カタツムリ







 燃燈道人が地に落ちたという一報が、崑崙山を駆け巡った時、雲中子は実験室にいた為、暫くの間、それを知らなかった――わけでもない。誰も雲中子に知らせる者はおらず大騒ぎになっていたが、馴染んだ強い仙気が崑崙山から消失した事に気づけないほど、雲中子には実力が無かったわけでは無いからだ。

 ピシリ、と。
 その時、試験管を持っていた手に力を込めてしまい、硝子に罅が入った。破片と漏れ出てきた液体が手に触れ、傷と塩素でピリリと皮膚が焼けるようだった。

 雲中子は、最後に燃燈と会った時の事を思い出していた。

『私を信じていてくれ』

 それがどういう意味合いなのか、雲中子はその時、尋ねる事をしなかった。ただ燃燈の腕の中にすっぽりと収まって、無言で立っていただけだ。

 ただその後、一言だけ、雲中子は伝えた。

『負けないで』


 ――燃燈と雲中子の付き合いを知っている者は、この崑崙山には、ほとんどいない。あるいは恋仲と言える関係だったのかもしれないが、傍から見ている分には、燃燈が時折、終南山を訪れるのは、『仕事』だろうという認識の者が多数だった。

 そもそも燃燈は、人目を避けて、雲中子の元へと足を運んでばかりだった。それには、理由がある。主要な燃燈と雲中子の会話の主題は、『始祖』についてだったからだ。それは、決して、女?に知られるわけにはいかない密談。

 仙人骨を持つ者の体、宿す力は、始祖にどんどん近しくなっていく。それを研究対象とする雲中子と、王奕の存在を知った燃燈は、その魂魄の在り方について言葉と議論を重ねる事が増えていった。その内に、肌を重ねたのは、どちらから誘ったのだったか。

『必ず世界を取り戻す。それまで、待っていてくれないか。私を信じていて欲しい』

 燃燈の嘯くような声音を、雲中子は思い出していた。指先から滴る紅い血を見ながら、ぼんやりと、実験室で立ち尽くしていた。

「――馬鹿だよねぇ。私が、本当に待っていると思っているのかな、燃燈は」

 そんな雲中子の呟きを耳にする者は、誰もいなかった。



 ――砂礫に交じる、古代文明の残滓。
申公豹は、時折その鑑定を、雲中子に依頼する。人間の文明は儚く、百年も立たずに自然に飲まれ、紙は朽ちていく。最も色濃く気配を残すのは、石だ。

「何度、繰り返しているのでしょうね」

 終南山へと訪れた申公豹の声に、雲中子は何も言わず、アンプルに石の破片を入れて、検査機にかける。申公豹の問いに、太上老君は、今の所、何も答えてはくれないらしい。

「君の推測が正しいとするならば、歴史の道標は、『より適切で母星に近い者』を生み出そうとしているという事になるのだろうねぇ」
「歴史がなぞられているとするのならば、その世界にあっても、私はやはり真相を知りたいと願っていたのでしょうか?」
「願い、か。あるいは名前は同一でも、そこには違った個性があったかもしれないと、私なんかは感じるけれどねぇ」

 例えば。
 燃燈が、よく知る燃燈で無かったならば。
 恋に落ちたか、雲中子は分からない。今もなお、信じて待っているかも不明だ。

 ――生きている、と。確かにこの時、雲中子は信じていた。信じていたかった。


 燃燈が不在の日常が、すぐに自然なものへと成り代わっていく。時の洞府へと申公豹が気まぐれに訪れる意外は、道徳や太乙が顔を出し、長閑な昼下がりにお茶をするような関係。雲中子は、そんな日常に、慣れていく。

 それでも心の中では、『待っていてくれ』と述べた燃燈の声が、確かに残響している。だからいつか再会した時に、備えている。燃燈が戻ってくる事を、雲中子は疑わない。

 けれど――時々、疲れてしまう。摩耗した心が、乾涸びて行く。
 世の、歴史の、命運をかけて、戦いに身を費やす事、それ自体を否定する気は無い。
 だが、今の平穏の中に、燃燈がいないというその一点。

 一人きりの実験室で、バイオキシンを培養しながら、きつく雲中子は拳を握る。爪を掌に立てて、眉間に皺を寄せて、唇を噛んだ。その間も、燃燈の声を反芻していた。信念、それを、燃燈が抱いている事を、誰よりも雲中子は理解しているのかもしれなかったが、待つ事は、苦痛以外の何者でも無かった。


「なぁ、師匠?」

 ――崑崙山に梅雨が訪れようとしていた。雨が上がってすぐ、濡れた紫陽花の葉に、雷震子が手をかけたのを一瞥しながら、雲中子は腕を組む。

「俺……体力作り、さ……あんまり好きじゃない」

 弟子を迎えて、二年目の事だった。幼い雷震子の道服を手ずから作った雲中子は、その言葉に無表情のままで目を伏せる。

「では、何がしたいんだい?」
「お絵描き。あと、杏が食べたい」
「そう。では、洞府の周りを岩を持ってあと二百周したら、休憩としようか」

 雲中子は、修行に手を抜かない。本人は、実験をしてばかりいるように見えるが、攻撃用の宝貝の使用法も熟知していれば、根本的には体術にも長けている。基礎的な筋肉がきれいについている雲中子の肢体は、ただしゆったりとした白い道服に包まれているから、彼が武闘派でもある事を知る者は少ないのだが。

 燃燈との出会いを、漠然と雲中子は思い出した。雲中子は元始天尊の直弟子ではない。崑崙山脈が成立した頃には、既に昇仙していた。それは燃燈も同様だったから、過去には何度も手合わせをし、稽古をした記憶もある。長い付き合いだ。

 研究者としての雲中子しか、道徳や太乙は知らない。けれど『師』の顔をしている雲中子は、雷震子にありとあらゆる事柄を叩き込んでいる。スパルタだと、それを知る者は名指しするほどだ。

「杏は甘く漬けたよ」

 修行後。
 雲中子が皿にのせた杏の砂糖漬けを出すと、画用紙を前にした雷震子が、嬉しそうな顔をした。修業中は涙を零す事もある雷震子だが、こうした昼下がりには、笑顔を浮かべる事も多い。クレヨンを手にしている雷震子は、先ほど見たばかりの紫陽花を描いていた。その葉に乗るカタツムリを、雲中子は何気なく見る。

「どうだ? 上手いだろ!」
「雷震子。カタツムリにとって、紫陽花の葉は猛毒だから、そのような場面はありえない」
「っ」

 褒めてくれるだろうと盲信していた雷震子の顔が、僅かに曇った。
 事実は事実であるから――けれど、褒めてあげるべきだったのだろうとは理解しつつ、雲中子は雨が降り出した窓の外を見る。

「……でも、雨とカタツムリと紫陽花、俺は合うと思うし好きだ」
「そう」
「師匠は、何が好きだ?」

 雷震子はそう口にすると、杏に手を伸ばす。緑茶を用意した雲中子は、湯呑を傾けながら、思案した。真っ先に思い浮かんだのが燃燈の顔であった事に、思わず片眉を下げて苦笑する。

「平穏、かねぇ」
「平穏?」
「雷震子、君がいて、そしてこの洞府に、例えば道徳や太乙が顔を出して――そんな毎日かな」

 それは、少しだけ嘘偽りが混じっていた。ここには不在の愛しい相手。その姿を念頭においていたのだから。

「雷震子。強くなるんだよ」
「……っ」
「君がいなくなってしまったら、私は悲しむ。だからこそ、君には私の持てる全てを叩き込む。時間が足りないかもしれないがねぇ」
「時間……? ずっと、俺はここにいるんじゃないのか?」

 純粋な雷震子の、幾ばくか不安そうな声に、その頭にポンと手を置いてから、雲中子は両頬を持ち上げる。柔和な表情だった。

「永遠は、無いからね。君には君の、たどり着く未来がある」


 ――不思議な杏を食し、雷震子が出て行ったのは、それから数年後の事だった。時間がなかったから、すぐにでも力を持って欲しかったから、それが、封神計画の実行を知った時の雲中子の本心だった。けれどそれを、雷震子に伝える事はしない。

 人体実験だと思ったらしい弟子の激怒する姿を、雲中子はまじまじと見ているばかりだった。雷震子には、才能が欠落しているわけではない。けれど、時間が圧倒的に足りない。

 太公望が封神傍を受け取ったという話を、極秘裡に雲中子は耳にしていたし、その冒頭には申公豹の名前があるという事実も、雲中子は耳にしていた。ついに、歴史が動き出す。それを、高仙であり始祖について知る雲中子は、夢伝いに、太上老君から知らされていた。

 そして――それは、変わるべき歴史の流れであるという確信があった。
 女?の識る未来とは、異なるように、雲中子は迂闊な動きをしない事に決めた。
 例えば人間界に災禍が迫っている事を確認しても、実験室から出る事はしない。

 それはあるいは、『信じて待っているから』だったのかもしれない。己が動かずとも、燃燈が成してくれる、生み出してくれるのだろう未来。正面から太公望が向き合っているのを知りながら、雲中子は来る戦火に向けて、医学に邁進する。

 周囲はそんな雲中子を変人だと名指ししたけれど、それで構わなかった。
 燃燈の築こうとしている未来、幸せが、自分にとっても幸せなはずだと信じたかったからだ。否定する事は、楽だ。だが、そうはしたくない。愛しているからだ。信じたい。だから燃燈が戻るまで、いつの日までも、己はここにいたい。

 ――燃燈が生きていると、信じたかった。



 蓬莱島において。
 衣を深々と纏い、燃燈が現れた時、雲中子は一人、両頬を持ち上げそうになった。一瞬だけ、燃燈は、雲中子へと視線を向けたから、その時、二人の視線は交わった。緊迫した状況でもあったから、すぐに視線は逸れたのだったが、待っていた己を、雲中子は誇りに思った。

 燃燈にあっさりと己の弟子が負けた時は、苦笑を噛み殺したものであるが

 そうして、最終決戦があった。その後、神界なども明確に完成し、嘗てのような平和が、仙道の住まう世界には戻ってきた。雲中子は、長閑な昼下がり、新しい洞府の実験室において、ほうじ茶を飲んでいた。

 見知った仙気が、洞府に訪れたと悟った時、雲中子は薄いゴム手袋を外して、手を洗った。そして、実験室を抜けてリビングへと向かう。すると丁度顔を出した燃燈がいた。

「やぁ」
「ああ。久しいな」
「多忙な燃燈が訪ねてきた事に、正直驚いているけれどねぇ」
「――待たせすぎた自覚はある」

 燃燈はそう言って雲中子の前へと歩み寄ると、正面から実に自然な仕草で抱きしめた。雲中子は思わず目を伏せて、ずっと求めていたその体温に浸る。

「ずっと、君の声がそばにあるような気がしていたんだよ」
「私の心の中にも、ずっと雲中子がいた」
「話したい事も聞きたい事も、沢山あるんだ」
「饒舌な雲中子も珍しいな」

 両腕に力を込めた燃燈は、それから雲中子の頬に唇で触れる。

「燃燈、遅いよ。遅い。遅すぎるよねぇ。どれだけ待たせたか、分かっているのかい?」
「だが、お前は待っていてくれたのだろう?」
「当然じゃないか」
「もう私達の未来は自由だ。これから、二人で改めて築いていこう」
「カタツムリなみの進展速度だけどね」

 雲中子はいつか雷震子が描いていた絵を思い出した。今も自室の抽斗の中に、大切に保管している。現在も、蓬莱島の季節は――梅雨。

「ねぇ、燃燈。雷震子の事、鍛えてくれないかい?」
「――そうだな。雷震子は、まだまだ成長するだろう。伸びしろがある。だが、雲中子が仕込んだのだろう?」
「もっと、雷震子は伸びる子だからねぇ」
「そうだとして。私の腕の中で、違う男の話はやめろ」

 燃燈は微苦笑すると、今度は雲中子の唇に触れるだけのキスをした。

 雲中子は、距離が空いていた事も、時間が長く経過した事も、意識させない燃燈の背中に腕を回す。それはあるいは、雲中子がずっと燃燈の事を考えていたからなのかもしれなかった。

 こうして、二人の物語は、新たに紡がれていく。二人の到着した未来は、平穏だった。



   【END】