気にする。




 太乙は、モテる。
 十二仙の動向となれば目立つ上に気にされがちである事も手伝い、何かと太乙は注目を浴びている。

 玉?宮の図書館の奥、窓際の丸いテーブル席で。太乙は頬杖をついて、生物宝貝についての文献を眺めていた。著者は、雲中子。雲中子が最近提出した論文だ。本日、図書館に寄贈されたばかりの品で、読める日を心待ちにしていた。

 面白い。
 そんな感想を抱いて、熱中していた思考が途切れたのは、それからすぐの事だった。

「太乙様と玉鼎様って付き合ってるのかな?」

 太乙がその場にいる事に気づいていない様子で、誰かがそんな事を囁いたのが、太乙の耳へと入ってきた。

「いやいや、道徳様だろ? お相手は」

 一瞥すれば、道士達が楽しそうに会話をしていた。
 ――玉鼎とは、先ほど玉?宮の回廊で、ちょっとすれ違って挨拶をしただけだ。そのたった数分の出来事ですら、人々の好奇心の対象になるくらい、太乙は人気者である。道徳に関しては、分野は違うが昔から何かと確かに親しくはしている。

 だが、最も親しい相手は、雲中子だ。インドアの太乙が、自発的に出かける場所など、終南山しか存在しない。玉柱洞の主は、太乙が訪れた場合、大抵実験中だが、相応に応対してくれる。

 雲中子と太乙が、付き合い始めて、既に三年が経過していた。雲中子が洞府の外に出てくる事はあまりないし、太乙も己達の関係を率先して広めて周囲の好奇の目を煽ろうとは考えていないから、二人が恋人同士である事を知る者は、道徳を始め、ごく一部だ。

「……雲中子の耳に入ったら、どうしてくれるんだろう」

 ポツリと太乙は呟いた。玉鼎と付き合っているだとか、道徳と付き合っているだとか。そんな噂を立てられる事は、正直快くない。雲中子が、それを本気にしてしまったら? そう思えば不安に駆られて、太乙は論文をしまってから、その足で、玉柱洞へと向かう事に決めた。


「やぁ、太乙」

 太乙が終南山に向かうと、研究室にいた雲中子が、試験管を片手に顔を上げた。するりと太乙を見てから、すぐにその黒い瞳は、中に浸る青い液体へと戻る。台の上には、珍しくプラスティックのカップが二つあり、誰かが来ていたのだろうという事が分かる。

「急ぎで傷薬の生成を頼まれているんだ」
「そうなんだ。誰に?」
「守秘義務があるから、言えないねぇ」

 それはそうかと、太乙は頷く。そして自分の分の珈琲を勝手に用意した。雲中子は何も言わない。雲中子であれば片手間で傷薬の生成など易いだろうと判断し、丸椅子に座して太乙は腕を組んだ。

「あのさ」
「どうかしたのかい?」
「私は雲中子一筋だからね」

 太乙が述べると、試験管を見たままで、雲中子が僅かに首を傾げた。

「私としては、私と会っていない時、太乙がどこで誰と何をしていても、気にならないけどねぇ」
「え? 何それ」

 正直、冷たい。それとも己が重いのか。太乙は目を細める。

「私は目の前にその時いる相手を尊重するべきだと思っているだけどよ」

 しかし試験管を振っている雲中子の態度は、いつもと変わらない。それが本心なのだろうと感じさせる。雲中子の言葉は、あるいは正論なのかもしれない。雲中子が間違う事は、どちらかといえば少ない。けれど――太乙は寂しさを覚えずにはいられなかった。



「……」
「何だよ? 暗いな」

 翌日。
 太乙が乾元山のリビングに座っていると、道徳が顔を出した。道徳がこのようにして遊びに来る事は、珍しい事ではない。

「さては、雲中子と何かあったな?」
「……どうして?」
「他に太乙が暗くなるのは、宝貝関連だけだろ? 前に今は、研究が落ち着いてるって話してたからな」

 道徳は太乙の正面のソファに座ると、その背に両手を回した。

「ねぇ、道徳はさ。恋人が自分と会っていない時にさぁ、他の人と会ってて、かつさ、その相手とデキてるって噂が立ってたら、どうする?」
「そりゃあ……問いただすな。本当に会ってただけかもしれないし、明確にしたら安心出来るし」
「だよね? それが、普通だよね?」
「けどほら、太乙の恋人は、普通からちょっと――かなりズレてるしな」

 そう述べると、道徳は朗らかに笑いながら、持参したスポーツドリンクを取り出した。その姿を見ながら、腕を組んだ太乙が唸る。

「大人、なんだと思うんだよ。多分」
「俺は変人だと思うけどな」
「……そこは否定しないよ? 雲中子のそういう所も含めて、私は好きだし」
「ごちそうさま!」
「たださ、サラッとしすぎているっていうか……もしかして私って重い? 嫌なんだけど、雲中子が私の事をどうでもよく思ってるみたいで」
「喧嘩でもしたのか?」
「この三年、考えてみると雲中子は、私の事を怒った事すらないよ……」

 雲中子からは、執着心を感じない。専ら、時に苛立つとすれば、それは太乙だ。雲中子はいつも受け流すように、太乙の言葉に耳を傾けつつ、実験をしているばかりだ。

「愛が感じられないんだよ。私が贅沢なのかな?」
「それは、俺に対してじゃなく、直接言ってみたらどうだ?」
「聞き流されて終わる未来しか見えないんだよ……そもそも考えてみると、いつも私が会いに行ってるし、雲中子がここに来てくれた事も無いし」

 溜息を零した太乙を見て、道徳が頬杖をついた。

「まぁあんまり思いつめるなって。あの、他者に対しては、医学的な意味でその肉体にしか興味がなさそうな変人に、恋人になるって言わせてるんだから、自信を持て!」


 道徳に励まされてから――一週間。
 太乙は、少し冷静になりたい事もあって、雲中子から距離を取ってみる事に決めた。その間、雲中子から連絡は一度も無かった。尤も、傷薬の生成で多忙だと話していたから、それは仕方が無い事なのかもしれない。

「……」

 それでも、一週間が限度で、太乙はすぐに会いたくなってしまった。悩んでいるくらいならば、会いに行こう。そう決意して、太乙は終南山へと向かった。

「ん」

 すると玉柱洞のリビングから、話し声が聞こえてきた。先客がいるらしいと気づいて、ちらりと室内を覗き込み、太乙はひきつった笑顔で硬直した。そこには、ソファに押し倒されるような形で、上半身が裸の道徳と、そこに詰め寄る雲中子の姿があったからだ。

「あ」

 道徳が太乙の来訪に気づいて、短く声を上げた。雲中子も反射的に視線を向ける。立っている太乙の指先が、僅かに震えていた。

 ……。
 事が行われる手前に、少なくとも太乙には見えた。
 これまで、己の不貞を疑われる可能性ばかり考えていたが、雲中子が浮気をしないという保証は、どこにも無かったではないかと、ここへ来て気づいた。自分と会っていない時、何をしていても気にしないという事は、裏を返せば、雲中子もまた自由にしているという事なのかもしれない。

「私は、気にするんだけど」

 太乙が低い声を放った。すると道徳が焦ったように首を振る。

「待て、違う。傷薬をだな――」
「ふぅん。傷薬を頼んだの、道徳なんだ?」
「ん? ああ。って、それより、誤解だ。俺と雲中子は、雲中子が傷薬の効果を確かめたいって言うからこの状態なだけで。な? 雲中子も何か言え!」

 道徳の言葉に、雲中子は体を起こす。道徳は慌てたようにジャージの上を拾った。太乙はその光景に、スっと目を細めたままだ。

「雲中子。私は、私と会っていない時に、雲中子がどこで誰と何をしているのか、気になるって言ってるんだよ」

 太乙が繰り返すと、雲中子が腕を組んだ。僅かに困ったような顔に見える。が――それからすぐに、雲中子は窓の方へと視線を向けると、ポツリとどこか照れるように声を放った。

「私は、私と会っていない時、太乙が何をしていても気にならないと確かに言ったけどねぇ……それは、いつでも会いに来て、私だけを見ていて欲しいという趣旨だったんだよ」
「――え?」
「私はいつでも太乙を待っているんだからねぇ。この一週間は、忙しかったのかい?」
「っ」
「ずっと、待っていたんだ。私は、ね」

 雲中子の声に、太乙が目を見開く。それを見ながら、痴話喧嘩の開始と終了に巻き込まれていた道徳は、服を纏い直した。そして苦笑する。

「傷薬も受け取ったし、人体実験もされたし? 俺は、帰る。雲中子は、もっとそう言う事、伝えてやれよ」
「道徳がここにいたから声に出したんだよ。実際の所、私と道徳の間に、嫉妬されるような関係性は皆無だけれどねぇ、私の側だって太乙と道徳の噂が耳に入れば、良い気はしない。だからこれは、ただの牽制だよ。道徳に対しての。太乙への言い訳ではないんだ」

 つらつらと雲中子が述べると、道徳が頷いた。なんだかんだで、友人二人の間の愛は伝わってくる。たまには惚気を聞くのも悪くはない。そのまま、道徳は帰っていった。立ち尽くしたまま見送っていた太乙は、道徳の足音が去ってから、頬に朱を指す。

「本当に、嫉妬してくれたの?」
「当然じゃないか」
「私の事、好き?」
「言わないと分からないのかい?」
「分からないよ」
「――好きだよ」

 それから雲中子は、太乙に歩み寄ると、じっとその顔を覗き込んだ。そして、触れるだけのキスをした。



 END