師匠との時間(天帝のパズル)







 俺は、おさかな洞のリビングで、ソファに座り、窓の外を眺めていた。本日は雨だ。いつか猫混沌を拾った時のように、激しい雨が降っている。

「何を見ているの?」

 そこへ師匠が、マグカップを片手にやってきた。視線だけで振り返った俺に、師匠がカップを一つ渡してくれた。それから師匠は俺の隣に座る。すると猫混沌が、師匠の膝に飛び乗った。

「いや、さ。なんだか最近、和仙界も落ち着いてきたなと思ってさ」
「そうだね。環や慈覚が頑張っているからね」
「師匠も協力してくれるしな」
「俺は、それほど協力しているつもりはないよ」

 それは、そうなのかもしれない。何せ、混沌鏡で見た、現役時代の師匠の仕事量といったら凄かったからな! あれと比較するならば、俺だって、あるいは慈覚様だって、そんなに積極的に仕事をしているとは言えないだろう。だがあれは、師匠の方が、明らかにやりすぎだ。

「てっきり、許由の事を考えているのかと思っていたよ」
「んー、考えはするけど、今は強いて言うなら、猫混沌が来た日の事を思い出してた」

 俺の言葉に、師匠はカップをテーブルに置くと、そっと灰色の猫混沌を撫でた。師匠の膝の上で大人しく丸まっている猫混沌は、現在はふてぶてしさを見せていない。素直に甘えているように見える。眺めながら、俺は受け取ったココアを口に含んだ。そうしていると、開いていた扉から、天帝犬が入ってきて、俺達の正面のソファに飛び乗った。

 二人と二匹(?)の空間は、俺の体を弛緩させる。なんともまったりとした気持ちになる。そんな事を考えていると、猫混沌が、珍しく師匠の膝の上から床に飛び降りた。そして――非常に珍しい事に、天帝犬のいるソファに飛び乗ると、その顔の下で丸くなった。俺は初めて見る光景に、目を疑った。ポカンとしてしまった。

 天帝犬も驚いているようで、いつものどこか笑っているような気配ではなく、硬直しているのが分かった。そんな天帝犬の右前足の上に頭を預けて、猫混沌が眠り始めた。すると天帝犬はビクリとし、動かなくなってしまった。

「珍しいね。混沌氏が、天帝犬のそばにいくのは」
「そ、そうだな。俺、初めて見た」
「俺もだよ」

 チラリと師匠を見ると、師匠も驚いた顔をしていた。改めてマグカップを手にした師匠は、二匹(?)の姿をじっと見ている。それから、こちらも珍しく柔らかい笑顔を浮かべた。

「好きな相手にくっついていたいという気持ちは、誰しもに共通するのかもしれないね」
「え? 猫混沌が天帝犬を好きなようには、全然見えないぞ?」
「素直じゃないだけだったのかもしれない」
「確かにな」

 俺は先日目撃した、二匹(が、人型を取っていた際)の、可愛らしいキスシーンを思い出した。記憶違いでない限り、確かに幼い俺と幼い師匠の姿をした彼らは、キスをしていたのだ。外見を変えて欲しい限りではあるが……あの時のキスは、間違いなく師匠と慈覚様や、俺と許由の間で行うような空気感の口づけだったと俺は思っている。

「環は素直だから心配はないと思うけど、きちんと気持ちを許由に伝えている?」
「うん。何でも話してる。許由って本当、話しやすいんだよ」
「そう」
「師匠こそ、慈覚様にちゃんと言葉で伝えてるのか?」
「……そ、そうだね」

 師匠が小さく咳き込んでから答えた。絶対に嘘だなと俺は確信した。

「許由の受け売りだけどな。好きな相手には、きちんと話した方が良いらしいぞ? 同じ事を師匠も俺に言いたかったんだと思うけど、俺の心配より、自分の心配をしてくれ」
「……」
「俺は大丈夫。それよりも俺は、師匠の事が気になる!」

 本心である。これでも大分慣れてはきたのだろうが、師匠は非常に照れ屋であったらしくて、慈覚様の話は名前を出すだけでも当初は照れていたから、このように俺達の間で恋バナのような話題が挙がるのは、とても珍しい。

「俺も大丈夫だよ」
「順調って事だよな? それは、分かってる。だって慈覚様、最近もずっと、機嫌が良いからな」
「……慈覚の機嫌は、俺で左右されるの?」
「かなり」
「……変な所で、慈覚も顔に出るからね」
「そうそう。本当、師匠の事になるとさ、人が変わるな」

 恋とは偉大である。俺から見ると方向性は違うが、どちらも一見すれば完全無欠の、師匠と慈覚様だ。だがそのどちらも、恋となると、表情を変化させる。

「それにしても、少し寂しいよ」
「ん?」
「昔は、環が全部話してくれる相手は、俺だったのになと思って」
「今だって、師匠にも大体全部話してるぞ?」
「大体、だよね?」
「俺だって、言えない事の一つや二つや三つ……」
「例えば、今日は許由と喧嘩中だから、おさかな洞に遊びに来たんだ、とか?」
「な」
「許由から連絡があったよ。謝罪したいから、環を引き留めておいて欲しいって。嫌なら今すぐ、帰った方が良い」
「有難う師匠! 俺も謝りたかったから、ここで待ってる!」

 俺が思わずそう言うと、師匠が小さく唇の端を持ち上げた。なんだかんだで、最近の師匠は、俺と許由の仲を認めてくれていると思う。

 その日、激しい雨の中、おさかな洞へと訪れた許由は、俺に許しを請うた。しかし同時に俺もまた、許由に許して欲しいと願った。結果、揃って吹き出した俺達の前に、師匠は美味しいクッキーとアイスコーヒーを出してくれた。

「お幸せにね。俺は少し出かけてくるから」

 そう言って師匠は、虚無庵へと出かけていった(多分慈覚様が来ているのだと思う)。見送りながら、俺は許由と二人でいるのも無論好きだが――師匠との時間もかけがえのないものだなと改めて思ったのだった(なおその間も、ずっと猫混沌は天帝犬の前足の間で寝ていたため、天帝犬は身動き出来ない様子だったのだが、それはまた別のお話だ)。