【2】国内最有事の際の仮想現実システム(VR)接続について
――朝十時、王宮にて。
「大至急オーウェン礼拝堂を完全に起動してください」
使徒オーウェンのサイコメモリック人格である。現在の花王院王紫陛下と同じように、綺麗な銀色の髪をしている。瞳の色は青だ。これは青殿下によく似ていた。柔和な微笑の美青年である。
続いて――砂嵐のように一度空気が歪んでから、双子の義兄弟が少し前に出た。
「一週間以内に使徒オーウェン礼拝堂を起動しろ」
右側に立っている、黄色い着物の少年が言った。
大きな黄色いヘッドフォンを付けていて、腕には、『兄』という字が見える。
「起動しなければ、黙示録の厄災が降りかかり、王都の八割の人間が死に絶えます。すべての必要なものを用意し、オーウェン礼拝堂に集めてください」
今度は、左側の、紫色の着物を来ている少年が言った。
こちらは巨大な紫色のスクリーングラスを目につけている。腕には『弟』とある。
彼らは、和服の上に、それぞれ同色のコートを羽織っていた。そちらは洋風だ。
そして――一番奥の使徒オーウェンが、今回は何も言わなかった。
緑色の法王着姿のままで佇んでいる。首からは、宗教院のパンフレットにも載っている使徒オーウェンの聖遺物――使徒オーウェンの十字架としか思えない、豪奢な銀とエメラルドの装飾具を身につけている。
それから再び、『兄』が口を開いた。おそらくは、十二使徒の十一番目と十二番目の双子の義兄弟の、兄ということなのだろう。
「使徒オーウェン礼拝堂の起動後、ゼスペリアの教会の使徒ゼストの写し身に祈りを捧げてもらえ。それまでに、必要なものはすべて用意しておけ」
それだけ言い放つと、映像は消えた。
しばらくの間、玉座の間には、沈黙が流れた。
そうして――もうそれは時報と化していたので、誰も気にせず仕事を開始した。
その頃、ハーヴェストクロウ大教会で、ラファエル=ゼスペリア牧師は悩んでいた。
ここは、最下層孤児院街の、噴水広場の真正面に位置する大規模な教会である。
最下層にあるというのに、非常に立派だ。二階建てで、居住スペースの他、それぞれ独立している礼拝堂と孤児院も巨大である。
その一階の窓際――応接間・謎の和室・何故なのか存在する英刻院家紋章が入った部屋、この三部屋の正面に、三部屋分の空間を使って作られているのが、ハーヴェストクロウ大教会筆頭牧師室である。ラファエル=ゼスペリア牧師ことラフ牧師の部屋だ。
――悩んでも回答が出ない。
「はぁ……」
思わず溜息が漏れた。
「いくら悩んでも、鴉羽の頭では回答が出ないであろうから、話してみよ」
「っ」
突然声をかけられて、ラフ牧師が硬直した。目を見開き、咄嗟にソファを見る。
「ザフィス! 驚かせるな……! うわぁ、びっくりした!」
「別段驚かせるつもりは無かった」
そこには、ザフィス神父が座っていた。黒い外套を着ている。
下も今日は貴族装束だ。医師をしている時の白衣でも、神父服でもない。
「入るならノックくらいしろ」
「無論、ノックした」
「扉を開ける音を響かせろ!」
ラフ牧師が声を上げると、ザフィス神父が目を細めた。
「――私の気配に気づかないほど熱中しているようだったから、配慮として音を立てなかった」
「いつから居たんだよ!?」
「二十分ほど前だ」
「声をかけろ!」
「悩み事に回答が出せない無能な頭であっても、私の気配にはいつでもすぐに気づくことができるという点でのみ有能だと思っていたが、評価を下げよう」
顔を背けて、ザフィス神父がムッとしたように言った。
ラフ牧師は目を見開いた。
その衝撃を受けたような顔は、ゼクスの表情によく似ていた。
――いつもだったら、そこでラフ牧師は殴りかかる。
だが、この日は違った。
「なぁザフィス、お前さ、なんで俺にそんなに冷たいんだよ」
「……」
ラフ牧師は現在、非常に不機嫌そうに、椅子の背もたれをギシギシ軋ませている。
視線の先には、筆頭牧師室内の応接セットのソファに座るザフィス神父がいる形だ。
ザフィス神父は、月に一度、王都大聖堂から派遣されてやってくる神父だ。
実際にこの孤児院街――最下層の表面的な部分を管理しているのはラフ牧師であるが、名目上は王都の管轄地であるため、最下層の牧師では管理者になれないので、正規の聖職者である神父が担当することになる。それがザフィス神父だ。同時に彼は、慈善救済診療所の所長をしている医師でもある。
慈善救済診療所は、この教会を正面に見た時、路地の右の突き当たりに建っている。
ハーヴェストクロウ大教会の隣にある、高砂と橘の完全ロステク兵器研究室とは直角になる位置だ。
「……」
さて、なんでと言われても困るのである。
ザフィス神父は押し黙り、苦々しい顔でラフ牧師を見た。
この二人の喧嘩は、ゼクスと榎波の喧嘩と同じくらい有名なのだが――こちらの二人が夫婦である事を知る者は少ない。
沈黙していたザフィス神父の前で、ラフ牧師が続ける。
「やっぱり、俺が老けたからか?」
悲しそうな声である。ザフィスは何も言わない。
他に人がいるとラフ牧師はこのような事を決して言わないのだが、二人になると愛が激しいのだ。ザフィスはそれが少し嬉しくもある。
「いいよなぁ、お前は若くて」
はぁ、と、深々とラフ牧師が溜息をついた。
ザフィスは一度視線を下ろしてから、改めて彼を見た。
研究上、PSY値に比例して老化速度が変化することは明らかになっている。
ラフ牧師は、現在の実年齢は六十代後半だ。ザフィスは六十代前半である。
しかしラフ牧師は、三十代後半――もう少し上だとしても四十代半ばだろうと多くが思う。ザフィスに関しては、三十代半ばに見える。正確には、二十代では絶対にない、といったところだろう。あくまでも外見の話であり、実年齢は二人共公表している。
十分、ラフ牧師は若いのだ。確かに、ラフ牧師の両親の内、匂宮の父親など、八十代なのに十代でも通るだろうが、既にラフ牧師であってもエイジングケア等の次元を超えているのである。
元々ラフ牧師は、ザフィスの三歳年上である。配偶者側――つまり子を成す場合にPSYを受け取る側を、華族は女房というのだが、「姉さん女房も貰えるのは良いことなんだ」と言っていた。それを聞いた時ザフィスは、『女』という時が『姉』にも入っているため、いつか研究したいと漠然と思っていたのだが――今考えれば、プラスにしろマイナスにしろ、最初からラフ牧師は年の差を気にしていたのだ。
当時は、ザフィスが二十四歳、ラフ牧師は二十七歳だった。ラフ牧師は、今のゼクスと同じ歳だったのである。そう考えると、ラフ牧師の方が幼かった気がして、ザフィスは感慨深くなった。今ではゼクスを叱ってばかりのラフ牧師だが、あの頃は、その言動にザフィスはハラハラさせられっぱなしだったのだ。
「鴉羽」
出会った頃の名前で呼びながら、ザフィスは立ち上がった。
そして振り返ったラフ牧師の手に、そっと己の指を置く。
それから――ギュッと抱きしめた。座ったままで、ラフ牧師が驚いた顔をした。
相変わらず眉間に皺を刻んだままのザフィスだが、目を伏せていた。
睫毛が長い。ラフ牧師は見惚れそうになった。
滅多に抱きしめられたりもしないから、その温もりが愛おしい。
「ザフィス……」
そうして二人がキスをしようとした時――扉が勢いよく開いた。
神速で距離を取った二人は、それぞれ別の方を見ている。ラフ牧師は右側の棚の前で刀を眺めている。
ザフィス神父は――最下層に来る際の、『いつもの姿』になっていた。
頭頂部だけ禿げている、長い白髪頭だ。緩やかに波打っている。
非常に小柄で、顔は人の良さそうなお爺ちゃんである。シワシワだ。
この姿は、幼かった頃に育てていた時東が、普通のザフィスを見ると怖がって泣くために作り出した、PSY知覚情報攪乱型偽装立体映像を、周囲に展開しているのである。白く小さいお爺ちゃんを見た場合は、時東は泣かなかった。
だが、威圧感たっぷりのザフィスを見ると号泣で、困り果てた結果である。
たまに小児科をやる時に使っていたものを改良した。以来最下層にいる時はずっと出していたのだ。なお――時東はザフィス瓜二つに育った。もう少し時東が歳をとれば、よりそっくりになるだろう。
ただ、未だにザフィスは、時東の前でこちらの姿になったことがない。
医療院の院長の写真も、白く小さなお爺ちゃんが描かれているのだ。
近しい医師や、古い知人しか知らないのである。
「大変だ、ラフ牧師――あ! ザフィス神父、来ていたのか」
入ってきたのは、ゼクスである。ザフィスを見ると笑顔になった。
二人の孫である。
時東も二人の孫だ。ただ時東は人工授精の長男の孫なのだが、ザフィスの遺伝子を用いて人工授精した相手が代理配偶者で、遺伝的にそちらもラフ牧師との子供だったというのは、あまり知られていない。本人達も知らなかった。それを行ったのが、ザフィスの祖父だったからである。ザフィスの祖父は、当時の万象院からラフ牧師の遺伝子の提供を受けたのだが、その後この二人が結婚したのは、ただの偶然である。ラフ牧師の両親は、万象院というお寺と、華族の匂宮家の人間なのだ。
「ゼクス、何が大変なんだよ?」
「また時東似のすごいイケメンが最下層に出たんだ!」
「「……」」
「今みんなで探している! あれは絶対時東の親戚だ――きっと、お兄ちゃんかお父さんだろうと今、ガチ勢みんなが噂している!」
実は、ゼクスもまだ、ザフィスの本当の姿を知らないのである。
最下層は今日も平和だ。
「――ゼクスよ。ロードクロサイトで関知する限り、時東は一人っ子であるし、時東の両親はお墓の中である」
「ザフィス神父、だからこそだ! きっと時東も喜ぶだろう」
「――叔父が一人、生きている」
「えっ!?」
「会いに行くが良い」
「う、うん。どこにいるんだ?」
「クライス=ハーヴェストがよく知っている」
「父上が?」
「大至急聞きに行くが良い」
「分かった!」
大きく頷いて、ゼクスが出て行った。バタンと音を立てて扉が閉まる。
それを見て、ラフ牧師が生温かい笑みでザフィスを見た。
「時東のそっくりさんって、お前の事だろう?」
「――今はそれより、鴉羽の悩みだ」
「ザフィス……! 俺の悩みを聞くために、ゼクスをそれとなく追い返してくれたのか?」
ラフ牧師は愛を感じた。満面の笑みに変わった。
思わずザフィス神父が大きく吐息した。言わないとわからないのか、と、言いたかったがやめておいた。照れくさかったのである。
「あのな、国内最有事プログラムのことを思い出していてな……」
その言葉に、ザフィスが首を傾げた。ラフ牧師が続ける。
「――避難箇所全部にさ、Otherの青緑をばらまくから、治癒とカロリーと水分補給および――風呂に入らずとも完全風呂上り状態、トイレに行かずとも処理、というフィールドが発生する形で、睡眠も不要になるだろう?」
「ああ」
「そして全員を、PSY融合装置による仮想現実システムに接続して、そちらで擬似生活を続けながら、危機の終焉を待つ。その場合は、俺達はこちらからVRに適宜接続して、調整する」
「その通りだ」
「この前試しに、ゼクスに接続テストさせたんだ」
「それで?」
「接続中は、外側の記憶がマインドクラック時と同じで、擬似内容になるらしいんだが、どれを見ても、ひきこもりの廃人でな……」
「……」
「みんなそういう感じなのか?」
「――ロードクロサイトで関知する限り、例えばこの時東のデータのように、通常は現実に即した外側感覚が構築される。そもそも『VR』という語は、『VR中は想起しない』ようになっていて、このように『魔力』等と適宜変換される」
ザフィスがそう言うと、ラフ牧師が無言になった。
彼は――気持ちを切り替えることにした。話も変える。
「ザフィス、たまには二人で食事でもどうだ? 今日、私服ってことは、休みなんだろ?」
「ああ。王都の料亭に予約を入れてある」
「さっすが! 愛してる!」
食べ物に負けた気分だったが、結果的には一緒にいられるのだから勝ったのだろうかと考えて、己の下らない思考に嘆いたザフィスだった。