【1】本物の若御院と高砂




 高砂は、久方ぶりに万象院へと足を運んだ。精神集中したいというのが第一だった。
 列院ではなく、本尊本院へと向かう。
 すると――緑羽万象院の、若御院がいた。

 若御院は存在するのである。しかし、ゼクスとは別だ。
 血縁関係で言うならば、ゼクスとはまた従兄弟になるというが、ゼスペリアの青を持っていたりはしない。完全に別人である。

「高砂先生、ご無沙汰いたしております」
「どうも」

 微笑され、会釈されたので、高砂も会釈を返したが、返答した声は平坦だった。
 高砂は、内心で焦っていたのだ。

 ゼクスが緑羽になったマインドクラックを二回見た。
 そのどちらでも、押しに弱く柔和で優しげで……高砂が嫌いなタイプの人間が出てきたが、顔はゼクスだった。では中身は誰なのかといえば、こちらの若御院である。高砂は、この手の両家のご子息風のバカは嫌いだ。だからつい冷たくしてしまうのだが、今回の件で考えてしまった。もしかしたら、実は嫌いではないのだろうか、と。

「よろしければ、こちらでお茶でも」
「ええ、ありがとうございます」
「っ、ど、どうぞ」

 高砂の答えに、若御院は一瞬息を飲んだ。高砂は、いつもは断るからだ。
 それでも声をかけるのは、社交辞令である。
 実を言えば若御院当人も、嫌われているのを知っていた。

 ただ、列院総代である高砂は、いつも若御院を尊重している。

 若御院は、それがとても嬉しかったし、高砂に対しては優しいと思っていた。
 高砂から見れば、ただの義務だったが。
 こうして二人は、お茶を飲むことになった。



 万象院の敷地が焼け落ちたのは、それから一週間後のことだった。
 敵集団である扇の仕業だが、直前に使徒オーウェン礼拝堂には、オーウェンたちのサイコメモリック人格が現れて預言していた。

「大至急使徒オーウェン礼拝堂を完全に起動しろ。そうしなければ、万象院だけではなく、ほかにも同様の被害が出る」

 最初は、誰にもどういう意味かわからなかったのだが、すぐに火災の知らせが届いた。
 万象院の本尊本院も列院も全てが萌え落ちたという。
 死傷者や行方不明者も大勢出た。
 緑羽の御院は幸い最下層で長老ごっこをしていたため無事だったが……行方不明者の中に、緑羽の若御院がいるという知らせはすぐに届いた。

 万象院の知らせに、高砂は冷や汗をかいていた。だが、御院と顔を合わせて最初にまず二人が語ったのは、青き弥勒の仏像についてである。あの仏像は、森羅万象――大自然の休眠中のPSY受容体から力を集めて万象院の僧侶のPSYを高めてくれる。それが焼けてしまったことが、何より大問題だった。

「探しに行ってきます」
「うむ、頼んだぞ」

 こうして高砂は万象院へと出かけた。正直、若御院もことはどうでもよく、それは高砂以外も同じ見解だった。戸籍的には、後継者の若御院だが、実際の救世主は、ゼクスだからである。その上、愚鈍で特に役立つわけでもない。無関心のものが多かった。他の行方不明者と同じ扱いである。あるいは、それらの中で最も探されていなかったかもしれない。

 高砂が本尊本院の中に入った時、中に人気は無かった。
 有事の際に仏像は地下に自然と移動する。それは限られた者だけが知る知識だった。
 迷わず高砂は隠し扉を開けて地下へと降り――息を飲んだ。

「若御院……?」

 地下にも火の気は回っていたようなのだが、仏像はそこにあった。
 若御院が、仏像を抱きかかえるようにしてそこにいた。
 周囲には簡単な結界が構築されているから、若御院が仏像を守ったということである。

 返事は無かった。高砂は歩み寄り、思わず口を手で覆った。
 左腕と右足首に、ひどい火傷が見える。僧服はところどころが焼けていて、白磁の頬が炭で汚れていた。目を伏せている。睫毛が長い。寝ているのだろうと高砂は考え、そしてすぐに違うと気づいた。駆け寄り、脈を取ると、非常に弱々しくだがそれはあった。

「若御院、起きて下さい」

 だが声をかけても、ピクリとも動かない。高砂はひとまず仏像を回収してから……片腕で若御院を抱きとめた。 仏像という支えが無くなったら、ぐらりと体が傾いたのだ。あまりにも軽く、華奢だった。一般人はこんなものだと理性は冷静に言ったが、高砂は嫌な汗をかいた。火傷の箇所を刺激しないように、ゆっくりと抱き上げる。そして転移装置まで戻り、使徒オーウェン礼拝堂に向かった。


「俺が診たからには死にはしない」
「ありがとう時東。意識は戻るの?」
「――本人次第だな」

 それを聞き、高砂は頷いてから――若御院について忘れた。
 時東が診てくれたのだから大丈夫だろうという思いもあったのかもしれない。

 なお、その後も――誰も若御院のことは思い出さなかった。



 最初に気づいたのは、闇猫隊長だった。

「そういえば、万象院の若御院の具合はどうなんだ?」

 そこで思い出して、高砂は時東を見た。時東は腕を組んでいる。

「他の医者に任せた。意識は取り戻してる。高砂は見舞いに行っていないのか?」
「うん」

 そういう発想がなかったため、高砂は今度行ってみようと考えた。
 しかし多忙で、すぐに再び忘れた。結果、見舞いに出かけたのは一ヶ月後の事である。

 若御院は、上半身を起こして、窓の外を見ていた。
 気づけばその桜色の唇を、高砂は惹きつけられるように見ていた。
 そんな自分に狼狽えて、扉をわざと強くノックした。開いていたから、若御院はそれまで気づかなかったようである。

「……あ」
「お具合はいかがですか? お見舞いが遅くなりまして」
「わ、わざわざ申し訳ありません……っ」

 慌てたように頭を下げようとした若御院が、痛みを堪えるように息を飲んだ。
 見れば白い首筋にも包帯が巻いてある。

「こちらにはお気遣いなく。本当に大丈夫ですか?」

 歩み寄り、高砂は背中を支えた。すると若御院が困ったように苦笑した。
 なんとなく胸が痛くなり、高砂は目を細める。

「早く治して下さいね」
「……ええ、ありがとうございます」
「皆、心配していますから」
「そんな馬鹿な。まさか……っ、あ、いえ」

 社交辞令で高砂は告げた。するとサラサラと答えた後、ハッとしたように若御院が顔を背けた。高砂が目を瞠る。

「どうしてそう思うんですか?」
「……いえ、あの、すみません」
「それは俺の質問の回答にはなっていません」
「……昔から、俺は特に必要とされませんでしたし、今日まで、お医者様しかいらっしゃいませんでした。みんな俺のことは、忘れていると思います。け、けど、その、皆様お忙しいですし、俺にできることは特にないので、と、当然なんです、ははは、や、すみません、なんというか、つ、つい」
「……」

 高砂は何も言わなかった。本人が正しく現実を認識しているというのは……昔だったらあり得ないと思っていただろうが、マインドクラックの中でゼクスが緑羽だったときにやはりそういう傾向にあったからなのか、衝撃が少なかった。マインドクラックは、『そうなり得る未来』を土台にしているとされるから、不思議は何もなかった。しかしあちらと違ってこちらの本物には、行動力のカケラもない。いつもただ待っているだけだ。そして波風を立てないように生きている。それでも今まではグチなどでてこなかったからマシだったが、このようにネガティブな言葉を聞くと鬱陶しい。自己憐憫に浸る人間が、高砂は嫌いだった。

「役立つ人間になる努力をして下さい」
「っ」
「仏像、助かりましたよ」
「!」
「帰ります、お大事に」

 高砂は、そういうと病室を出た。
 見送った若御院は、その後静かに涙を流した。何に対して泣いたのかは、本人にもわからなかった。