【一】
群青色の空間。
白や銀の小さな星が無数に散らばっている。
前後や左右、重力といった感覚は無い。
「――これが貴方の視た過去ですか、老子」
ここは、夢の中だ。よくその事実を理解している雲中子は、長めに瞬きをした。宙の各地には薄型のウィンドウが開いていて、様々な光景を映し出している。
「あるいは未来となる」
寝そべりながら浮かび、胸の上で両手を組んでいる太上老君は、透き通るような声で述べた。老子は、女?の夢を盗み視ている。ただしその事実を誰かに告げた事は、過去には無かった。悟っている者が、いつか現れる事はあれど。
今回雲中子が、その『夢』に触れるに至ったのは、『今回の世界』において、雲中子が太上老君の弟子だったからだ。女?曰く――一番上手く進んでいる、この世界において。
「貴方はそれを阻止しようと?」
「私は戦わないよ」
「では繰り返す世界を傍観すると?」
「『私』は、『今』は、『戦わない』よ」
「では、誰かが?」
「そうだね。例えば、貴方はこの未来の来訪を阻止してくれる重要な仙人だと思っているよ」
老子の言葉に、雲中子は腕を組んだ。白い道服が揺れている。
「具体的に、私に何をしろと?」
「答えを導出するのは、いつも己だよ。流れに身を任せるといい」
このような事実を知って、ありのままに暮らす事が可能な者は少ないのではないかと、雲中子は思案した。少なくとも、物思いに耽らずには居られない。しかし不思議と反論しようとはも思わない。それは自分の意見が無いからではなく、そう学んできたからだ。老子から教わった事は多い。
次に瞬きをすると、雲中子は桃源郷の草原にいた。周囲には、白い羊の群れがいる。
怠惰スーツを身に纏った太上老君が、囲まれている。
長閑。
忌々しいほどに空は青い。
夢では無かった事を自覚し、久しぶりに師の元へと顔を出したのだったと、改めて雲中子は想起する。
現在雲中子は、崑崙山に身を寄せている。それは太上老君の勧めによる。思えばそれも珍しい事だった。終南山は過ごしやすい。天空に浮かぶ仙人界において、雲中子は日々を過ごしている。既にそうして長い。雲中子が崑崙山生え抜きの仙道で無い事を知る者の方が少数だ。
その後、寝入る老子に一礼してから、雲中子は崑崙山へと戻った。
己の洞府である玉柱洞へと入り、細く長く吐息する。ストレスの制御に自信が無い訳では無かったが、今回ばかりは胃を直接手で握りしめられているような不快感がある。
老子に視せられた過去あるいは未来。
――最終的に、女?により地球がリセットされる。
それに付随する封神計画。訪れるのだろう仙界大戦。
気付けば雲中子は、居室のソファに深々と背を預け、天井を無意識に見上げていた。
上手く思考がまとまらない。いいや、何も考えられないのかもしれない。
思考が停止するなど、雲中子にとっては珍しい事だった。
己……雲中子という『個』の存在は、歴史の道標によって『存在を決定されていた者』なのかと、呼吸をする度に考えるようになった。これまで築いてきた自分の土台が瓦解しそうになる。
「私は確かにここに存在している」
だというのに揺らぎそうになる自我同一性。
ツキンとこめかみが痛んだ気がした。長々と瞬きをした雲中子は、それから深呼吸をする。今日は、竜吉公主の元へと、往診に出かける予定だ。
清浄な空気の中で無ければ外気すら体に障る公主を、雲中子が診るようになったのは、崑崙山へと来てから比較的すぐの事だった。元始天尊に直接的に依頼された結果だ。
玉柱洞から外へ出る。
終南山の獣道を抜けながら、雲中子は深い緑の木々と、その向こうに見える空を漠然と眺めた。これらも全てが――模倣されたものなのだろうか? と、内心で思えば、全てが空虚に思えてくる。
無論、人体とは不思議であるから、例えば色覚の問題で、一重に『空色』と言っても、誰もが同じ『青』を目にしているとは限らない。緑と赤が逆転して見えるような分かりやすい例だって存在する。特にそれが、天候と言った表情で揺らぎやすい、空のような自然であれば、尚更だ。けれど、仮に始祖の故郷にも同じ空があったのならば……。
「きっと、綺麗だったんだろうねぇ」
取り戻したい、と。
願う気持ちが一切分からないと言えば嘘になる。もしいつか己が『今』を喪失したら、自分だって取り戻したいと感じるかもしれない。だが、明確に思う事として、その為に他者の平穏を奪う気にはならない。そこが、決定的に女?と自分の差異だと雲中子は結論づけた。
「割れた試験管を接着剤で修繕するより、新しくよく似たものを代わりに――というのとは、訳が違う。宿る命がそこにある以上」
ポツリと呟いた時、丁度終南山から外へと出た。
そのまま竜吉公主の元を目指して、暫し歩く。
この日も雲中子を出迎えた竜吉公主の居室では、香炉から清涼な匂いが放たれていた。せめて自然に、崑崙山の中だけでも、もう少し移動可能な身体状況に改善出来たならばと、雲中子は考えている。
仙人界の空気を必要とするのが、遺伝子的な問題なのか、強すぎる仙気を持つ故なのか、その点から研究しなければならないと度々思考してはいるものの、現在まで対症療法しか出来てはいない。
帰り際、「礼じゃ」と述べた竜吉公主から、雲中子は仙桃をお裾分けして貰った。
カゴを片手に歩く帰り道。
「ん」
ふと足を止めたのは、正面で砂利を踏む足音が聞こえたからだった。視線を向ければ、そこには燃燈道人が立っていた。雲中子は燃燈の事を知っている。理由は、初めて竜吉公主の診察をした際に同席していたからだ。
「雲中子か。今日は異母姉様の診察日だったな」
「今、丁度その帰りだよ。仙桃を頂いてしまってねぇ。有難う」
社交辞令的に礼を述べつつ雲中子は考える。遺伝子といった肉体的な問題だとすれば、病弱な異母姉に反し頑健な肉体を持つ燃燈と、比較研究をしたならば、今後の治療の道筋も見えてくるかもしれない。特に竜吉公主の場合は、病いと言うよりも体質であるとも言える。燃燈が持たず竜吉公主が持つもの、あるいはその逆。それを知る事が叶ったならばと考えた。
「どうかしたか?」
燃燈が首を傾げた瞬間、雲中子はまじまじと自分が燃燈を見ていた事を自覚し、我に返った。
「いいや……なんでもない。それでは、失礼するよ」
雲中子は軽く首を振ってから、唇の端を持ち上げて、ニヤリと普段と同じ笑みを浮かべてからその場を後にした。この時点においては、雲中子にとって燃燈は、ただの他人でしかなかった。