1:魔術師は雨男!
灰色の分厚い雲が空を圧迫し、足早の雨が街を襲う。
並ぶ民家の窓も、その通りを更に進んだ場所にある商店街も、堅く扉を閉めている。
何軒かの八百屋や果実屋、薬屋など、生活必需品を扱う店だけが、諦めたように曇り硝子から通りの様子をうかがっている。
石畳の大通りは、このレンダルシアの街唯一の商店街を左右に構え、晴れてさえいれば中央にある噴水が大変美しい。昔、魔王を討伐した勇者ご一行様が一泊した事もある歴史の長い街だ。ご一行様の中にいた聖女の名がレンダルシアだったため、この街は百年ほど前に、街興しの一貫として名前を変えた。他には特に目立った観光資源もない、小さな街である。
「……来たなぁ」
「そうですねぇ」
煙草をふかしながら、パン屋(閉店済み)の軒先で、初老の店主となじみの客が呟いた。
何処の家や店も扉を閉め切ってはいるものの、二階の窓から好奇の視線を向けている。
その視線は、通りをゆっくりと歩いてくる来訪者に向けられていた。
この大雨の最中、傘も差していない。
いつものことだ。
灰色の外套(魔術師のローブだろうと専らの噂だ)を纏った痩身の青年が、しっかりとフードを被って、二人の前を通り過ぎていく。砂色の髪をしていて、目は緑。色が白いのは、彼が雨男だからだろう。そりゃ日に当たることがなければ、色だって白くなる。
実年齢不明の青年は、粉屋を目指して歩いていく。
三ヶ月に一度、彼は小麦を買いに街へとやってくる。
その日がいつも雨なのは、彼が雨男だからだ。元々は、晴れた日であってもふらりと訪れていたそうなのだが、それだと観光客が雨に見舞われ、買い物せずに帰ってしまうので、街の領主が頼み込みに行ったのだという。以来彼は、雨が降りそうな平日の昼頃、三ヶ月に一度だけ街へと訪れるようになったのだ。それは初老の店主が子供の頃には既に常識とされていた話しだから、青年に見えるとはいえ、相手は恐らくこの街がレンダルシアという名になるよりも以前から生きているのだと考えられている。
こうしてこの日も小麦を買い、青年は帰っていった。
次にこのような大雨が降るのは、また三ヶ月後。
季節の移り変わりを報せに来る使者のような青年の顔は、もう残暑の頃まで見ることはないだろう。
皆が、心の中でその様に考えていた。
「はぁ……」
もう一体何年、実際に外で、雨以外の空模様を見ていないのだろう。
俺は帰宅して雨合羽を放り投げながら、溜息をついた。
やってられるか、と言う心境だ。
なんだかふてくされた気分になったが、この雨合羽は完全に雨を防御するために必死に探し出したものだからと、慌てて拾って、大切に壁へと掛けた。
そう、俺は雨男だ。
生まれたときから雨男だったので、海水浴など一度もしたことはない。
魔獣との戦闘中に誤って海に転落することはあったから、泳ぎは何とか覚えたけれど(だって生死に関わるじゃねぇか)。
俺が一度外に出ると、それまでどんなに快晴であっても、曇りだし、パラパラと、後にドバァーッと、大雨が降ってくるのである。小雨や霧雨なら、かなり運が良い時に稀に見かけるが、基本土砂降りだ。
家の中にいると、雨はおさまる。
だから俺は窓から、輝く太陽を眺めるばかりだ。
外出する日も、雨の日を選んで、なるべく雨男だという事が気にならないように行動しているのだが、どちらにしろ雨だ。気象条件とかガン無視で、雨は俺の上に降ってくる。全く、酷い話しである。
俺と遊びに行けば必ず雨が降るので、自然と友達は消滅した。
はぶかれた幼き日々の嫌な記憶が蘇る。
てるてる坊主とか、俺には無意味だ。
何故なのか嫌な記憶とは中々忘れられないもので、俺はもう三百有余年生きているにもかかわらず、鮮明に思い出すことが出来る。ちなみに老化は、魔王を倒した三百年位前に十七歳で止まった。さすがに不死ではないだろうが、不老になったのは間違いがない。
あの時の勇者パーティにいた、勇者・聖女・王子の前に結界を張っていたら、魔王に酷い魔法攻撃をしかけられ、気合いでそれを乗り切った(乗り切らなければ死ぬ状況だった)所、呪いが発動して、俺だけ成長が止まってしまったのである。『いつか愛する人に出会えたら、共に歳を重ねることが出来ますよ』なんてありがちな言葉をほざいた魔王は、その後勇者に倒された(らしいが、俺はとっくに気絶していたので詳細は知らない)。
現在、この大陸南西部には、勇者が建国した皇国イスルガンド、聖女が後に即位した教国サージェント、王子が国王になった騎国ルイヴァルダの三カ国があり、中央には黒い森が広がっている。この黒い森に、俺は住んでいる。
人と話す機会は、一番距離が近いルイヴァルダの端にある街レンダルシアに、買い物に行って、店主と話しをするときだけだ。「いつもの」「どうぞ」だけ、だが。ちなみに聖女の名前がレンダルシア=サージェントだった。黒い髪に蒼い瞳をした、それはそれは美人だったなぁ。彼女も中々壮絶な幼少期を過ごしていたようで、闇色の髪は聖女にはふさわしくないという理由で、魔王に捧げられそうになっていたそうだ。
しかし彼女は、脱走し、勇者パーティを探し当て、見事仲間に加わった。俺は今でも彼女に始めてあったときのことを良く覚えている。俺のせいで土砂降りの空に、稲妻が轟いたのだ。そんなものあるのかは分からないが、彼女はその――雷女だったのだ。彼女が単独で外に出ると、大概遠雷から始まり、気づくと周囲に落雷していた。それも彼女の評判を『不吉だ』と言わしめていたようである。
思い返せばあの時の勇者パーティは、変だった。
王子は、キース=ルイヴァルダという名前で、もう見るからに王子様という外見をしていた。金髪碧眼で、通りを歩くと、ほとんどの者は、彼の顔面に釘付けだった(きっとその中には、少しくらいは俺を見ている視線もあったと思っておこう!)。しかし彼は、王族なのに、魔王退治に送り込まれた。安全なところで指揮をしていることは許されなかった。
彼は風男だったのだ。なんだか字面や発音だけ聞くならば、風男はちょっと格好いい気がする。だがその威力は大変凄く、彼が歩く度に、周囲の物は吹き飛んでいった。魔王も
吹き飛ばしてしまえ、と言うノリだったらしい。
だから勇者をのぞいた俺たち三人が外を歩くと、それだけで災害が発生しているような状態だった。勿論全員、屋内にいれば特に何も問題はなかったのだが。
そんな中で、唯一マシだったのは、勇者だ。現在では皇都イスルガンドと呼ばれるまでに発展した、当時のイスルガンド村出身のアーガイル、皇国初代皇帝アーガイル・イスルガンドは、それはもう絶好調の晴男だったのである。彼は俺たちの誰よりも強かった。
彼と道を歩くと、不思議と天候が相殺され、寧ろ晴れが一番勝って、他のメンバーの気分が余程の変調をきたしていない限りは、穏やかに晴れていた。抜群の安定感を誇っていて、熱血ではなかったが、非常に正義感に溢れていて頼りになった。
魔王退治が終わり、それぞれが国に戻って建国した時、俺は迷うことなく勇者に着いていって、イスルガンドで宮廷魔術師を指揮した(他の国の宮廷魔術師団を作ったのも俺だ)。俺も勇者と同じで帰る家が特に無かったので、一緒にいて気が楽だったというのもある。気心の知れた友人だった。
だがある日、俺とアーガイルは大喧嘩をした。
以来俺は、この、三カ国の中央にある黒い森に一人で暮らすようになり、始めこそ弟子達が気にかけて尋ねてきたりもしたが、そのままアーガイルとは二度と会うことはなかった。俺は自分の老化が止まっていることに、全く気づいていなかったのだ。若く見えると言われたら、単純に褒め言葉だと思っていた。
だからアーガイルが若くして急逝したという訃報を聞いたとき、耳を疑ってしまった。多分その話を聞いたときに、やっと俺は、自分が歳をとらないのだと、考えないようにすらしていた事実を、はっきりと自覚したんだ。それから長生きしたキースとレンダルシアも亡くなった。いまではそれぞれの国を、彼らの子孫が治めている。そうした歴史の中で、俺の存在は、今となってはお伽噺の魔王討伐物語の、勇者ご一行様内にいたらしい、三人を庇って亡くなった魔術師、として認識されている。
最早誰も、俺が嘗て勇者パーティにいたことなんて知らない。
俺も別に言わない。
話す相手もいないのだ。
一人になって暫くしてから、街へ出かけて、嗚呼喫茶店の中ならば何の問題もなく女の子をナンパできるじゃん、と発見したが、見た目も子供、頭脳も子供、のまま、ひたすら歳だけ重ねている童て……初心な俺には、ナンパとか無理でした。
こんなんでは呪いは解けないだろうし、別に不老でも特に問題を感じなかったので、俺はダラダラと生きている。
今後も毎日このようにして過ぎていくのだろう。
昨日購入した小麦で、俺は一人パンを捏ねた。いぇーい。
俺ははっきり言って料理は得意じゃないが、慣れた。そして料理が出来ると料理を作るの間には、大きな溝が横たわっているのだと発見した。
それでもいざ完成すれば、新しい魔術理論を構築して、攻撃魔法としてぶっ放す時の開放感とワクワク感に似た感動が満ちているから、今では何でもお手製だ(ちょっと……百五十年ほど前までは、レンダルシアで買って済ませられたが、ある日いきなり二度と来ないでくれと頼み込まれて、買えなくなったという過去も、俺は忘れたくても忘れられない)。
なんとかパン作りの工程を一段落させ、俺は珈琲を淹れて、リビングへと戻った。
ソファに座って窓の外を眺めるのが、俺の日課だ。
窓の外の世界は、晴れだ。
小鳥の囀りが、耳に心地良い。
今日は何時にないほどの快晴だ。
昨日あれだけ雨が降ったのだし、晴れもするだろう……ははは。
昔は腕試しだなんだと言って、若い冒険者がこの黒い森に訪れて、我が家に放火していくなんて事もあったが、現在では誰も来ないので、家の周囲にすら結界など張っていない。
一番怖いのは野生動物だが、この辺には狼も熊もいないので、そんなに警戒しなくても大丈夫だ。多分。よく分からないが、この家はこの家で、ちゃんと俺のテリトリーだと認識されているのかも知れない。
さて、お昼寝でもしようかな。
そんなことを考えていたとき、唐突に扉をノックする音が響いた。
良く聞く幻聴だ。
最近はあまり耳にしなかったが、一人暮らしを始めた当初なんて、それはもう頻繁に来客者がいるのではないかという勘違いをしたものである。自分で言うのも何だが、俺は小心者なのだ。こんなんでよく魔王退治になんて行ったよなぁ。若さって、凄いと思うんだ。
最も精神年齢の老化も止まり気味の俺は、あんまり成長していない
から、今でも若くないわけではないと思う。思いたい、切実に。
――ドンドンドン。
再びノックの音が響いた。
もしかすると、家鳴りだろうか。
――ドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドン。
次第に激しく切れ気味であると主張するように、ノックの速度が増していった。
「……は?」
何事だろうかとカップを机の上に置き、俺は立ち上がった。
恐る恐る、すぐ側の、エントランスの扉に歩み寄る。
気配を殺して、丸いのぞき穴に右目をあてがう。
そこには黒い装束姿の青年が一人立っていた。
「……ルイヴァルダの正騎士だ……」
金縁の黒いマント、首元の白いネクタイ(? ハンカチみたいにひらひらしている貴族っぽい布)、その布の前で、マントの左右から金色の細い鎖が伸びていて、中央に大きな楕円形の翡翠のブローチがはまっている。肩には、双頭の鷲をかたどったワッペン(?)。
いつも灰色の雨合羽を着ている俺が言うのも何だが、だっせぇぇぇぇと思う。
しかし巷では大人気で、(母数は不明だが)八割の女の子は、この正装姿は男を三割増で格好良く見せる、と調査に回答したと、週に一度梟便で届くワーズワンド大陸新聞南西部版のアンケート結果で見たことがある。
俺はもう一度のぞき穴に目をこらした。
青灰色の髪をしていて、目の色は金色だ。彫りの深い顔立ちで、若干つり目だ。そのせいか、あるいは無表情で扉の前に立っているからか、威圧感がある。三十代という感じではないが、二十代後半なのは間違いなさそうだ。背が高く、がたいが良い。イケメンなんて滅べばいいのにな。
よし、居留守を使おうと思い立った俺は、一歩二歩と後退った。音を立ててはいけない。
慎重に行動を開始した俺の正面で、その時。
「へ?」
木製の扉に、斜めの亀裂が入った。
俺の目の前で、扉が真っ二つになり、床へと落ちた。
「ちょ……」
剣を振り、金属音を響かせて、青年が鞘へとしまった。
それから俺を見ると、少し息を飲み、その後笑みを浮かべた。
何を笑っているんだこの騎士は、今完全に俺の家で器物損壊を働いたっていうのに!
「失礼しました。てっきり廃墟なのかと――貴方を捜しており、中を確認させて貰わなければなりませんでしたので」
「いやだからって……」
俺も愛想笑いを浮かべようとしたが、頬がピクピクと引きつった。
「これも騎士の任務ゆえ。ご気分を害されたかも知れませんが、ご容赦下さい」
許せるわけねぇだろ。
何を考えてるんだこの馬鹿!
と、叫びたかったが、彼はいまだに剣の柄に手をかけたままだったので、斬られるのは御免だったから顔を背けて頷いた。
「実は折り入ってご相談があるのです、ソーマ様」
「相談……というか、俺のことを知ってるのか?」
久しぶりに自分の名前を聞いて、俺は首を捻った。
「存じております。タクト卿ソーマ様ですね? マジェスティ魔術顧問の一番弟子だと覗っております」
「待ってくれ。それは誤解だから」
懐かしい名前を聞いて(勿論自分の名前も懐かしかったが)、俺は苦笑しながら、視線をテーブルへと向けた。
「座って話そう。確かに俺は、タクト・ソーマだ」
いまだに名前すら聞いていない騎士をリビングのソファへと促し、俺はその正面に座った。側に置きっぱなしにしていた茶器から、珈琲を注ぐ。
そんな気分になったのは、マジェスティという名前を聞いたからだ。
ルガート・マジェスティはエルフと人間の混血だから、今でも生きていてもおかしくない。最後に話したときは、ルイヴァルダの宮廷魔術師長の座を引き受けてくれた、俺の一番弟子だ。俺が弟子なのではなく、向こうが俺の弟子なのである。
「誤解だなんてご謙遜を。しかし……正直、貴方のようにお若い方だとは思いませんでした」
カップを差し出すと、会釈して騎士がそれを受け取った。
「若作りなだけです」
そう応えながら、俺が不老だという事は、そういえば今ではマジェスティしか知らないのだったなぁと発見した。いや、一人でも知っている人がいただけで、なんだか嬉しい。此処は一発、マジェスティの弟子のふりをしてやり過ごそう。不老だなんて露見したら、気持ち悪がられそうだ。雨男の称号よりもたちが悪い。
「所で貴方は?」
いつまで経っても名乗らない青年に、俺は穏やかな作り笑いで聞いた。
何度も名乗るタイミングあっただろっ、と思わないでもない。
「私はサフィレイス=ファレルと申します。第二騎士団で、団長を務めております」
年齢の割には、随分と高い地位にいるんだなぁと俺は驚いた。王宮の警護をしている近衛騎士団と王都の警護をしている第一騎士団は、地位こそ上だが、実際に国防を担っている第二騎士団は、かなりの実力を持っていると聞いたことがある。確か主に対魔獣を任務にしていたはずだ。
国外との戦に備えて国境を守っているのが、第三騎士団で、第四騎士団は各地の都市で自警団と共に、市民の安全を一挙に担っているのだったかな。まぁ聞いたというか、これも多分、俺は新聞で読んだのだろう。
「王都に隣接する商都エルファーレンの外れにある渓谷に、魔獣が出ました。所属を問わず、各騎士団と宮廷魔術師団の精鋭で挑んだのですが、敗走しました」
淡々とサフィレイスさんが言う。長いので、俺は心の中で、サフという愛称をつけた。
少しだけ金色の瞳が細くなった気がしたから、魔獣に負けたのは相当辛かったのだろう。
「我々が諦めれば、国は脅威にさらされます」
そりゃそうだ。
こんな所に来ている場合じゃない、彼も早急に魔獣討伐に参加した方が良いだろう。
「頑張って下さい」
俺は力の限り応援した。精一杯のエールだ。
「……出現した魔獣は、非常に魔力・攻撃力ともに優れております。魔術師の手で結界を張り、遠隔から攻撃するのが、最も被害を少なくする方法だという結論が出ました。兎に角一撃を与え負傷させることが出来れば、その後は我々剣士も力になれるでしょう。しかしながら、現在剣士は近づくことすら難しいのです。近づいた者は、皆落命しました」
「お悔やみ申し上げます――……え、けどさ、倒し方想定してるんだったら、後は魔術師を揃えれば良いんじゃないのか? マジェスティ――師匠、だっているわけだろ? 宮廷魔術師だって沢山いるだろ?」
攻撃魔法や防御魔法に特化した宮廷魔術師が大量に揃っているのだから、何を迷うことがあるのだろう。
「騎士団に所属している魔術師は、攻防に慣れておりますが、宮廷魔術師は大半が戦闘の経験すらないのです」
何とも平和な世の中になったものだなぁと俺は思った。良いことだ。
「けどなぁ……それじゃあ、何のために宮廷魔術師がいるんだよ?」
「基本的には、魔術の研究をしています」
「研究してるんなら、応用して結界の一つや二つ張れるだろ?」
「……張ることが出来た魔術師は、皆先の戦いで負傷しました。攻撃魔法を使えた宮廷魔術師もです。騎士団の魔術師の多くも、負傷しています。回復を待てば、魔獣は王都へと侵攻するでしょう。猶予がないのです」
「大変だな」
「ええ、非常に困難な事態なのです」
「何人くらい、魔術師残ってるんだ?」
少しばかり同情して、俺は尋ねた。
「三名です。マジェスティ魔術顧問は、ご高齢ですし、仮に魔術師が全滅した場合の再雇用などの手配があるため、王宮に残られます」
「三人もいるんなら、大丈夫だろ。一人が結界張って、一人が剣士に補助魔法かけて、もう一人が攻撃すれば良いんだから」
「前回は百名が結界を張り、二十名が補助魔法をかけ、二百名が攻撃魔法を使用しました。結果、無事に怪我もなく生還したのは、二名です。一名は奇跡的に、魔獣の攻撃を避けることが出来ました。もう一名は貴族の出なので、比較的安全な場所にいて難を逃れました。今回はそこに、実践未経験の新人が一人加わることになります。大丈夫だと思いますか?」
いや、俺に聞かれても分かるわけないだろ。
新人さんに期待しろ、と言うしかない。後は幸運の持ち主というのは、良い結果を全体にも及ぼしやすいし、良いだろう。貴族だって元々、血筋的に魔力が強い家柄なのだろうから、上手く実力が発揮できれば見込みはある。慰めるなら、こんな所か。俺ならば、そんな戦闘に参加するのは、絶対に嫌だけどな。
「……マジェスティには、いっぱい弟子がいただろ。そいつらに声かけてみたら? 弟子じゃなくても、孫弟子とか色々いるだろ」
「ええ。ですので、こちらにうかがった次第です」
俺は珈琲を吹きそうになった。
サフは冷静に、至極真面目な顔つきで、珈琲を飲んでいる。
「ソーマ様。助力していただきたいのです」
「無理だな!」
「……」
「……」
眉を顰め、目を細め、威圧感たっぷりの不機嫌そうな顔で、サフに睨まれた。
嫌だってそんな何百人もお亡くなりになったような魔獣相手に、俺一人が加わったからって、何か奇跡が起きるわけでもあるまい。大体攻撃魔法なんて、最近じゃ、ひっそりと森の奥で試し打ちしてばっかりだから、生き物(?)相手に使って倒せる自信はない。
「ソーマ様」
「……」
立ち上がったサフが、俺の正面に立ち、グイッと詰め寄ってきた。
非常に非常に真剣な顔をしている。
「これは国家の一大事なのです」
今は俺の一大事です。
「お願いいたします」
お願いって言うより、これは最早、脅迫じゃないのだろうかと、思わず震えた。
怖い、怖い、怖い。
「その、なんだ? 魔獣って、具体的に、何?」
「腐竜です」
「え?」
「驚かれるのも無理はない、私も初めて見ました。てっきり空想の存在だとばかり」
サフの瞳が揺れる。
畏怖するような色が宿った。
しかし俺は別に、吃驚していたわけではない。
昔は腐竜なんて、そこら中にいたものである。それこそ地下ダンジョン(この大陸の地下には、迷路が広がっているのだ)に降りれば、十回に一回くらいは遭遇した。まぁ俺は、雨のせいでダンジョンが水没する可能性があったので、晴男がいないと迷宮には降りられないので、今は知らないけど。
それにしてもこの数百年の間に、腐竜は、そんなに強くなったのか……昔なら、中堅どころの冒険者パーティならば、一回の抗戦で一匹倒すのが普通だった。中堅になるための登竜門的な位置づけだった。俺が知る腐竜とは、最早違う魔獣になっているのだろう。じゃあやっぱり、俺に倒すのは無理だ。
「残念ですが……」
「貴方だけが頼りなのです」
「いや、いっぱい弟子はいるんじゃ……」
「マジェスティ魔術顧問が知る限り、師弟関係を結んでいる魔術師の中で、現在単独で腐竜を倒せる魔術師は、貴方だけだと聞いています」
「そうだ、マジェスティが倒せば良いんじゃ……」
「ですから顧問はご高齢であり……それに現在、持病の腰痛と胃痛と風邪で寝込んでおられます」
「仮病じゃねぇかよ、それ」
「ストレスだと宮廷医務官は診断しました――ソーマ様」
再びサフが、俺をじっと見た。
「どうか、私と共に王都へ。その後、腐竜退治にお力添え下さい」
「え、いやぁ……」
「お願いです」
「け、けどなぁ……」
「お願いします」
俺は、大変押しに弱い。
我ながら泣きたくなるほど、押しに弱い。
しかし此処でひいては、と思ったものの、サフは俺を力強い目で見ているだけだ。あちらにも一歩も退く気配はない。
「や、役に立たないかも知れないけど、それで良ければ……」
おろおろと俺は視線を彷徨わせ、顔を背ける。
「有難うございます」
すると初めてサフが、穏やかな笑顔を浮かべた。日溜まりのような、ポカポカした温かい笑みだ。
なんだかその表情を見ているだけで、俺はちょっとだけ良いことをした気分になって、全身から力が抜けた。ソファに深々と背を預け、細く吐息する。
「それで、いつ出発するんですか?」
「今すぐにでも」
笑顔のまま続いたサフの声に、俺は、大切なことを思い出した。
「あ」
「ご都合が悪いですか? 何かご予定が?」
「いやその、予定と言えば、パンを焼くとかそのくらいなんだけどな」
何せ、来客自体、百年以上ぶりであるほどだ。
そんなことよりも、俺は重要なことを忘れていた。
「傘持ってきたか?」
「傘? 快晴ですが」
窓の外を一瞥し、サフが首を傾げる。
「俺が外に出ると、雨が降るんだよ。扉が無くなっても、屋内にいれば天気は変わらないんだけどな」
破壊された扉の残骸をちらりと見てから、俺は無意識に雨合羽を見据えた。
俺にとっては最早雨は生活の一部なので、片手が塞がる傘を一々差してはいられない。長靴だって忘れてはならない。防水加工した靴なんかじゃ、全く駄目なのだ。
「しかも腐竜がいる場所って渓谷だよな……腐竜を退治しても、災害が起きるかも知れない」
土石流になるか、川が溢れて洪水になるか、その辺までは俺にも分からないが、恐らく大変なことにはなるだろう。そう言った意味での結界も、張る準備をしなければならない。
「大丈夫ですよ、私、晴男ですから」
はっはっは、と明るくサフが笑った。
イラッときた。
こういう事を言う奴は良くいる。
俺はそう言う奴が基本的に嫌いだ。俺の気持ちを考えてみろよ、と思う。
折角傘(大量にある)を一本贈呈しようと思っていたのだが、その気が消失した。
俺は大変心が狭いのである。
「じゃあ行くか」
立ち上がり、俺は雨合羽(灰色の外套にしか見えない)を纏い、しっかりとフードを被った。一見ブーツに見えるお洒落長靴へと履き替える。それから、カッパの隣にかけてあった、肩掛け鞄を持った。
俺の一人暮らしを支えてくれているのは、間違いなくこの四次元鞄だ。何でもどんなものでもバンバン容量関係無しに入り、劣化もせず、好きなときに取り出し可能、と言うチートアイテムだ。
「曇り空……だと……?」
外へと一歩踏み出し、雨を覚悟していた俺は、思わず空を見上げた。
紫っぽい色の厚い雲が空を覆っていることは確かだが、雨は降っていない。
雨が降っていない!
雨空以外を久しぶりに見た!
アーガイルと大喧嘩する前日に曇り空を見たのが最後の雨空以外の記憶で、それ以降俺は、雨以外を屋外で見たことがなかった。
フードを取って何度も空を見上げたが、顔が濡れない!
感動してて両手がわなわなと震える。
こ・れ・は!
リアルにサフが晴男だったという事だ!
それも俺の雨男っぷりに拮抗できるほどの、晴男体質だという事だ!
――しかしそんな晴男が、そこら中に転がっているわけがない。
俺の記憶が正しければ、今でも各国の皇族・王族は、次第に弱まりつつも、直系の子孫は皆、晴・雷・風の体質を受け継いでいると聞いたことがある。寧ろ俺たちの世代にその能力が強くハッキリ出てしまっていた、とも考えられる。これは新聞に載っていた民間伝承のコラムに書いてあったことだから、真偽は知らないが、可能性はあるだろう。
要するにサフは、アーガイルの子孫……つまりは、皇国イスルガンドの皇帝の血を引いている可能性が高い。
「サフって、イスルガンドの皇族なのか?」
嬉しさ極まって、俺は思わず尋ねた。
瞬間、隣を歩いていたサフが足を止めた。
「?」
首を傾げた俺は、直後すぐ右側にあった木の幹に後頭部を打ち付けた。
突然の衝撃に息を飲み、事態を理解しようと、何度も瞬く。
「何故だ?」
サフの口調が変わっていた。
ひんやりとしたものが、顎と首の皮膚に触れる。
曇り空の下でも、光り輝いているのは、俊足で抜刀されたサフの剣だった。
思ったよりも大きい片手剣で、両刃。
これまでもサフの顔は怖かったが、今は冷酷さが滲んでいる。
射殺しそうな眼――外見は全く似ていないが、敵を屠っていた時のアーガイルの眼とそっくりだった。普段は温厚だったくせに、アイツは、やるときはサクッと手を下したものである。嗚呼、俺、殺されるわ、これ。
「何故そう思ったのかと、聞いている」
剣がさらに突きつけられた。
薄皮一枚だろうが、切れたようで、首にピリリと痛みが走った。
恐怖で俺はガクガクと震えるしかできない。
目を見開き、唇を震わせたまま、ただ酸素を求めて呼吸だけを何とかこなした。
「答えろ」
怒鳴っているわけでもないのに、寧ろ感情的に言われた方がまだ気が楽だろうと思えるほどの怖さを伴って、サフが追求してきた。それから震えている俺を見て、嘲笑するように、彼は唇の片端を持ち上げた。残忍な笑みだった。日溜まりには、ほど遠い。
直後、彼の背後に、稲光が趨った。
剣はその光を映して一瞬さらに明るく輝いた。
「か、雷……なッ……教国サージェントの王族でもあるのか……」
よく考えてみれば、曇っているのだし偶然雷が光っただけなのかも知れなかったが、動揺と混乱でそう口にしていた。
「その通りだ。俺は、皇国と教国の血を引いている。何故そのことが分かったんだ?」
繰り返し尋ねられ、俺は言葉を探した。
どう説明すればいいのだろうか。
「言葉を変えよう。何故知っている?」
「……」
「マジェスティ魔術顧問もご存じだったのか?」
だとすれば、二人殺すことになる、そんな風に彼の瞳は語っていた。
腐竜のことよりも、こちらの口封じの方が大切なのだろうか。
なんてこった!
俺、は。
聞いてはいけないことを聞いてしまったのか!
「すいません、すいません、命だけはお助け下さい!」
反射的に土下座していた。
どうやって剣の間からすり抜けたのかは、自分でも不明だ。
もう俺は無我夢中だ。
「俺、本当にもうそれは酷い雨男で、それを相殺……もしくは、複合効果になる勇者ご一行様体質の……ご一行様の子孫の人といると、雨が、ほら、降らないので、ちょぉっと、ちょっとだけ、敏感と言いますか……」
「冗談が上手いな」
「冗談じゃなくて、本当、本当なんだ、信じて下さい!」
「無理がある」
確かに俺も、誰かにこんな事を言われたら信じない。
だが、事実なのだから仕方がないではないか。
必死で額を、茂みに押し付けた。
草が濡れていないのが有難い。
俺は自分の浅はかさを呪った。考えても見れば、南西部にある三カ国の内の二国の元主の血縁者であるのに、残り一つの別国で騎士団に所属しているなんて、なんだか変だ。きっと何か事情があるのだろう。
「さっさと口を割って一瞬で楽になるのと、言わずに長く苦しんで死ぬのであれば、どちらが好みだ?」
「生還したいです!」
「ならばとりあえず、言え。話せ。もしかしたら俺の気が変わるかも知れないぞ」
一人称まで変わってるじゃねぇかよと、つっこみたい。
「……」
俺は唇を噛んだ。
恐怖で歯がガチガチとなる。
言うべき事は特にないが、何か言ったら、と言うかくだらないことを言ったら、斬首されそうだ。何かそれっぽい言葉をひねり出さなければ。
「――サフ、さん」
「それは俺の名前を呼んでいるつもりなのか?」
ピシャリと冷たく言われ、俺は涙が浮かんできた。
この歳になって泣くなんて恥ずかしい。しかしながら、心の愛称がサフで定着していたため……
「名前、覚えて無くて……すいません、すいません、すいません」
「わざわざ覚えなければならないほど俺は無名だったのか」
何だこの自信家は!
魔王を討伐した(ご一行様の中にいた)俺の名前だって、今じゃ歴史書に載っているかすら怪しいんだぞ。
「騎士団長!」
「……なんだ」
どうやらこの呼び名はお気に召したらしい。
しかしその目が、まぁそれで許してやるよと、暗に語っていた。
「き、騎士団長は、怒った時や感情が高ぶったときなどに、側で雷が落ちたりしませんか?」
「俺の武勇伝の一つになるくらいには頻繁に落雷するが? この大陸に住まう者なら、多くがその逸話を耳にしたことぐらいあるだろう」
「じゃ、じゃあ! どんなに土砂降りでも、家から外へ出ると晴れていたりは……?」
「俺は晴男だとさっき言っただろう」
駄目だ。
俺にはもう手札はない。
「だからそれと同じように、俺は、俺は必ず、雨が降るんだよ!」
もうどうにでもなれという気分で叫んだ。
「今は降っていないようだが?」
「その通り! つまり騎士団長の晴男っぷりと、俺の雨男っぷりが拮抗してるんだ!」
「……」
「この俺の雨男っぷりに拮抗できる人間なんて、それこそ勇者だったアーガイルくらいのものなんだよ! つまり、お前は、アーガイルの子孫だろ! って、俺はそれが言いたかっただけなんだ! ちなみに雷は、レンダルシアの体質だ! だからお前は、両方の血を引き継いでるんだろうなって思ったわけです!」
「まるで伝説の勇者達を見てきたような口ぶりだな」
「見ました、見ましたよ!」
「そんなはずがないだろう。ソーマと言ったな? まだ貴様は十代だろう。十代後半にしかみえない。若作りだとは良く言ったものだな、どう頑張って上に見ても、俺には子供にしか見えん。直に勇者を見たことがあるのだとすれば、とっくに貴様は鬼籍に入っているはずだ」
「人を見た目で判断しちゃ駄目だって、誰かお前に教えてくれる奴いなかったのかよ!?」
「人間じゃない、わけがないよな? 長命のエルフ族とも、魔族とも、明らかに特徴が違うようだが」
「それはそのだからな、そう、そうだよあれだ、伝説の勇者ご一行様の中にいた脇役としてお伽噺にもほら魔術師が出てくるだろ」
「結界の魔術師か」
「それそれそれ。俺は、それ――……」
言いかけて、信憑性に欠けると一蹴されそうだと気がついた。
「……――の、子孫です。その結界の魔術師が、雨男だったんだよ。だから俺も雨男。先祖代々雨男雨女。だから、幼い頃から、晴男に会ったら逃すなと言われて育ってきたんだ、嗚呼そうだとも! 皇帝の直系に遭遇する機会なんて、生きてて全くないから、そりゃ敏
感にもなるだろ! お前が晴男で雷男だってことは、墓場まで持ってく秘密にするって誓うから、見逃せ!」
必死で言い切った俺を、胡散臭そうな顔でサフが見る。
「……」
少しだけ怖さが減っていたが、代わりに諦観しているような表情が見えた。
「言いたいことはそれだけか?」
淡々とサフが口にした。
仕方がないので、俺は必死に頷いた。
顔は上げているが、まだ正座したままなので、膝が痛い。
普段使わない筋肉を動かすというのは辛いものだ。
「別に晴男で雷男である事を、俺は隠していない。そんなことで、俺の血統を勘ぐってきたのは貴様だけだ。先ほどの言葉が、事実だとすれば、だが」
「え、そうなのか?」
「あたりまえだろう。墓場まで持っていくのは、血筋についての考えにしてくれ」
「あ、ああ」
「結界の魔術師の子孫だというなら、腕も確かなんだろうな?」
「……ま、まぁまぁ」
「腐竜退治までの間、ひとまず様子見してやる。逃げたら殺すからな」
殺すって言葉は、そんなに簡単に言っちゃいけないと思います。
「その間に尻尾を出したら、腐竜を退治した後殺す」
「……」
「腕がなければ、腐竜が殺してくれるだろうしな」
この人、怖い。
「立て。さっさと行くぞ」
「は、はい!」
俺は威勢良く立ち上がろうとして――……そして顔面からすっころんだ。
足が痺れていて、力が入らなかったのだ。
「何だ、恐怖で腰が抜けたのか?」
「違う! 足が!」
「ほぅ」
楽しそうに笑うと、俺の麻痺している足を、屈んでサフが掴んだ。
ぎゃぁーっ、と、思わず叫ぶ。
「痛、痛、止めっ!」
「結界の魔術師は子孫に恵まれなかったようだな。大変残念だ。こんな頭の悪い跡取りだとは。しかもプライドというものがないらしい」
心底悲しそうな顔を作って、サフがそんなことを言う。なんて言いぐさだ。お前に俺の何が分かるって言うんだ! しかし怖いので黙っていた。
「お手をどうぞ、ソーマ様」
「は、はい、え?」
「私が、お運びいたします」
俺の腕を首にかけて、サフは俗に言うお姫様だっこというものをしてくれた。
物腰が丁寧なものに戻っている。
機嫌が直ったのだろうか?
「サフ……騎士団長。あのう、大変有難いんですが、とっても恥ずかしいです」
「サフで良い。お前と呼ばれるよりは幾分かましだしな。もう貴様はどうせ俺の名前を覚える気など無いだろう。俺の名前を知らない人間に、久しぶりに会った」
彼はそんなに有名な人なのか。
「人前では、俺は体面上、貴様には礼儀を持って接しなければならないからな」
「な、なるほど……?」
「だが今、貴様の命を握っているのは、俺だという事を忘れるなよ、ソーマ様?」
なんだかよく分からないが、とりあえず怖いと言うことだけは分かる。
大人しくしていよう。
うん、それがいいだろう。
このようにして俺は、黒い森から出ることとなった。