【三】
竜吉公主との遺伝子・仙気の違いの研究――という名目の元、燃燈が終南山を訪れるようになるまで、そう時間は要しなかった。
事は、決して女?には気付かれてはならない。
厳重に干渉されないように心を配りながら、実験室において動作上は本当に採血するなどの行為をしながら、二人は秘密の共有をした。
すぐに雲中子は、悟った。燃燈は、本心ではすぐにでも、女?を討伐したいのだろうと。だが、今が機で無い事も熟知し、苦悩や葛藤を制御している。一方の己はといえば、と、雲中子は考える。女?の事は衝撃的であるし、歴史の道標が示す通りに世界を構築する要因になるつもりなど毛頭無かったが、現在行動を起こさない事を理性的に妥当だと判断している。反面それは、燃燈のような熱いこの世界への想いが希薄である可能性でもあり、時に自己嫌悪に陥りそうにもなった。
何か、出来る事は無いのか。
燃燈を見る度に、言葉を交わす度に、そんな想いが強くなっていく。
逆に燃燈はといえば、常に冷静さをかかない雲中子を目にする時、焦燥感に突き動かされそうになる己を呪う事がある。仮に愚かな行動を迂闊に起こせば、全ては水の泡だ。真の敵を屠る為には、雲中子のような冷静さが無ければ、失敗する。このように、燃燈からすれば、雲中子は理性的であり、研究時の集中力や熱意を除くのならば、余裕があるように思えた。だからある日、ポツリと告げた。
「お前の余裕が羨ましい」
それを聞いた雲中子は、何の話か分からなかった為、顔ごと燃燈に振り返る。
「変人だと名高かったものだから、正直異母姉様の診察を任せる事を不安に思った時が懐かしいほどだ」
「ほう」
「だが、純粋にお前は、お前の中の論理に基づき行動し、時にそれが他者や一般通念と乖離しているだけのようだな。後は、研究に熱中しすぎる嫌いもあるが――それらを除くならば、非常に理性的で、私とは違う」
果たしてそうだろうかと、雲中子は言葉に詰まって唇に力を込めた。雲中子から見れば、激情を制して時を待っている燃燈の方が、ずっと理性的に感じられたからだ。特に、特にだ。最近、燃燈を見ていると余裕を失いそうになる自分を、雲中子はよく自覚していた。
「買いかぶりすぎじゃないかねぇ」
雲中子はニヤリと笑ってから、燃燈の血が揺れる試験管を見る。
――ここの所、別の意味でも、余裕を欠きそうになっていた。
初めこそ秘密の共犯者である存在であるから、燃燈の一言一句が己の頭の中を占める事を不思議には思わなかった。だが、現在では、明確に『燃燈自身』が自分の心の内にいる事に、雲中子は気付きつつある。検査のためにと、燃燈の肌に触れる時、普段ならば医療行為で欲情など一切しないというのに、時折胸がドクリとする。
二人きりで実験室にいる時、燃燈の息遣いがそこにあって、精悍な体躯が寝台にあるのを目にした時、雲中子は己の内に巣喰う劣情に気付きそうになって、その度に自分自身を誤魔化している。
気がついたら、雲中子は燃燈に対して、恋情を抱いていた。燃燈を、好きになっていた。いいや、好きにならない方が無理だと、すぐに理解した。真っ直ぐな心根、そして己とは違い、灰色を選択できる柔軟性――堅物だと表される十二仙筆頭の、女?に関する苦悩に触れる度、時を待てる燃燈の自制心の強さに惹かれていく。いつしか、燃えるような赤い髪に触れたくなって、その肌に口づけたくなり……と、そこまで考えて、雲中子は頭を振った。恋に裂くような余裕も時間も、あるはずが無いからだ。
「私はそうは思わない」
燃燈が断言した。
本心から燃燈は、雲中子に余裕があると思っていたからだ。
――雲中子と燃燈がそろって玉虚宮に呼び出されたのは、それから二十年後の事だった。雲中子が老子を経由し、『始祖』の存在を知っている事を、元始天尊が知ってすぐの事でもある。
宙に浮かび眠る老子の前で、元始天尊が静かに二人の前に立つ。
「という経緯で、歴史の道標の目を欺き封神計画の遂行を陰で支えるべき者を求めておる」
端的に言えば、崑崙山から、女?はおろか味方さえも欺き、姿を隠す……いいや、消すという計画について、元始天尊は語った。
並んで立っていた雲中子と燃燈は、真っ直ぐに双方元始天尊を見ていた。
「私が行く」
「燃燈道人が適任だと存じます」
答えたのはほぼ同時だった。この時初めて、漸く燃燈と雲中子は素早く視線を交わした。
「燃燈。十二仙筆頭の実力者である君が赴き姿を消せば、それこそ女?による『世界の修正』の時期が早まるかもしれない。けれど――」
雲中子が間髪入れない早さで、理由を述べた。いいや、これは言い訳だった。
「――けれど、『剣』をいつか献上し、古の滅んだ世においても歴史の道標の計画を阻止しようとした私の不在は、疑念を買う可能性が非常に高い。私は不穏因子でもあるはずだからねぇ」
いつか、老子に視せられた滅んだ世界の一場面を、雲中子は思い起こした。その為、妥当な理由に聞こえはしたが、これは……事実言い訳だった。雲中子は単純に、『燃燈が封神される姿を見たくなかった』だけだと言える。もしも十二仙筆頭として燃燈が崑崙に残ったならば、迫り来る仙界大戦や封神計画の渦中で、燃燈の身が危うくなる事は確かだと感じたからだ。
元始天尊と燃燈は、静かにそれを聞いていた。疑う様子は無いし、実際二人は雲中子の言葉が正しいと感じていた。
だがその時――雲中子の脳裏に、老子の声が直接響いた。
『それは本心?』
『――純粋に私は、下山したくなくて、行きたくないだけです』
『そう。心の中でも嘘をつくのが得意になったのは、女?対策には有益だけれど、自分を騙しすぎると苦しくなるのは貴方自身だよ。気をつけるようにね』
雲中子は何も答えなかった。心の中でも、口頭でも。
そして、幾ばくか間を置いてから――もう一つ、燃燈が赴くべきだと推す理由を言葉にする。
「何より、燃燈道人は行きたがっています」
そうした上で、老子に対してついた嘘を続けて並べる。
「反面私は研究に邁進したく、行きたくありませんし、この騒動には関わるのも嫌でねぇ――せいぜい私は、傷薬の開発にでも注力する事としますよ」
ニヤリ、と、雲中子は笑ってみせる。
その表情から、嘘が見える事は無かっただろう。仮にこの場に、他の何者がいようとも。
「私を推してくれた事、嬉しかったが少し意外だった」
二人で、玉柱洞へと帰ってきた。道中は何気ない雑談をしていたが、仙気を張り巡らせた洞府に入ってすぐ、燃燈が呟くように言った。雲中子が緩慢に視線を向ける。
「雲中子は、率先して行くと言うように思っていた」
「何故だい? そんな面倒ごとはごめんだけどねぇ」
その言葉に、胸がザワリとした事を自覚し、雲中子は笑顔を形作る事に必死になる。
感情は喚くのだ。自分が行きたいと、阻止したいと、女?を許容できないと。
だが――仮に己が赴いた場合、燃燈が死ぬ可能性や封神される可能性が高まる事の方に、やはり強い危惧があって、それが何よりも恐ろしくてならない。
決して燃燈が、崑崙から墜ちたふりをするという筋書きを、燃燈が行きたがっているからと言って応援する気にはなれない、が、燃燈を永遠に喪失するよりは、ずっと良い。再び……いつか再会するその時が、女?を皆で討伐する時になるだろうという予測を耳にして最初に感じたのは、もしも逝く時は、共に逝けるという希望ですらあった事も大きい。
「ここへ来るのも、これが最後となるな」
「燃燈、君の無事を祈っているよ」
計画では、燃燈はもうすぐ行われる十二仙会議の席で、元始天尊と諍いを起こし――た、という事で地に墜ちると決まっている。多忙となる燃燈に許された時間は僅かであるし、明日からは竜吉公主と過ごしたり、許された日常に浸るはずだと雲中子は考える。
今は、手を伸ばせば届く距離に、燃燈がいる。
しかし今後は、それが無くなる。
それを理解していても、この計画を止める気にはならなかった。
より生存率の高い可能性を、模索してしまった結果だ。女?に関する対策のはずだったのに、燃燈の無事を願うように動機がすり替わってしまった己を、それでも雲中子は滑稽には思わない。それだけ、燃燈の事が好きになっていた。大切でたまらない。
「明日も早いんだろう?」
「……ああ」
「また……あ、いいや。『また』は無いんだったねぇ。元気で」
「……」
「燃燈?」
その時、燃燈が沈黙したから、雲中子は何気なく視線を向けた。そこにあった何か言いたげな瞳を見た時、雲中子はそれまで堪えていた激情が堰を切りそうになったから慌てた。
「……まだ……帰りたくはないな」
じっと燃燈に見据えてそう告げられた時、雲中子の理性が途切れそうになった。押し倒してしまいたくなる。燃燈の形の良い唇を貪りたくなって、思わずきつく手を握り、掌に爪を立てた。
「燃燈でも、明日に怯える事があるんだねぇ。さぁ、そんな子供みたいな事を言わずに、帰ると良い。先日診察をした時、公主が、丁度明日、燃燈が久しぶりに訪ねてくるんだと話して喜んでいたのを、私は記憶しているからねぇ」
雲中子が思ってもいない言葉を吐いた。本当は、帰って欲しくは無い。
だが燃燈は、じっと雲中子を見て再び口を噤んだ後、顔を背けた。
「私に、明日に対する怯えは無い。希望こそあれど、な。ただ、後悔は残るとたった今確信した」
「後悔? それは幸せな崑崙での日々を手放す事に対してかい?」
「ある意味では、そうなるな。所で雲中子」
「ん?」
「無事に再び会えたその時、聞いて欲しい事が出来た」
「――私も、君に話したい事がある。そしてきっとそれは、今後も増える予感があるよ。だから、どうか無事で」
この夜雲中子は、燃燈に気持ちを告げる事はしなかった。
静かに、帰路につく燃燈を見送ってから、雲中子は愛を告げなかった己に苦笑した。
「帰りたくないなんて、誘われているのかと勘違いするじゃないか。そんなつもり、ないだろうにねぇ」
雲中子は一人そうごちてから、玄関の扉に鍵をかけた。
「私も大抵自意識過剰だけれど、燃燈は鈍いな……最後まで。でも――」
気持ちを伝える事が、全てでは無いと雲中子は思う。
愛する相手を守る事、それが雲中子にとっての一つの正義だった。