【二:樫鞍】愛ゆえに素直にはなれず





 ――愛は、人を傷つけると、俺は思う。

 相容れない理論を語る、水折(ミズオリ)の存在を強く意識するようになったのは、俗に言う思春期の頃だ。普段性的な気配がしない水折の部屋に、驚かせようと気配を殺して向かったあの日、自慰をしている所を目撃してしまった瞬間だ。

 白い華奢な手を拙く動かしていた水折を見て、俺はすぐに踵を返した。だが、あれ以来、俺は水折の痴態が焼きついて離れなくなった。

 以来、俺は共にいると、水折を意識するように変わったが、水折にとって俺は、唯一そこにいる他者に過ぎないのだろうと推測している。

 だから俺は、地上で暮らす人間を抱いて、満足しようと試みた。実験など名目で、性的欲求をみたせたならば、水折を気にする事などなくなるのではないかと、望みをかけたのである。

 今回のサンプル――新しい被験者であるから、『新(アラタ)』の事も、既に何度か抱いた。だというのに、欲望を放っても、心が満ち無い。

 俺は水折に執着しているのは間違いないが、これが恋という名前をしていると認めるのが怖い。なにせ、死ぬまで二人きりなのだ。子供を試験管でなし、定められた百五十歳という規定寿命を迎え、揃って死ぬその日まで、例え振られたとしても、俺と水折は共にこの地下区画にある楽園研究室で過ごさなければならないのだ。

「あー、本当、怠ぃ」

 煙草を銜えた俺は、酒の缶を開けた。嗜好品は、楽園研究室の地下にある、文明記憶再建施設で手に入れる事が可能だ。その隣の地下スペースに、俺と水折の私室、居住スペースが存在する。現在は、俺に与えられた私室のデスク上のモニターを見ながら、煙草を吸っている。光学キーボードを叩きながら、俺は新の記録を確認する。

 実を言えば、俺はそれほど、制限理論を地上に広めたいとは考えていないのだと思う。このまま生涯、水折とこの俺にとっての楽園で二人、過ごしたいというのが本心だろう。

 そして新にぶつけている性欲だって、本当はただ水折にぶつけたい衝動と支配欲なのだと、正確に理解している。しかしながら、水折の記憶制限等を行い――抱き潰したならば、それは……――いいや、それも悪くはないかもしれない。

「水折を……俺のものにする、か」

 自分の思考に、一瞬困惑した。だが、新にしたように、水折を実験室に囲い、俺の思うがままに愛でたいという想いが、強くなり始めた。慌てて酒を飲み込み、俺は動揺を収めようとする。

 炭酸の泡は心地よく、俺の舌を濡らしたが、思考は乾いている。いいや、乾いているのは、体なのだろうか? 多分、水折でしか、俺は満たされないのだろう。

 ――水折が欲しい。

 そんな事を考えてから、俺はコントロール装置を操作し、モニターに新のいる実験室を映した。黒いカメラを設置してあるのだが、そこに録画されている映像が流れだした。

『ン、ふ……』

 今は、視覚を封じる実験をしている最中だ。記憶を消去し、『見える』という感覚を知らない状態にして――体を弄んでいる。実験といえば実験であるが、別段体を暴く必要はない。だが、俺は『本能生体研究』として、被験者やサンプルの体をいつも開発している。

 思えばそれだって本当は、水折の代わりに過ぎないのだろう。
 自覚し、苛立った俺は、ブツンとモニターの電源を切った。

 椅子の背をギシギシと軋ませて、煙を吐き出す。
 ノックの音がしたのは、その時の事だった。視線を向ければ、水折が入ってきた。

 色素の薄い髪と瞳。大きめな形の良い目を、眼鏡の奥に隠しているが、惹きつけられる。俺が知るいかなる人間よりも魅力的だ。柔らかそうな唇にも、絹のような触り心地の良さそうな髪にも、服から覗いている鎖骨にも、全てに俺は心を奪われている。

 水折は可愛い。本当に可愛い。

「何か用か?」

 だがそんな内心を押し殺し、俺は笑うでもなく顔を向けた。本人を前にすると、優しい言葉は上手く出てこない。おそらく傍から見たら、俺は水折に冷たいだろう。

「楽園管理部から、荷物が届いていたから、代わりに受け取っておいたんだ」
「管理部から?」

 地下区画は数多あるのだが、それを管理する本部が、存在する。何だろうかと記憶をたどったが、特に思いつかない。首を捻っていると、水折が手にしていた箱を、近くのテーブルに置いた。

「内容確認が必須だったから、開封させてもらったよ」
「悪いな。で、中身は?」
「――バイブ」
「……ああ」

 俺はひきつった顔で笑いそうになった。よりにもよって、水折には見られたくなかった。新というサンプルに突っ込む用途の卑猥な玩具を、実験用と称して購入した事を、やっと思い出した。

「何に使うの?」
「感覚制限実験中でな」
「ヒタカミの原始人を抱き潰しているという理解で良い?」
「……」
「沈黙の肯定だと判断するけど、本当にそれは実験なの?」

 水折が眼鏡の奥で瞳をすっと細めたのを見た。それが嫉妬だったら良いのにと思う感情と、人権について説教されるのだろうという理性が、俺の中で同時に喚いた。

「お前が『原始人』なんて言葉を使うのも珍しいな」
「……ねぇ、樫鞍」
「なんだよ?」
「溜まってるんなら、その」
「その?」
「――僕にも性欲と好奇心はあるから、覚えておいて」

 それを聞いて、実験に興味があるという事なのだろうと理性は判断したが、俺の中心が熱を帯びそうになった。水折の華奢な体を抱きしめたいとついつい考えてしまう。

「誘ってんのか?」
「そうだと言ったらどうする?」
「どう? どうして欲しいんだよ」

 表情だけは平静を装い、俺は尋ねた。吐き出した煙草の煙が、天井へと登っていく。

「僕じゃダメな理由を述べてもらいたい」
「ダメ? そんな事言ってねぇだろ、一言も」

 これ、は。押しても良いのだろうか? 俺は、体の統制権を失い、煙草をおいて、立ち上がった。そして欲望のままに、水折の細い手首を握り、腕を引く。すると水折が素直に俺の腕の中に収まった。俺はその額にキスを落とす。目を伏せた水折の、長い睫毛を見て、抑制が効かなくなりはじめる。

「なぁ水折」
「何? こういう僕は嫌?」
「――いいや。お前さえ良いんなら……『比較実験に協力してくれないか』?」

 この時、素直に優しく水折を押し倒せなかった事を、俺は酷く後悔する事になる。