【二】
「燃燈に、血液採取だけでもさせてもらうべきだったねぇ」
洞府に帰還後、雲中子は竜吉公主のデータを再確認しながら、ぼやいてしまった。
雑事といっては失礼だろうと思うが、日々、こうして研究をするという仕事はある。
だが、老子との会話以後、つきまとう雑念が心を煩わせる。
普段はある余裕が、欠落していく感覚が酷い。
世界に対する見方が、著しく変化してしまったような、そんな錯覚に陥る。
「改めて打診するとしようかねぇ。そうだな、洞府でゆっくり話を聞く方が良いねぇ」
気持ちを切り替え、雲中子は集中する事を決意する。それから、燃燈を呼び出すべく書簡をしたためた。
――燃燈が雲中子の洞府へと訪れたのは、その三日後の夜更けの事だった。
「遅くなって悪かったな、邪魔をする」
「いいや、構わないよ」
出迎えた雲中子は、腕時計を一瞥した。既に午前零時に近い。だが最短で『時間を作る事が可能な日時』に来て欲しいと打診した結果がこれであるし、別段雲中子は規則正しい生活を送っているわけでも無かった。生活のリズムよりも、研究を優先する事の方が圧倒的に多い。
だが、燃燈が己と同じタイプだとは、雲中子は思わなかった。本当に無理に時間を捻出したのでは無いのかと考える。太乙や道徳もそうではあるが、十二仙会議が迫っているらしく、多忙な仙人が多い。その十二仙の筆頭とも言われる燃燈ならば、尚更だろうと考えた。
「早速だけど、理由は書簡に記した通りで、採血をさせて欲しい」
「承知した」
実験室へと燃燈を促し、雲中子が歩き始める。黙々とその後を燃燈がついてきた。
白を基調とした実験室にて、白いシーツをかけた簡易ベッドを雲中子が一瞥する。
「注射で気分が悪くなる事はあるかい?」
「いいや。そもそも私は注射をした経験が無い」
「――なるほど。ちなみにアルコールには弱いかい?」
「飲酒という意味合いであるなら、酒は適度に嗜むが」
燃燈の返答を聞きながら、雲中子は念のため横になってもらう事に決めた。その後アルコールのテストをしてから、綺麗に筋肉がついた燃燈の腕を見る。注射器を手に、雲中子は声をかけてから、針を刺した。
「痛くないかい?」
「痛いだろう、針が皮膚を貫いているのだから」
「……痺れたりするかい?」
「いいや?」
燃燈の言葉に、雲中子は複雑な笑みを浮かべてから、数本のアンプルに血液を採取した。本数が多い。それだけ検査に必要だからだ。
「終わりだよ。気分はどうだい?」
「特に変化は無い」
「眩暈がしたりしたら、すぐに言ってもらえると有難いねぇ」
「感謝するのはこちらの方だ。異母姉様のために尽力してもらっているのだから」
美しい姉弟愛だなと感じながら、雲中子は小さく頷いた。
「私側にも純粋に、研究が出来るという利点がある。何も気にする事は無いんだけれどねぇ」
「その成果が、この仙人界をより良いものにする日が来る事を願う。もう起き上がっても構わないか?」
「どうぞ。あちらに煎茶を用意してあるから、良かったら」
アンプルを早速解析装置に挿入してから、雲中子は隣室へ通じる扉に視線を向けた。上半身を起こした燃燈が頷いたのを見て、己もまた立ち上がる。薄いゴム手袋をダストボックスに投げ捨ててから、雲中子はリビングへと燃燈を案内した。
するとソファに座りながら、燃燈が室内を見回した。
「お前の洞府は、どこか他の洞府とは気配が異なるな」
「そうかい?」
他の洞府には往診等でしか出向かない為、雲中子にその自覚は無かった。
「ああ」
「どんな風に?」
「人間界の文化の気配が著しく薄い」
燃燈が簡潔に述べた。それは、事実だった。黒いソファ、飴色のチェスト、白い壁紙、照明はパネル、カーテンには遮光の効果――いずれも、この時代の中華圏には存在しない『未来』の品だ。しかしその事実に、雲中子は本当に気付いておらず、単純に好みの問題だろうと漠然と思っていた。
「強いて言うのならば、私は元々崑崙で昇仙した訳では無いから、元の師の影響を受けている部分があるのかもしれないねぇ。人間界の文化が嫌いなわけでは無いけれど、利便性と機能性を追求してしまうと言うのか」
ある種の合理性について、雲中子はこの時考えていた。
だが――燃燈は全く別の事を思案していた。
当初燃燈は、この玉柱洞の空間を目にし、『始祖の気配』を嗅ぎ取ったからだ。最先端、というには、著しく超えた技術力と科学力。それらは、いつか王奕から聞いた事のある、滅んだ始祖の故郷に通じるものがある。
女?が望む世界に、近い場所にいる可能性が非常に高い。
燃燈は表情を変えないながらも、対面する席に座している雲中子をそれとなく観察する。地球の自然と同化した始祖は、『過ちを繰り返す事』を望まず、この世界に息づく『命』を尊重したと、それを既に燃燈は知っている。たった一人を除いては――それが、女?だ。
強大な力を持つ女?という存在に、雲中子が思考を操作されている可能性は、いかほどなのか、燃燈は考えずにはいられない。
異母姉様を口実に、己に近づいてきた『敵』の可能性、意識的にしろ、無意識的にしろ、それは非常にあり得る事柄だから――と、燃燈は気を抜く事が出来ないでいた。
同じ崑崙で暮らす『仲間』を疑いたくは無くとも、精神に干渉可能な女?という存在は、決して無視する事が出来ない。
「燃燈は、人間界の文化に興味があるみたいだねぇ」
そんな燃燈の思考を知らない雲中子は、漠然と感想を述べた。燃燈が顔を上げる。
「不思議なものだよねぇ、人体の構造は確かに同一であるから、例えば言葉という概念が同時期に複数箇所で発生する事には何ら不思議は無いけれど、崑崙の真下と、例えば別の地域の人間界では使用する文字も言語も異なる。特に道具はそれが著しくて、同じ農耕機具であっても、この下を境に東西に分けるとまるで違う世界のような発展を見せている。いつか文化的侵略と呼ばれるような事象が発生し、世界中に同じ価値観が広がる可能性もあるけれど、それでも、個々の文化は潰える事なくその場所場所に残り香を残すのでは無いかと、人間の文明を目にする度に私は感じるよ」
世間話だと捉えた雲中子がつらつらと語る。燃燈は無意識に腕を組みながら、それを聞いていた。そして、気付くと眉間に皺を刻んでいた。
「……仮に、文明が滅んでも、か?」
「え?」
「仮に、今のこの崑崙が墜ちても、崑崙の残滓は、どこかに残ると考えるか?」
燃燈の問いは唐突だったが、だからこそ雲中子は動揺して目を見開いた。
老子に視せられた、滅んできた過去・あるいは未来が、脳裏を埋める。
――燃燈は何を言いたいのか、何を知っているのか、いいやただの世間話なのか、ダメだ、思考がまとまらない、と、雲中子は煩く喚きだした鼓動の劈くような音に眩暈を覚えた。だから、事務的に返答しようと決める。
「崑崙の文化は、仙道の文化とも言える。それらは、いつかの未来、例えば人間にとって仙道が『神話』と呼ばれるような存在に変わっても、誰かが記憶を伝える限り残ると私は考えるよ。崑崙山があったという、思い出や昔話を、人間が忘れず子孫に語り聞かせる限り。もしそれらが消えるような事態が来るとすれば――……」
例えば焚書、と、言いかけて、雲中子は直後、再び女?による世界のリセットを思い出してしまった。
「……――それは、一つの滅亡だねぇ。終末だ。無論、世界の滅亡ではなく、一つのヒト文明の終焉という意味合いだけれどねぇ」
燃燈は双眸を細くした。雲中子が操られているようには見えなかったが、何も知らないようには到底思えない。雲中子が言葉の合間に沈黙した瞬間、確かな直感が燃燈の理性と感情を射貫いた。
「滅亡した、その後はどうなる?」
「どう? どう、って? それこそどういう意味か図りかねるけどねぇ?」
「終焉のその後だ。現在の文明が終焉した場合、その後この世界はどうなる?」
「滅亡の仕方にもよるだろうけれどねぇ。僅かな生存者による文明の復興が最も想定可能な流れでは無いかとは感じるけれど」
「誰かが手を加えずとも、類似した文化が生まれると考えるか?」
「先程も言った通り、人体構造が同一である以上、類似の道具は生まれるだろうと思う。一定の知能があって、食文化があるならば、箸とフォークといった形態の違いはあれど、同様の用途の品は生じる可能性が高い。まぁ考え方に関しては、それこそ『文化』による変遷があるかもしれないけれどねぇ」
答えながら雲中子も次第に、胸中に違和感が広がっていく事を、理解せざるを得なかった。燃燈は、何かを知っている。いいや、『女?』による破壊と再生を知っている。次第にその推測が正しいと感じるような雑談が、玉柱洞のリビングで続けられていく。
――敵か、味方か。
互いの内心が一致するまで、そう時間を要しなかった。
雲中子と燃燈は、探り合うように会話を重ねる。何も知らないふりをし、心を読まれぬよう仙気を集中させながら、何でも無い世間話のていで言葉を紡ぎ合う。
「……」
「……」
結果、最終的には沈黙が訪れ、二人は互いに鋭い視線を交わす事となった。
その沈黙を、先に破ったのは雲中子だった。
これは、燃燈が僅かに戸惑った為生まれた間――熱い正義感と感情に突き動かされようとした己を制した燃燈の逡巡の結果と、結論の導出にこだわった雲中子の、思考の流れの差でもある。
「燃燈は、何が言いたいんだい?」
率直な雲中子の声に、燃燈は天井をチラリと仰いでから、切り出す事に決める。
「お前は敵か?」
それまでの雑談から一変した単語。
しかし正確に雲中子はその意味を理解し、同時に安堵した。燃燈が、女?を快く思っていないという点までは、既に伝わってきていたからだ。
「仮にそうであったならば、私は会話を打ち切っていただろうねぇ」
ニヤリと口角を持ち上げた雲中子は、それから目を伏せ立ち上がる。
「お茶のおかわりを持ってくるよ。どうやら話が長くなりそうだからねぇ」
これが、二人が共犯者とも言える間柄になった契機だ。
抱えるには重すぎる現実を、裏切るための関係性の開始。
欲している事は、両者変わらぬものだ――道標の無い、そんな世界。