【タイトル】花吐き病の刻限







「……また悪化しているな」

 俺はアンプルを回収しながら、検査結果が映るモニターを見て、重く吐息した。俺の患者はの水葉(みずは)は、半年前に嘔吐中枢花被性疾患――通称・花吐き病を発症した。花吐き病とは、原因不明の疾患で、口から赤い花を吐きだし、最後には死に至る病だ。

 長年大学病院で医師をしていた俺だが、水葉の事を放っておけず、専門を花吐き病に変えて、個人でクリニックを開き、今はそこで水葉を診ている。日に日に、水葉の吐く花の量は増え、今では病室の床には、絨毯のように赤い花びらが散らばっている。

「……」

 人間は誰しも死ぬ。
 だが本来それは、緩慢に訪れる。
 けれど花吐き病を患った者の場合は、余命一年前後が多い。
 水葉は、俺の甥だ。といっても、兄が再婚した義姉の連れ子であったから、俺と直接の血縁関係にあるわけではない。だが兄夫婦が不慮の事故で亡くなって以後、俺は七歳年下の水葉を慈しんで育ててきたつもりだ。水葉は、まだ二十三歳だ。鬼籍に入るには、若すぎる。今年三十の俺の方が、先に天国あるいは地獄に逝くべきだ。

 やりたい事だって、まだまだあるだろうに。
 俺は、検査の結果、また体が弱っているという事を、水葉に伝える気にはなれなかった。死が訪れる日が、また少し近づいた事を、どうしても告げる事が出来なかった。

 夕方になり、食事の載るトレーを片手に病室へと向かう。
 するとベッドを半分ほど起こして座っていた水葉が顔を上げた。

「また、結果が悪かったの?」
「っ、い、いや? どうして?」
「嘘。いつも以上に顔色が最悪だもん。見れば分かるよ」
「……そうか」

 ベッドのそばのテーブルの上に、俺はトレーを置いた。すると薄茶色の瞳を俺に向けて、まじまじと水葉が俺を見た。

「ねぇ、奏輔(そうすけ)さん」
「ん?」
「僕はね、いいんだよ? このまま、こうして毎日、奏輔さんと会えて、まったりお喋りして、これ以上幸せな事なんて無いと思ってるんだよ? だから、死んでもいい。僕は今が人生で一番幸せだから」
「……必ず、俺が助ける」
「僕はもう救われているよ」
「……」
「治療法なんて探さなくていいよ。それよりも、もっとこの病室に来てよ。僕は奏輔さんと話しながら人生を終えたい」

 俺の鳩尾のあたりが、重くなり、息苦しくなってきた。この日の食事は鰆と白米、油揚げとねぎの味噌汁に、お漬物。しかしそれも、半分ほどしか水葉は食べなかった。


 ――夜も更け、白い無機質な月が傾きつつある。
 顕微鏡を覗きながら、俺は採取した花と血液を確認していた。慎重に扱いながら、脳裏を過ぎる水葉の声を回想する。

 いつからだったのだろう、俺が水葉を、単なる甥だとは考えられなくなったのは。
 恐らくは一昨年の事だ。
 水葉にお見合い話が出たその年、俺は水葉がいなくなってしまうような気になり、そして心が締め付けられたように痛くなり、己の恋心に自覚したのだったように思う。

『おめでとう』

 それでも水葉には気づかれないように、結婚話がまとまったあの夜、俺は笑顔でそう告げた。決して伝える事は出来ないと分かっていたから、この想いは墓場まで持っていこうと内心で苦笑していた記憶がある。水葉はそんな俺を見て、何故なのか非常に顔を強張らせていた。結婚に不安でもあるのかと聞こうとしたのだが――直後、水葉は咳き込んだ。そうだ、そして両手で口を押え、すぐに花びらが掌から零れ落ちたのだった。

 余命は一年とされているが、既に水葉は、発病してから二年半生きている。逆に言えば、いつ死んでもおかしくないという状況なのだろう。水葉を喪いたくない。何か俺に出来る事は無いのだろうか? 迫る死という刻限が残酷に思えて、俺は深く溜息を零した。

「っく」

 俺が咳き込んだのは、その時の事だった。
 何気なく右手で唇を覆う。すると柔らかなものが、掌に触れた。なんだろうかと何気なく手を見ると、はらりと赤い花びらが床へと落ちていった。

「……え?」

 驚愕して目を見開いた俺は、再度咳き込んだ。すると花びらが口から出てくる。
 唖然としながら床を見て、俺はそこに散らばる花びらを視界に捉えた。
 これ、は。
 最初に抱いた感情は、歓喜だった。

「これで……自分の体で研究できる。自分になら、何を投与しても問題ない。必ず、必ず水葉を助ける薬を見つける」

 思わず笑顔で俺は呟いた。
 ――しかし、そう上手くはいかなかった。俺にもまた、死が迫ってきた。俺の方が、水葉よりも進行が速い。すぐに衰弱が始まり、自分で自分を診ている俺は、他の誰かに己の罹患を打ち明ける事も無かったから、誰にも気づかれる事なく、死に怯える事になった。何故怯えるのかといえば、水葉のための薬を見つけられない内に、俺の方が先に死んでしまうのが怖かったのである。もし万が一俺が死んでも、俺の両親が水葉を看病してくれるのは分かっている。父も母も医師だ。別宅で暮らしている二人は、月に一度は水葉の見舞いに訪れるし、俺が今際の際で電話をすれば、恐らく駆けつけてくれるし、水葉の保護もしてくれるだろう。

「……っ」

 何度も何度も咳き込んで、胸の痛みに耐え、花を吐きだしながら、俺は実験を繰り返す。時間が無いから、水葉の病室に顔を出す頻度は減った。なのに世界は残酷で、俺は必死になればなるほど、水葉の容態は悪くなっていく。このままでは、水葉が死んでしまう。

「どうにかして……」

 俺はこの日も開発した薬を、自分に投与した。自分で自分に注射をする事にも慣れてしまった。

 そんな日々が続き――結果として、俺は自分の死期を悟った。
 ある日気が付いたら、俺は床に倒れていて、天井を見上げていた。
 酷い衰弱で、立つ事もままならなくなっていたらしい。俺の周囲は、花びらだらけだ。そこに白衣の俺が倒れていた。あと数日で死ぬのだろうと、直感した。最後に顔を見るのは、水葉が良い。そんな利己的な理由から、俺は目が覚めてすぐ、水葉の病室へと向かった。すると本を読んでいた水葉が顔を上げた。

「珍しいね、まだ食事の時間じゃないのに」
「……そうだな」
「どうかしたの? 今日はまた一段と顔色が悪いけど」
「水葉。話があるんだ」
「何?」
「――少ししたら、おじいちゃんとおばあちゃんの病院に転院する事になるとおもう。でもな、なにも心配する事は無いからな」
「奏輔さんも一緒?」
「……俺は、一緒には行けないんだ」
「……そう。僕、邪魔だよね?」
「違う! 俺だって一緒にいられるものなら、ずっと――」

 ずっとそばにいて、俺が看病したい、と、そう言おうとした瞬間、俺は派手に咳き込んだ。結果、俺の押さえた手の合間から、大量の花びらが零れ落ちた。

「っ! 奏輔さん、それ……!」

 水葉には気づかれたくないと思っていたのに、俺は滑稽だなと自分に思った。

「僕から、移ったの……?」
「花に触れると映るとは言われているが、立証はされていない。仮にそうなら、花を吐く者を隔離すれば、最終的には根治しているはずだ。そんな現実はない」
「いつから? ねぇ、いつから花吐き病だったの?」
「……」
「あとどのくらい生きられるの?」

 愕然としたように目を見開いている水葉を見て、俺は軽く首を振った。
 今日か、明日か、それは俺にも分からない。

「なぁ、水葉」
「何?」
「――俺は、お前の事が好きなんだ」
「え?」
「甥としてじゃない。お前の事を、愛している。墓場まで持っていこうと思っていたんだが、死ぬ前になると笑ってしまうほどに抱えきれなくなるものなんだな。俺はお前を愛してる、死ぬ前に、どうしても伝えたくなった」

 思わず苦笑しながら俺が告げると、水葉が目を見開いた。

「それって……僕の事を、恋愛対象として、好きでいてくれたって事?」
「そうだ。ごめんな、ダメな叔父で」
「ううん、ダメなんかじゃない。ダメなんかじゃ――」

 その時、水葉が咳き込んだ。咄嗟に手で口を押えた水葉だったが、直後その指の合間から光が溢れた。そちらを見ていると、恐る恐るというように、水葉もまた手を見た。そこには、光り輝く白銀の百合の花びらがあった。俺は目を見開き、ゆっくりと瞬きをした。

 数少ない完治した症例ではすべて、花吐き病が治った際に、白銀の百合の花びらを吐きだすという記録がある。俺は思わず喜びに震えた。

「水葉、良かったな……良かった、これで俺は、思い残すことはもうない」
「待ってよ。僕は、病気が治ったのは嬉しいけど、奏輔さんがいなくなっちゃうなんて嫌だよ。だって、だって――僕もずっと奏輔さんの事を愛していたんだから。好きで好きでおかしくなりそうで、それで……ねぇ、お願い、死なないで。僕は奏輔さんが好き!」

 その言葉を聞いた瞬間、俺は思わず両頬を持ち上げた。最初は、水葉が優しい嘘をつかれているのかと思った。けれど違うと分かったのは、水葉が寝台から立ち上がり、俺に抱きついてきたその体が、小さく震えていたからだ。

「本当に俺の事を?」
「うん。僕の方こそ、甥だとしか思われていないと思っていたけど、ずっと好きだった」
「そうか。じゃあ俺達は、両想いだったんだな」

 俺が言うと、俺の腕の中で、小さく水葉が頷いた。
 その時、俺は咳き込んだ。折角両想いに慣れたというのに、今度は俺が死の危機に瀕している。そう思って、俺は片手で口を覆った。そして――その掌が、白銀の百合の花びらを受け止めたのを見た。

「奏輔さん、それ!」
「……っ、これは……」
「奏輔さんも治ったんじゃない!?」
「すぐに調べてみるが――……この部屋の条件は、なんだ? 何が、俺と水葉を治癒させた? 今、ここにあった変化は……?」
「僕と奏輔さんが愛の確認をしあって、恋人同士になった以上の変化なんてないよ」

 水葉が静かにそう言ったのを聞いて、俺はハッとした。
 いずれの症例研究においても、被験者は皆、『恋煩い』の状態にあったという記載があった。そして治った症例の全てにおいて、その後の経過観察で、恋人や愛する家族と幸せに暮らしているという記載を見た。

「そうか……片想いをすると花吐き病になり、想いが叶わなければ死に至り、想いが叶えば、完治するんだ」
「え?」
「そうか、そういう事だったのか。どうりで薬も手術も功を奏しないはずだ」

 気づいた俺は思わず笑った。すると俺に抱きついたままで、水葉が不思議そうな顔をした。

 その後無事に、俺も水葉も完治したのが確認された。
 そして俺達は、恋人同士となった。俺は最近、花吐き病を治すための方法の研究に忙しい。俺達は幸い恋人同士になれたから完治したが、必ず片想いが成就するとは限らないからだ。そんな俺に、今では配偶者として、水葉が寄り添ってくれている。

「だけど酷いよね、墓場まで持っていこうとしてたなんて。そうしたら、本当に僕達は、あの世逝きだったんだよ?」
「そうだな。これから生きている内に、きちんと伝える事にする。この、惜しみない愛を」


 ―― 終 ――