ある日、崑崙山が滅んだ。







 あの日、全てが静止した感覚を、雲中子は非常に鮮明に記憶している。
 女媧が、失敗したとして壊した世界――ほぼ『今』と変わらなかった過去だ。

 崑崙山が成立した後に、『失敗』だと判断されたらしい。

 一瞬だった。
 一瞬で、無に還った。

 硝子が砕け散って消え去るように、その世界の痕跡は、その場で消失した。
 ごく一部を除いて。

 例えばそれは、この過去の世界を記憶している雲中子であったり、いつか先の未来で、過去文明の痕跡を探す申公豹の目的物といった些末な手がかりだろう。

 ――今回の崑崙山は、壊れないのだろうか?

 雲中子は、洞府の奥の研究室で、数本の試験管を眺めながら考えていた。
 道徳がいて、太乙がいて……前回とほとんど同じだ。
 数百年に一度は、長閑に茶を飲む。

 この、ありきたりで、退屈で、凡庸な、平和な日々。
 それが、『前回』は、あっさりと壊れた。

 雲中子はあの日、『偶然』にも、太上老君から呼び出しを受けて桃源郷に足を運んでいたため、難を逃れたのである。実際には、偶然では無かったのではないかと雲中子は考えているが、老子が解答を教えてくれる事はない。怠惰スーツの修理の話題ばかりしている。特に生命維持関連の。

 今では、何気ない日常、変わらない毎日が、雲中子にとっては、かけがえのないものだ。もう二度と、壊れるような出来事は望まない。

 巻き戻った訳ではないから、今となっては名前が同じ他者が崑崙山には溢れている。だというのに、同じ道標のもとに時を辿っているせいなのか、面影どころではない顔面造形の類似や癖の一致を確認してしまう場合がある。

 その中にあって、雲中子は連続性のある仙人だった。老子もまたそうだ。前の世でも、この世界においても、雲中子は雲中子として認識され、太上老君もそれは同じだ。

 雲中子は、一度だけ、老子に問いかけた事がある。

「結果的に壊れる世界で、日々を繰り返す意味は、存在するのでしょうか?」

 それは記憶上、三度目の世界の滅亡――女媧による破壊の後の事であり、この時も雲中子は怠惰スーツに修理と称して呼び出されていた。

 老子は、淡々とした雲中子の声を耳にすると、口元だけに薄っすらと笑みを浮かべて、双眸を僅かに細めた。

「壊れない世界、全てに連続性が生まれる日々、それらを作るために過ごす事」
「……繰り返す死を見送って?」
「そうなるね」
「ところで何故、私や老子は、こうして運良く生き残り、呼吸ができているんです?」
「女媧が理想としている人物像に近いからじゃないかな」

 静かに答えた老子は、その後寝入ってしまった。これから始まる次の世界で、女媧が築く予定の光景を、夢に視るのだろう。

 ――女媧を倒す未来が訪れるその日まで、その世界に至るまで、雲中子は長閑な日々と、その終焉の目撃を、繰り返す事となる。



「……今回は、燃燈から先に死ぬとはねぇ」

 元始天尊と燃燈道人が、十二仙会議の日から三日三晩戦ったという報せは、雲中子の耳にも届いていた。燃燈は重傷を負い、崑崙山から地上へ落下したそうだ。怪我の程度にもよるが、生きてはいないだろうという噂が、仙界を駆け巡っている。

 終南山で、白鶴童子からそんな噂話を聞いた後、雲中子は洞府の裏手にまわった。無花果の実を一つ手に取りながら、庭を眺める。

 何度か、燃燈と共に、庭を眺めながら酒を飲んだ事があった。

「誰から先に逝くかなんて、誰にもわからない事だからねぇ」

 呟いてから、雲中子は裏口から洞府に入った。

「そうだな」
「!」

 そして、帰ってきた声と侵入者の姿に、目を見開いた。

「燃燈……?」
「なんだ? 幽霊ではないぞ」
「そう言った非科学的なものは、元々信じていないよ、私は。それより――無事で何よりだよ」

 雲中子はそう告げながら、燃燈が纏う白い布を一瞥した。血が滲んでいる様子はない。血糊が汚している箇所はあったが。

「命に関わる怪我は無さそうだね」
「既に治療は済んでいるからな」
「……へぇ。それなら、またどうして、私の洞府へ?」

 聞きたい事は色々あったが、雲中子は最初にそれを尋ねた。仮に元始天尊と燃燈の戦闘が演技だったならば、このようにそれを知らされた場合、何か手伝う命がくだる可能性を考えていた。

「致命傷は治したが、身体の全てが癒えたとは、とても言えない」
「それは時間が解決する部類のものだから、私にできる事は少ないよ」

 静かに雲中子が答えると、燃燈が喉で笑った。

「――姿を晦ます必要があってな。地上で遺体を探されるだろうが、だからこそ、この崑崙に身を隠していた方が安全だと考えている。そのためには、この玉柱洞の入院施設は最適だ。率直に言う、匿って欲しい」

 燃燈は余裕ある笑みを浮かべてこそいたが、その瞳は真剣だった。
 雲中子は断らず、小さく頷き、燃燈を奥の研究室へと促す。
 入院用の設備は、その奥だ。

「燃燈、匿うには構わないけど、一体相手は誰なんだい?」

 まさか元始天尊という事はないだろうと、思案しながら雲中子は尋ねる。

「歴史の道標」

 燃燈の短い返答に、雲中子は硬直した。その瞬間、またしても世界の終わりを感じ取ったかのような、静止するような、いやな胸騒ぎと動悸に襲われた。

「……いつから?」

 女媧の存在に気づいていたのか、と。雲中子は聞こうとして言葉を止めた。
 燃燈と目が合う。

「お前は、やはり知っていたんだな」
「……」
「雲中子、そちらこそ、『いつから』だ?」
「さぁね。五回目以降は、数えることすら止めてしまったよ」

 研究室の通路を抜けて、最奥の扉を静かに開ける。その部屋が、入院用の場所だ。集中治療室を兼ねているが、治験時に用いる事も多い。多くの場合は、玄関側の別の部屋で医療行為を行うため、ここに来る仙道はいないに等しい。

「私の死も、何度か見送ったのか?」
「どうだったかな。燃燈、君がいたかどうか、私の記憶は定かではないよ。燃燈、居たっけ?」

 冗談めかして雲中子が言うと、燃燈が小さく口角を持ち上げた。

「嘘が上手くなったな。前の世で、私が死にかけた時、あれほど泣いていたくせに」
「え?」
「ずっと夢だと考えていたが、違った」
「……」
「その前の世界では、私はまだ幼く異母姉様と共にいた。合計三度――破壊と再生に直面していた」

 燃燈の言葉に、雲中子は俯いて、思わず唇を噛んだ。

「死にかけた……だけであり、私が泣いていたのを、燃燈は確かに見て――そしてその人物と同一の君は、また虚偽の死亡の報せを携えて私の前に現れたという事かい?」

 平坦な声音だったが、雲中子の口調には不機嫌さが滲んでいた。

「もう泣かせない。今回は、泣かせない」
「へぇ」
「だから真っ先に会いに来た。そして安否を告げた」
「ああ、そう」

 曖昧に雲中子が頷きながら、部屋の扉を開けた。燃燈が入ったのを見てから扉を閉める。それから改めて、雲中子は燃燈を見た。

「この部屋は――」

 自由に使ってくれと、そう言おうとした時だった。
 燃燈が雲中子の腕を掴み、軽く引き寄せる。

「――前の世で、言えなかった事がある。それを、この世界でもまだ、私は伝える事が出来ていない」

 そのまま燃燈は雲中子の背に手を回し、静かにその体を引き寄せた。もう一方の手を雲中子の後頭部に当て、自分の胸板に彼の額を押し付ける。

「雲中子、私はお前の事が好きだ」
「……言わなくて良かったのに。燃燈、離して」
「嫌だ。もう少しの間、大人しく私の腕に収まっていろ」
「入院というか、この部屋で過ごす準備があるから、離してと言えば良い?」
「それは後回しにしてくれ。所で、聞きたくなかったのか? 私の好意を」

 不服そうに燃燈が言うと、雲中子が嘆息した。

「言われなくても知っていたからね」
「――なるほど。それで、返事は?」
「言われないと、分からないのかい?」
「お前の口から直接聞きたい」

 燃燈がそう言って、腕に力を込め直した。雲中子は小さく俯いた後、なんとか顔を上げる。そしてまじまじと燃燈を見た。

「私も好きだよ」

 その声を聞いた時、雲中子の表情を見た時、燃燈は胸が満ちたような温かい感覚と、ゾクリとする、色気や艶を感じ取った。気づくとそのまま、雲中子の唇を奪っていた。雲中子の薄い唇を貪った。舌を絡め取られた雲中子は、必死で息継ぎをする。しかし燃燈の口付けは、どんどん深まっていく。

 二人の唇が離れた時、雲中子は肩で息をしていた。

 それからの日々は……燃燈を匿っていた期間は、二人で過ごした。恋人として。時にお茶を飲みに道徳や太乙が来る事もあったが、奥まった場所で気配を消している燃燈が気づかれる事は無かった。


 これが、世界の滅亡を伴わず、女媧を倒した最後の世界に於ける連続した記憶である。新教主の楊戩を支える燃燈と、新しい仙人界において、雲中子は、これまでの過去には存在しなかった――初めて見る日常を過ごしていく事となる。


     【END】