めたそうだ。

 居住困難になった原因は、人間同士の争いが原因だ。科学技術により生み出された兵器が、大地を汚染した。一つの世界的規模の文明が滅びるのは、実に一瞬の事だったらしい。データは消失し、紙は朽ち、当時よりさらに古い時代の石版などばかりが現在も残存している。あとは口頭の伝承か。

 生き残った人間達で、地上にいる者は、それこそ原始時代と嘗て言われたような文化状態になったようだ。それを――地下から、僕の祖先達は見ていた。そして、大地の浄化研究と並行して、人間の研究や文明の研究が開始されたのだという。

 ――もう、人間同士の争いが起きない文明でなければ、広がるべきではない。
 ――二度と、大地を汚してはならない。

 その方策として、二つの主張が台頭した。

 一つは、地上において生き残り、少しずつ広がりを見せはじめた人類達に『教育』する事である。脳機能に手を加え、知識制限や思想操作を行い、善良な人類のみを増やすべきだという制限理論だ。

 そしてもう一つが、リセット論である。人間は誤ちを犯す。よって、管理者を置き、誤った道を進みはじめた文明をリセット――滅亡させるという主張だ。僕は、このリセット論派の研究者である。

 制限理論には、自由な思考の余地があまりない。だが、リセット論であれば、自由に行動しても良い。僕は少なくともそう考えている。

 漸く動植物が記録映像の地表に似てきた現在、生き残っている人々の築いた文明は、過去の歴史書における農耕や定住の開始といった所まできている。世界中で、類似した発展を見せている。人間は今、地上においては獣を狩猟する域をやっと出て、洞窟ではなく自分で作った家、それがある集落で暮らすようになった。

 言語は様々だが、文字らしきものが生まれているから、今後は記録や規則制定も始まると考えられている。

 その全てに属する人々の脳機能に制限を加えるというのは――それこそ千年前の兵器を用いる事になる。集団をマインドコントロールする兵器は存在する。今も脳機能に特定指令を下す人工衛星は、地球の周囲を廻っている。

 なお、リセット論で用いる兵器もまた、戦争時に開発されたものだ。だが、こちらは気象兵器であり、自然の力を借り受けるから、大地に傷を付ける事はない。リセット論は、地表浄化研究の一分野でもある。

 僕は、人の失敗を許さないという考えは、好きになれない。ただ、失敗を見過ごす事は、地球のためにはならないから、一定のリセットや修正は必要だと考えている。

 いつか、平和な文明が自発的に生まれたならば、その時こそ僕もまた地上に行けるだろう。そう考えながら、いつも僕は、自分の研究サンプルとして指定されたある文明を見ている。ヒタカミという集落にて暮らしている人々の文明だ。

 僕はそこで暮らす毛皮と草で出来た衣を纏う人々が、嫌いじゃない。

「あー怠ぃ」

 その時、バタンと音がして、左斜め前方の扉が開いた。そこは、制限理論派の研究室で、出てきたのは、樫鞍(カシクラ)だった。僕と同じ歳なのは、この楽園研究室の試験管の中で、規定受精されたからだ。お互いに二十三歳である。地下に逃げた人類は、一定間隔で人工的に数を増やす。僕は生まれながらにリセット派、彼は制限理論派の後継者と定められていた。現在、この楽園研究室には、僕達二人以外の人間は存在しない。だから僕らも死ぬ前には、理論継承のために子供を設ける事となる。そのための卵子の保存や人工子宮装置は健在だ。

「まーた、ヒタカミの奴らは、儀式だのなんだのとほざいて、居もしない神に祈ってる」

 気だるげな顔で僕にぼやいた樫鞍は、黒い前髪をくしゃりと手で撫で上げてから、後頭部を掻いた。僕達は理論こそ違うが、サンプルとして与えられている文明は同じだ。

「早々に思考を制限すべきだ」
「僕はそうは思わないよ。彼らには彼らの個性がある。失敗したら災害で滅ぼせばそれで無かった事に出来るんだから、もうちょっと様子を見ようよ」
「俺にはそちらのほうが残酷に思えるけどな」
「そう?」

 僕と樫鞍は、価値観が違う。眼鏡の位置を直した僕は、カップを置いてから、自分の薄茶色の髪を摘んだ。黒髪黒目の樫鞍と違って、僕の髪と目は茶色だ。

「なぁ、水折(ミズオリ)。俺は、生きている事、命ある事が最大の幸福だと思ってる。お前は個性を制限しない自由の方に、命よりも重きを置くな?」
「うん。どうせ人間の寿命は長くても百五十年だからね。延命装置を使った場合でも」
「それが理解出来無い」
「変な話だね。樫鞍は、お酒も煙草も好きだろ?」
「……好きなことをして、短く太く生きろって言いたいのはわかってる」
「僕から見ればただの依存だけれどね。まぁ、でも、そういうこと」
「確かに俺は自分の自由で嗜好品を摂取している――が、だからといって、死にたいわけじゃない。制限するのは、あくまでも『悪意』や『害』だ」

 そう言うと、樫鞍が、煙草を取り出した。良い香りが出る電気製品である。僕はそれを咎めはしないが、腕を組んだ。

「悪意や害を定義するのは、こちらとなる。そんなものは、それこそ存在しない神を気取った真似事になるんじゃないのかな」
「人命を災害で奪う方が、神気取りなんじゃないのか?」
「僕達のこの会話は、平行線しか辿らないと、過去のやり取りでも分かってると思うけどね」

 眼鏡を机において、僕は立ち上がった。そして樫鞍の隣に立つ。長身の樫鞍は、僕を一瞥すると、顔を背けて煙を吐いた。

「――制限理論の研究で、サンプルを得たんだが、思うような成果がまだ得られていない。思考制限と動作制限のモニタリングをしたい」

 そう言ってから、樫鞍が僕に向き直った。

「ふぅん。それは、ヒタカミから一人拉致してきたという意味合い?」
「悪意ある言い方だとそうなるな。お前は、俺に悪意しかないようだから、他の言い方は想定できないが」
「どうかな」

 残念な話ではあるが、僕と樫鞍はたった二人でここにいる。恋とは本能だ。僕は、唯一知る生身の他者である樫鞍が好きだ。ただ、理論が受け入れられないだけなのだ。けれど、それを表に出せないでいる。長らく僕は、無表情を貫いている。

「奥の実験室に一人、入れた。邪魔はしないでくれ」

 樫鞍は、そんな僕の気持ちには気づかない。多分一生そうなのだろうと、それで良いのだろうと、この時の僕は思っていた。