世界は水平に進むらしい。



 ――シャンボール城が手元に戻ってきたのは、世界貴族使用人連盟が設立されてすぐの事だ。あれは、パリに移った頃、当時はマリニーという名だったメナール侯爵に宛てがわれた記憶がある。

 ロワール渓谷も含めて、その城は、サンジェルマンのお気に入りの家の一つだ。

 彼は各地の世界遺産の保護など、滑稽な仕事であると、常々ギルベルトに対して口にしてはいたが、己の持ち物に限っては、意見が異なる。確かにこの城は、世界遺産の一つかもしれなかったが、サンジェルマンがこの城を守る動機は、あくまでも自分の持ち物であるからに過ぎない。

 二重螺旋の階段を登っていくと、そこに丁度良く――『自分のもの』が立っていた。

「青海」

 サンジェルマンをそう呼ぶ者は、非常に少ない。公的には、『サンジェルマン侯爵』であるし、渾名としては『伯爵』『サンジェルマン伯爵』『サンジェルマン様』などが挙げられ、その他には、無数の国家の数え切れない戸籍の分だけの名がある。

 当初は、『青海絵都』というその名前も、取るに足らない一つだったはずなのだが――残念ながら、今は違う。そう考えて、サンジェルマンは喉で笑った。

「今は、お前も『青海』だろ? 梓」

 立っていたのは、己の今では唯一と言える”世界貴族使用人”であり――昨年、法律を変えて日本において入籍した相手、元々の名前を、結城梓と言う愛しい人物だ。現在、戸籍上は、青海梓が、正確な名前となる。

「青海は青海だ」

 しかし、梓は、結婚後も特に呼び方を変えなかった。
 サンジェルマン――青海には、それが不満である。

 思い返せば、自分は、初めて『梓』と呼んだ時、相応に何らかの感情を抱かせられた。
 だと言うのに、梓には、そうする気配は無い。

「命令だとしてもか?」
「――使用人としては、承るしかない。だが、青海は今、俺の配偶者なんじゃ無かったのか? 対等を望んだのは青海であり、俺には拒否する権利がある」

 冷たい眼差しで、梓が言う。反論できずに、青海は心の中で溜息をついた。
 そのまま二人で、無言で歩く。
 向かう先は、三階だ。同じように登っていなければ、他者とは決して遭遇しない階段だ。

 二人きりの空間であり、やっと法整備や婚姻後の雑事を終え、新婚らしく落ち着いたと思って――いたのは、青海だけらしかった。梓の側には、目立った変化が見られない。

 外見の話では無い。お互い、それは十七歳の頃から変化が無い。

 もっとも青海の方は、どれが自分の本当の顔だったか思い出せないから、梓が認識している自分の姿でいるに過ぎない。青海は、隣を歩く梓を一瞥した。

 艶やかな黒髪は――僅かに色素が薄く、窓から差し込む光の加減によっては、時折茶色に見える。瞳も同様だ。二人で高校生をしていた当時は、それこそ、王子様のような外見だとして、非常に慕われていた。それもまた、回想すれば、青海にとっては面白くなかった出来事の一つである。

「梓」
「何だ?」
「お前さ――」

 ――俺のどこが、好きなんだ?

 青海は、これまでにも何度かそれを聞こうとして、今までの所、出来ないでいる。
 仮に、使用人であったから、断れなかったのだと言われたら。
 そう考えれば、怖くもあり――楽しくもあった。

 時折青海は、この愛の形について思案する。

 泣いていた子供時代の梓について、想起する度に、支配し、屈服させ、それこそ己の手で涙を零させる形の愛こそが、己の望んでいたものではないのかと検討し、愉悦に浸っている。

 自分以外が梓を泣かせる事は、もってのほかである。だが、自分自身は特別であり、梓は既に己の”もの”なのだから、泣かせるのは当然の権利となったし――何よりも、青海は今尚、梓の泣き顔が好きだった。

「……」

 しかし、淡々と歩いている梓を見ると、悲しそうに歪む姿を、もう見たくは無いようにも感じる。青海は、己の中の矛盾した感情を、自覚しては持て余していた。

「青海?」

 沈黙した青海を怪訝に思い、梓は立ち止まった。そして改めて、静かに視線を向ける。梓とは異なり、青海の髪と瞳は、黒すぎる闇色だ。どこか、青味が入り込んでいるように見える。角度によってその色は、紫や緑に見える場合もある。

 ――梓は、この不思議な色彩が、好きだった。
 だから仮に青海が尋ねたならば、すぐに答えは帰ってきたのだろうに。
 
「……どこか、行きたい所はあるか?」

 青海は、結局言う事が出来ず、高校生時代に見せていたように、明るい笑顔を取り繕った。すると、梓が小首を傾げた。

「出来る事ならば、一人になりたい」
「は?」
「青海がいない場所に行きたい」

 その回答に、青海は眉間に皺を刻みながら、口元にだけ笑みを浮かべた。

 確かに梓は、青海の使用人であるから、常に付き従っているし、そうでなくとも配偶者であるから、寝室も同じだ。私室は用意していない。青海は、離れている必要性を感じていなかったからだ。

 しかし――他者と壁を築く事で、弱さを押し殺し自分を守ってきた梓にとっては、一人の空間とは、非常に大切なものだった。だから、現在では、トイレの個室が一番落ち着く。

「俺だってな、四六時中お前が横にいて、鬱陶しいんだよ」
「そうか。だが、それが俺の仕事だからな」

 青海からすれば、売り言葉に買い言葉であるが、梓は買わない。
 それがまた、青海を苛立たせる。
――梓は、俺に興味が無いのか? 時に、青海はそう感じる。

「それに」

 梓が端正な唇を動かすのを、内心の怒りをこらえながら、青海は見ていた。

 最近では、あえて心を読まないようにしているから、梓の言葉が無ければ、考えは分からない。読まないというのは、結婚式の直前に、梓が要求した事であり、青海は同意した。青海は、約束は守る主義だ。

「好きな相手がそばにいると、緊張する」
「――へ?」
「じっくり青海の事を考えたいと思っても、目の前にいる限り、空想よりも実物と話す事の楽しさに気を取られて、上手くまとまらないんだ」

 不意に梓から放たれた、『好きな相手』という一言に――気づくと青海は硬直し、赤面していた。全く予期していなかったというのもあるが……正直、青海は嬉しかったのだ。

「だから、一人になりたいんだ」

 当然の事だという風に、梓が続けた。この時になって、漸く青海は、自分の顔が赤いと気づいた。鼓動の音が煩い。

「ダメだ」
「ああ、仕事だからな。無理にとは――」
「そうじゃない。実物の方が良いんだろ? ずっと一緒にいてやるから、余計な事は考えるな。必要ないだろ」

 その言葉に、梓は、それもそうだなと考えて、小さく頷いた。

 ――この日のサンジェルマン伯爵は、終始機嫌が良かったと、城にいた侍従達が後に述べる時が来る。