【1】日常



 黙示録を眺めた後、ゼクス=ゼスペリアはステンドグラスを眺めた。
 少し、外の空気でも吸おうかと考える。

 ここは――王都に隣接している、最下層の孤児院街だ。

 濃い灰色の石畳は、凸凹していて、その部分だけでも王都の街中とは違う。
 王都の路は、薄い赤茶色の石が、綺麗に敷き詰められているのだ。

 孤児院街の広場まで向かい、ゼクスはベンチに座って煙草を銜えた。
 物憂げな青い瞳に、黒い髪。
 外見だけは一種異様なほど端正で、纏うシンプルな牧師服が逆にその色香を引き立てている。彼は、最下層ゼスペリア教会孤児院の聖職者だ。

 古来から最下層の聖職者といえば、聖書に出てくる『紫色の聖娼婦』に連なる売春業者というイメージがあるらしい。だから容姿と相まり、ゼクスも下品な揶揄を飛ばされることもある。しかしゼクスは、いつも気だるげな無表情であり、何も答えない。どうせそういった発言をする貴族の富裕層は、二度と最下層に来たりしないからだ。

 最下層は、簡単に言えば被差別地域である。
 そこには、人権がある者は、誰もいないとされている。
 戸籍を持たない人間の住処なのだ。

 ――最下層の端には、『原初遺跡』と呼ばれる小さな石が立っている。
 そのため王国は、『人間不可侵の神の居場所だから敬意を評して立ち入らない』と理由をひねり出して、住み着いているものに対しては、不干渉だ。黙認しているのである。

 唯一、孤児院街にだけ、戸籍を設けている。
 それが『ゼスペリア姓』であり、それを持つ孤児や聖職者、一部の医師以外は、公的には最下層には誰も住んでいないことになっているのだ。もっとも実際には、王都から逃げてきた犯罪者や、孤児上がりの殺し屋が屯している。

 お世辞にも治安が良いわけではないが、彼らも孤児院街の広場や路地では、謹んだ行動をしている。

 なお、仮に諍いを起こした場合、仲裁に入っているのはゼクスである。ゼクス本人は殺し屋ではないのだが、ゼクスを『幻の殺し屋』であると認識している人物が一定数いるのは、非常に腕が立つからだろう。

 深く吸った煙を吐き出してから、ゼクスは空を見上げた。
 ――平和だ。

「よぉ」

 その時、後ろで砂利を踏む音がし、同時に声が響いた。

「ん」

 気配は察知していたから、ゼクスは小さく頷いた。
 そうしている間に、ベンチの隣に一人の青年が座った。
 黒い髪に、黒い目、白衣。
 膝を組みながら煙草を銜えたこの医師は、時東修司と言う。

 このラファリア王国には、華族王朝と貴族文明の双方の末裔、および、直近の前の国であるラファエリア王国の末裔が混在して暮らしているため、姓名の順で漢字を持つ者もいれば、カタカナと苗字を持つものもいる。

 ただ時東の場合は、この国で最も頭の良い学術機関の一つに指定を受けた医師だから、業務に爵位などが影響を及ぼさないようにという何代か前の国王指示による仮名制度の結果の漢字名で、別段華族の名前というわけではない。

 こちらもまたちょっと目を引く美青年なのだが、本人がそれを隠蔽するように伊達眼鏡をかけていた。白衣の下は、白いシャツと暗い色のネクタイだ。葬儀を行う牧師と命を救う医師の二人は、並んで座っていると、大層絵になる。

「今日は体調は良いのか?」
「いつも通りだ」
「へぇ。そろそろザフィスじゃなく、俺の診察を受けてみる気はないか?」
「時東は忙しいだろ。それに俺には、お金を出して医療院で見てもらう金銭的余裕も無いしな。最下層には保険証も無い。分かってるだろう?」
「ただの研究的興味だ。研究の時間は、俺は将来有望な医師なので沢山貰っているし、研究費も潤沢だ。俺に出資したいという貴族連中は腐るほどいる」
「あのな、俺はポニとは違うんだ」
「ポニ?」
「政宗が自由研究で飼っている白いネズミだ」

 ゼクスが何かを思い出すように小さく吹いた。
 時東も曖昧に笑っておいたが、内心では溜息をついていた。

 単純に、幼馴染の体調が悪いと聞いて心配なだけなのだが、上手く切り出せない。

 時東は幼少時に家族を亡くして、この最下層の慈善救済診療所に定期的にやってくるザフィス=ロードクロサイト神父によって育てられた。ザフィスは、医療院の院長もしている。医学の道でも、時東の師だ。

 ゼクスは学年で言えば時東の一つ下だが、二人は同じ年に生まれた。だから、幼い頃は二人でよく遊んだものである。政宗というのも孤児で、他に榛名と若狭を加えて五人でよく遊んだ。中でも政宗は医師になったため、今でも時東との付き合いが多い。

「カゴに入れられて、毎日ヒマワリの種を食べさせられるんだ。とても羨ましいが、俺はこれでも牧師だから、お祈りという仕事をして稼ぎたい。稼ぐというと語弊があるが――……」
「ほう」
「そして無職疑惑を払拭するんだ。ポニとは異なり、俺は自分で自分を養っていると証明してやる」
「――まぁ、なんだ? 頑張れ」

 時東は他に言葉を見つけられなかった。笑いそうになったがこらえる。ゼクスが真剣な顔をして、意気込んでいたからだ。

 礼拝者がほぼゼロのゼスペリア教会の筆頭牧師の主食は、ヒマワリの種以下らしい。
 門の鍵を開ける仕事くらいしかないというのは、時東も聞いていた。
 ゼクスを傷つける一番の行為は、殴る蹴るではなく『無職』と言い放つことだというのは、最下層では有名な話だった。

「俺も、もう二十七歳だからな」
「――俺は二十八になった」
「ああ。お互いに頑張ろう」
「なぁゼクス。自分で自分を養う以外に、家族を養う・養われるという観点もあるんじゃないか?」
「……言ってくれるな、時東」

 時東は、『だから俺に養われる気はないか』と言いたかったのだが、ゼクスはそんな時東を恨みがましい目で見た。時東は非常にモテるのだ。女性がほぼ存在しない上、PSY(超能力)により医療院で男性同士でも子供をなせるこの世界において、その数少ない女性にも、大多数の男性にも時東はモテる。将来有望な人気医師で医学研究者で顔面造形も著しく良いから――……だけでなく、「時東は性格も良くて優しいからモテて当然だろうな」とゼクスは思っていた。口は悪いが。

 なお時東の性格を良いと評価しているのは、ゼクスのみである。しかしそれをゼクスは知らない。時東は、ゼクスにのみ優しいし、ゼクスの前でだけ性格も良くなるのだ。

 そのため、「非常に性格も良いイケメン高収入医師」である時東の言葉に、ゼクスは溜息をついた。

「どうせ自分を養えているかどうかで悩んでいる俺には、結婚なんてできないだろうな。誰かを養うなんて、できないかもな。けどな、俺は地道なタイプなんだ。まずは自分を自分で養う」
「あ、いや――だ、だから……その……ゼクスが養われるというのはどうだ?」
「お前から見ても、俺は俺自身を養えていないという意味か? 朝から酷い事を言わないでくれ」
「そうじゃなく、ゼクスはゼクスなりに頑張っているとは思う――が、まぁ客観的に見れば、ほぼ無職で衣食住の九割をハーヴェストクロウ大教会に援助してもらっているのは間違いない。そ、そこで、だ。結婚し、家庭に入り、養われるのはどうだ? お前が養うんじゃなく」
「時東、あのなぁ、俺は最下層の孤児出自の牧師だぞ? 最下層の孤児出自の牧師を養うような趣味がある結婚相手なんて、それこそ、聖娼婦を買いに来て、ラフ牧師にボコボコにされて二度と来なくなる貴族とかだろう? 俺、変態と生涯を共にするのは、三食がロイヤル三つ星のフルコースだと言われても悩む」
「……」
「よって、結婚して俺が稼ぐ場合は、結局俺が俺を養うのだから、今の仕事を頑張る。人が来なくて無職と呼ばれようとな。それに――俺が結婚するためには、俺のことを好きな人を探すしかない。沢山の人がゼスペリア教会にお祈りに来ているのだったら、誰も俺を無職とは呼ばない。つまり、出会いがない。分かるか?」
「――もっと、こう、近くを見てみたらどうだ?」

 溜息混じりに語ったゼクスに、時東が言った。

「近く?」

 聞き返しながら首を傾げたゼクスは、煙草の灰を落としてから周囲を見渡してみた。
 自分達以外には誰もいない。だからしばらく視線を彷徨わせた末、時東を見た。

「お前が俺と結婚してくれるのか?」

 ゼクスは純粋に聞いた。他に誰もいなかったからだ。冗談だと思ったわけでもなく、本当に誰もいないから、単純に疑問に思って聞いてみただけである。何も考えていなかったというのが正しい。

 息を飲んだのは、時東である。

「あ、そ、その」
「照れるな」

 何故なのか焦っている時東が面白くて、ゼクスが唇の両端を持ち上げた。
 その笑顔が綺麗すぎて、時東は思わず煙草を挟んだ手で口元を覆った。
 人の気も知らないで、と、思う。

「照れたんじゃない。断じて違う」
「じゃあなんだ? どうして顔が赤いんだ?」
「気温が上昇してきたんだろう――まぁ、ゼクスが俺と結婚したいというなら、俺にはお前を養う甲斐性はある」
「どうせ俺には、人を養う甲斐性はない……朝からいじめないでくれ……」
「だ、だから! 俺に養われたいというなら俺はいつでも――」

 時東が必死で続けようとしたその時、砂利を踏む音がした。
 最下層の路地は、砂利が多い。
 二人は、ほぼ揃って視線を向けた。するとそこには、高砂が立っていた。

 高砂は、最下層の地下に広がる古代の遺跡から、ロストテクノロジー兵器を発掘して研究している学者である。狐色の髪と緑色の瞳をしている。長身で、こちらもまた端正な顔を伊達眼鏡で隠しているイケメンだ。橙色から黄緑色に変化していく洒落たトータルネックの上に白衣を着ている。伊達眼鏡テクニックを時東に教えた人物でもある。ただ、一切モテそうには思えずオーラも無いため、高砂はモテないとゼクスは信じていた。

「あ、高砂、聞いてくれ。時東が俺をいじめるんだ」
「おはよう。そうなの?」

 それからしばらくは、三人で雑談した。
 そこに、榛名や政宗、若狭もやってきた。

「「「おはよう」」」

 榛名は現在、『責任者氏』として、王宮警備の裏ガチ勢の責任者をしている。

 表向きは、王室直属ロイヤル護衛隊が存在するのだが、そちらのメンバーは大体が貴族家の次男以下の箔付け勤務で名ばかりであるため、最下層出身のガチ勢五籍以上のメンバーが、王宮に暗殺者として忍び込む度に引き抜かれ、裏の警備体制が出来上がっているらしい。

 その『副リーダー』が情報屋の若狭であり、よって『副』と呼ばれているのである。珍しく完全情報屋らしく、武力は無いという話だ。

 なお『医者氏』は、王宮内病院の医師であり五籍だった所を引き抜かれた結果、医者氏と呼ばれている。政宗医師として、一応今も病院にも表向き在籍しているらしい。榛名と副は、伴侶補の雑用係が表向きのお仕事だ。国王である花王院紫陛下に直接榛名が引き抜かれて、榛名がガチ勢を統一した結果がこの状態らしい。

 そこに最下層の白色地域の奥にある、廃棄都市遺跡という、旧世界に発達していたロストテクノロジーが眠る場所――の一部である地下を勝手に改装して家にして住んでいる高砂が呼ばれて出かけるのは、なんでも第一王位継承者である、国王陛下の王子、花王院青殿下と、二名の伴侶補である英刻院瑠衣洲および美晴宮朝仁が、所謂ロステク兵器の一種である防衛システムが、王宮に存在すると気づいたため、修繕のために呼び出したというわけである。

 ちなみに、存在に気づいたのは、榛名達ガチ勢である。教えてあげた、が、正確な所であり、前々からガチ勢は壊れたロステク防衛システムが存在する事を誰だって知っていたのだったりする。これは公的には認定されていない、非合法ロステク兵器や技術をガチ勢は大体勝手に発掘して使用しているため、知識があるので分かったのだ。

 なお高砂は、ロステク学の権威である。公的に、権威だ。この国で一番頭が良く、普通は入学さえ困難な最高学府で、ロステク学の教授をしていた人間だ。元々は華族の出自らしい。しかし、ロステクに魅力されるあまり、場所が最下層であるにも関わらず、あっさり教授を止めて、住み着いていたのである。なんでも榛名は教え子だったらしい。

 榛名は、偽装戸籍で『榛名』という名前を取得して、最高学府を卒業したとの事である。最高学府において、ロステク学は、学部必修総合講義の一つだ。ロステク学自体、最高学府以外では学べない特殊学問であり、それ一つとっても、最高学府の凄さが分かる。

 だから、王宮の医師や、伴侶補の雑用係という表向きの職に就けたのである。
 身元がしっかりした超上層階級出自以外は、最高学府関係者以外、王宮勤務は無理だ。

 最高学府は、『初等・中等・高等の各義務課程を終了した者』が入学できる。

 義務課程は王都指定の王立学府初等学校・中等学校・高等学校のどこかを卒業するか、孤児院で筆頭司祭、筆頭神父が義務教育教員免許を持つため、教えてくれる。ゼクスはラフ牧師に習った。後は、出自により、貴族であれば貴族専門の名門校を卒業したりする。

 ただし『飛び級制度』があるので、『義務教育完了同等資格試験』に合格すれば、卒業(義務課程終了)という扱いになる。ただし救済孤児(最下層の孤児)は、必ずこの試験を受けなければならない。理由は、『最下層に宗教院の慈善事業で派遣している牧師は義務教育教員免許を持たない』からである。そもそも『牧師』という、宗教院で一番下の、各流派で言うところの司祭や神父と一応同じ立場の存在は、最下層にしかいないのだ。

 神父は、東方ヴェスゼスト派の正統な各教会の所属、司祭は東方ヴェスゼスト派の各流派の神父の事であり、牧師とは、最下層の教会孤児院の管理者として特別任命された存在だからである。


 さてその後、ゼクスは雑談を終えて、教会へと戻った。
 よくある日常の一コマだった。