笑顔の練習
――表情筋?
雲中子は、鏡を見て考える。人体の一部として、その存在は当然知っている。だが、笑った記憶が過去を振り返っても無かった。
そもそも笑う必要性を感じない。特段楽しいわけでも無い時分に、へらへらする理由も無い。
無機質で、無表情。
時にそれは冷酷で冷徹にも映る。
崑崙山において、洞府からあまり出ず、時に玉虚宮に顔を出しても笑う姿を見せない雲中子は、ある種遠巻きにされていた。そんな雲中子が、鏡を見るに至ったのは、つい今し方、それこそ玉虚宮において指摘されたからだ。
「お前は、笑わないな」
指摘したのは、燃燈道人。本日雲中子を呼び出した主だった。
「――だから、なんだい?」
主題は、新しい傷薬についてであり、生物形態のその粘着質なある種の生物を、バイオキシンAと名付けたと言った報告をした直後の事である。
「別に」
「傷薬と私の笑顔に、何か関連性があるのかねぇ?」
特に嫌味を返したわけではない。雲中子は、純粋に思った事を呟いただけだ。
同様に、燃燈もただ漠然と感じた事を述べただけである。
「無いな」
「だろうねぇ」
「だが私は、雲中子は笑っている方が良いように感じる」
「へぇ」
「私はお前の笑顔を見てみたいぞ」
「――は?」
不意に放たれた燃燈の言葉の真意を図りかねて、雲中子は眉を顰めた。
「どうしたらお前は笑ってくれるんだ?」
「そうだねぇ……このバイオキシンが上手く効能を表したら、笑顔にもなるかもしれないねぇ」
その時は、そう答えた。
そうして洞府へと戻り、鏡を見た次第である。
「……」
ドキドキドキドキ煩い鼓動を自覚したのは、その直後だった。雲中子は骨張った長い指先で、口元を覆う。頬が熱いのは、決して気のせいでは無い。
「私の笑顔が見たい? 意味が分からない。意図も不明だねぇ」
ブツブツと呟く声は、非常に小さい。だが、意識するなという方が無理だった。
「ああいうのを、天然のタラシとでも言うのかねぇ……」
きっと燃燈に深い考えは無かったはずだと、雲中子はこの時結論づけた。
だがその後。
バイオキシンAからBへ移行する研究の兼ね合いで、何度も何度も燃燈と顔を合わせた。最初は玉虚宮で打ち合わせをしていたが、その内に研究に没頭する雲中子の実験室へと燃燈が自ら足を運んで進捗を確認するようになるまで、そう時間は要しなかった。
玉柱洞に、燃燈がいる姿が、どんどん自然なものへと変わっていく。
この日は、燃燈が酒を持参して雲中子の洞府を訪れた。約束の定期報告の日で無くとも、燃燈が終南山へと訪れる頻度は増えていたから、雲中子も自然と出迎える。
「やぁ、燃燈」
「美味しい酒を手に入れてな」
そう述べてから、じっと燃燈が雲中子を見た。目が合う。まじまじと見据えられた雲中子は、小首を傾げた。
「どうかしたのかい?」
「いや……お前も笑うようになったなと思ってな」
「――え?」
「やはりお前には、笑顔が似合う」
燃燈が優しい目をし、唇の両端を持ち上げた。雲中子の胸がドクンと啼く。
「私、は……笑っていたかい?」
「ああ。私はやはりお前の笑顔が好きらしい」
そう告げた燃燈が、立ったまま硬直している雲中子の隣を通り抜けて、勝手知ったる玉柱洞のリビングへと向かう。雲中子は慌てて振り返り、その背を追いかけた。
――無意識だった。無自覚だった。
片手で頬を撫でながら、雲中子は唇を噛む。いつの間にか、するりと心の中に入り込んできた燃燈について、嫌でも考えさせられる。
「ただし、それを知るのが私ばかりというのは、もったいないと正直思うぞ」
「え?」
「優越感はあるが、お前は決して人嫌いでも無ければ、他者と会話が成立しない部類の頑固者でも無い。誤解されるような表情は、もったいないのではないか?」
リビングの長椅子に座した燃燈は、既に雲中子が用意していた卓上のグラスをひっくり返す。燃燈が氷をグラスに入れる姿を、暫しの間雲中子は見ていた。
――燃燈が、元始天尊と拳を交え、地に墜ちたと雲中子が耳にしたのは、それから三年後の事だった。バイオキシンGを燃燈にサンプルとして渡した翌日だった。
愕然とした、というのが正しい。雲中子は無意識に爪を掌に立てていた。
「燃燈が……もう……」
死んだ。
そう言葉にする事は出来なくて、雲中子は双眸を伏せ頭を振る。
「崑崙にいないのか」
換言したのは必至の抵抗だった。現実に対しての。燃燈は、墜ちたその時、果たして己が渡した傷薬――バイオキシンGと共にあったのかと考えていたら……不思議と唇の両端が持ち上がった。けれど両目からは、ボロボロと涙が零れ落ちていく。
「笑った顔が好きだって言った癖に。君がいないのに、笑えるはずが無いじゃないか」
雲中子は、それでも必死に笑顔を浮かべながら泣いた。何度も何度も手の甲で涙を拭ったせいで、目元が赤くなる。その後数日の間、雲中子は泣きくれた。燃燈の事ばかり考えていた。
そうして、再び鏡の前に立つ頃には、少し窶れていた。
――鏡の中の自分とは決して目が合わないという話を、漠然と想起しながら、雲中子は、必死で口角を持ち上げる。燃燈が、笑っていろと言ったからだ。結果、ぎこちないニタリとした笑みがそこには浮かんだ。我ながら、気色悪いなと、雲中子は苦い笑みを続いて浮かべる。
「いつかまた、私が心から笑える日は、来るのかねぇ……」
この時、確かに雲中子はそう感じた。
けれど月日の流れは優しくて、その後得た、太乙や道徳といった友人との空間や、育っていく雷震子という弟子の成長は、雲中子に笑顔を齎す。
いつか。
そういつか。
燃燈に、この穏やかな日々がくれた笑顔を見せてみたいと、それでも胸中では常に、雲中子は燃燈の事を想っていた。
けれどそんな日々も、封神計画による混乱や仙界大戦という悲痛な出来事により、呆気なく終焉を迎えた。雲中子は、己の掌を見る。
「折角、笑えるようになったというのにねぇ……」
今度こそもう、笑顔を作るのは無理かもしれない。心が折れそうになる。
だが――雲中子は、それでも下手くそな笑顔を止めなかった。
いつか燃燈が好きだと言ってくれたからでもあったし、封神された友との思い出を忘れがたかった事もあれば、奮闘する太乙や弟子に触れている事も理由だったが……何よりも、青い空を見上げる度に、想ったからだ。少しでも、己に出来る事をしたい、と。例えばその内の一つが、下手くそな笑顔だった。
鏡を見る度、毎朝雲中子は、己の頬を無理に持ち上げた。歪な笑みに、自分こそが苦笑を禁じ得ないのだが、それでも笑う事――余裕有るそぶりを忘れなかった。
――燃燈道人が、皆の前に姿を現したその時の衝撃を、恐らく雲中子は生涯忘れないだろうと感じている。嘗て己の笑顔を好きだと言ってくれた、失ったと思った人物との邂逅。雲中子は、やはり涙ぐみそうになったが、その時も驚いた顔をした直後、下手くそな笑顔を浮かべたものである。
その後、女?との戦いも終わり、ある種の平穏が、雲中子を取り巻く環境に戻ってきた。新しく構えた洞府で、その日雲中子はアンプルを振っていた。
「邪魔をする」
そこにするりと、まるで嘗ての在りし日のように訪れたのは、燃燈だった。
驚いて雲中子は顔を上げる。取り落としそうになったアンプルを、慎重に実験台に置く。
「燃燈……――その、生きていて何よりだねぇ」
再会した時、まず何を告げようか、雲中子はずっと考えていた。燃燈の生存を知ってから。燃燈はといえば、空色の瞳に、相変わらず優しい色を宿して雲中子を見ている。それを確認して、雲中子は繰り返し練習した笑顔を披露する事に決めた。ニタリ、と、そんな笑みが雲中子の顔に浮かぶ。すると燃燈が吹き出した。
「会いたかった。だが私が見たかった笑顔とは異なるな」
「ど、どういう意味だい?」
「昔のように自然には、もう出迎えてくれないのか?」
「……む、昔だって、仕事の話ばかりだったように思うけれどねぇ。それで、今日は?」
「ああ。墜ちる前に言い忘れた事があると思い出してな」
燃燈はそこまで言うと、雲中子に一歩歩み寄った。
そしてじっと雲中子の目を見ると、唇の両端を持ち上げる。
「ずっと、好きだった」
「っ」
「だが、待っていて欲しいと伝える状況には無かった。それでも、気持ちだけでも言っておくべきだったと何度も後悔をした。雲中子、私はお前を愛している」
それは、雲中子が何よりも欲しかった言葉だった。
だからまた下手くそな笑みを披露して、余裕有るそぶりで受け入れようとし――けれどそれは出来なくて、雲中子の双眸からは、涙が筋を作る。
「言うのが遅い」
「だが、待っていてくれたのだろう?」
「どこから来るのかねぇ、その自信は――っ、当然だろう。私だって、私だって……君だけを……」
雲中子が目を擦ろうとした時、燃燈がその手首を取った。
「赤くなるぞ」
「……」
「もう、私達に標は無い。これから、共に歩いてくれないか?」
燃燈はそう告げると雲中子を抱きしめた。その腕にすがりながら、雲中子は静かに泣く。そこには、確かに愛があった。
この日から、雲中子と燃燈は付き合い始めた。
雲中子は毎朝、相変わらず笑顔の練習を欠かさないが、燃燈がそばにいるだけで、それは不要になっていく。
――ああ、幸せだな。
と、雲中子は感じながら、その日は庭に出て、青い空を見上げた。燃燈の瞳の色によく似た空を見て、満たされた心地になる。
「これからは、練習は不要かもしれないねぇ」
呟いた雲中子の表情は穏やかで、そこには自然な笑みが浮かんでいる。
そんな一幕が、いつかあった。
(終)