【四】






「雲中子は本当に鈍いな」

 布を纏って、砂の大地を歩きながら、ポツリと回想して燃燈は呟いた。
 燃燈から見れば、鈍いのは言葉の通りで、雲中子だった。

 いつ、雲中子に惹かれたのか――燃燈は、その答えを導出出来ない。気付いたら惹かれていた。共有する秘密が齎していた世界への背徳が理由、だったのだろうかと考えた事もあるが、違うように感じる。

 雲中子がニヤリとした笑みを浮かべる時、白衣から漂ってくる医薬品の香りを感じた時、思いのほか長く骨張った綺麗な指を目にした時、その指先が己の腕に触れる時、そのいずれの時も燃燈は、漠然と好感を抱いた記憶が色濃い。

 地に墜ちて長い刻が過ぎてなお、燃燈は雲中子を思い出さない日が無い。

「それとも――……躱されたのか」

 燃燈は歩みを止めて、俯いた。あの状況で帰宅を拒んだら、その意図を頭の良い雲中子が考えないとは思えない。だとするならば、迫った己を軽く諫めた、と、受け取るほかない。あの夜も同様の事を思ったからこそ、燃燈は素直に帰った。

 正直、胸が痛かった。燃燈なりに、勇気を出して、雲中子との思い出を構築したかったという理由が確かにある。本来、愛情に真っ直ぐに、素直に気持ちを伝える事が叶ったならば最高だと燃燈は思うが、刻が刻であったから、即物的ではあるが、雲中子の体温を感じたかった。右手を持ち上げて、燃燈は掌を見る。

「再会したら、今度こそきちんと告げなければな。愛していると」

 ポツリと燃燈は呟いた。その為にも、まずは歴史の道標を倒さなければならないが。倒す理由がまた一つ増えたなと、燃燈は微苦笑する。無論一番は、自分達の道を自分達の手で切り開いていきたいからではあるし、それが揺らぐ事は無いが。

 燃燈は、それから少しして、砂漠の中に突如として落ちていた硝子を踏んだ。
 パリンという音が響いた。



 ――パリン。
 同時刻、玉柱洞の実験室において。

「っ、痛」

 試験管を取り落としかけて、それを受け止めようとして、見事失敗した雲中子の手に、硝子の破片が触れていた。血が滲み出す。燃燈の血の色と、己の血の色は同一で、自分達を構成する要素は同じだなと、痛みから逃避するように雲中子は考えた。

「……中身が傷薬で幸いだったねぇ」

 そのまま傷が塞がっていく。粘着質な液体が、傷口に吸着している。

「でも、血の赤と、あの綺麗な赤い髪じゃ、同じ赤でも全然違うねぇ」

 雲中子は半ば無意識に呟き、優しい顔をした。こちらも、燃燈の事を一時も忘れた事がない。瞬きをし、精悍な燃燈の顔を思い浮かべてから、しっかりと目を開けて雲中子は考える。封神計画まで、もう時間が無い。己は弟子を取る事が決まったが、圧倒的に時間が足りない。修行の計画をいくら練ってみても、嫌な未来を想像してしまう。

「宝貝……」

 杏について思い浮かべた雲中子は、改めて思った。
 何をしてでも、守りたい、と。それは雷震子を弟子にするずっと前の事である。



 ――だが、往々にして想いはただの夢で終わる。
 雷震子の封神は免れたが、仙界大戦において、雲中子は道徳という友人を含め、多くの既知の仙道の封神を目にした。生き残った太乙と、お茶をする事になったのは、崑崙山2の設計計画について話し合った直後である。

「ねぇ、雲中子」
「なんだい?」
「雲中子は、大切な者を失った事がある?」
「今回沢山の者を喪失したと思うけれどねぇ」
「なんていうんだろう、特別な相手って言うか。あ、道徳は抜きで。私達色物は、永遠に不滅として、それは抜きで」

 それを聞いて、雲中子はニヤリと笑う。

「無いねぇ」

 すると太乙が小さく頷いた。

「君には、大切な存在があんまり無さそうだしね」
「――私にだって、好きな相手くらいいるよ」
「へ?」
「それで、操縦に関してだけど、私は栄養補給用の――」
「待って、現在進行形?」
「――サプリを作れば良いんだよねぇ? さぁ、早速始めようとしようか」

 雲中子が明らかに話を濁したから、太乙はそれ以上追求しなかったが……誰だろうかとその後数日悩んだようである。

 サプリメントを作りながら、雲中子は何度か太乙の言葉を反芻した。失った者は多数いるが、一番最初に考えたように――燃燈は封神されなかった、弟子も無事だ。優先順位をつけるべきではないし、そうしたいとは思わなかったが、二人の無事が嬉しくてならない。

 太乙の生存だって喜んでいるし、道徳が封神された事は苦しい。
 でも、いつか。

「私は、再会して……今度こそ伝えなければならないんだからねぇ、それまで……」

 ……頑張る、とも違うのかもしれない。
 もう遠い昔の約束であるから、燃燈も忘れてしまったかもしれない。
 上手く内心を言葉に出来ないままで、雲中子は実験に打ち込んだ。



 このようにして刻は流れ、最終決戦の日が過ぎ去り、現在――。
 歴史の道標が無い世界、女?不在の今。
 穏やかな風が流れるその日、蓬莱島において、雲中子は新しい玉柱洞の軒先にいた。

 パトロールに出た雷震子を見送り、空を眺めていた雲中子の元に、その時足音が響いて聞こえた。わざと砂利を踏む足音を立てたのだと理解したが、気付かぬふりを雲中子は通す。嘗て馴染んだ気配であるから、来訪者が誰であるのかは見るまでも無く分かったが、どのような表情で向き合えば良いのか分からなかったからだ。

「良い天気だな」

 しかし先方の――燃燈は実にあっさりと声をかけてきた。雲中子は小さく吹き出す。

「第一声が、君らしくも無い世間話で驚いてしまったよ。確かに天候の話題は無難だねぇ」

 雲中子が口角を持ち上げると、燃燈が穏やかな色を瞳に宿して唇で弧を描く。

「私に話したい事柄というのは、予定通り増えたのか?」

 時間の経過をまるで感じさせないように、燃燈が述べる。雲中子は追憶に耽るように遠くを見た後、目を伏せ笑った。

「そうだねぇ。例えば、弟子の話とかねぇ」
「雷震子か」
「そうそう、馬鹿弟子の話でねぇ。逆に、燃燈は私に何を聞いて欲しかったんだい?」

 こちらもするりと言葉を紡いだ雲中子であるが、内心では動悸が酷い。再会が叶った燃燈を見れば見るほど、胸の疼きが止まらなくなる。

「どのように伝えようか、今日ここに来る直前まで考えあぐねいていたが、率直に言う」
「うん?」
「お前は鈍いな」
「……君にだけは言われたくないけどねぇ」
「私が鈍い?」
「鈍いだろう、燃燈は」
「どこがだ?」

 例えば誘うような言葉を、さらりと吐く所だと言おうとして、いいやあれは己が自意識過剰なだけだったはずだからと雲中子は顔を背ける。燃燈は純粋に分からないといった顔をしている。

「燃燈は、私が何を最初に伝えたかったか、そもそも気付いていないだろう? 違うかい?」

 雲中子が諦観を込めつつ、小声で言った。すると燃燈が腕を組む。

「平和になってから聞くと決めていた。内容を空想しなかったわけではないが、私はお前の口からそれを聞きたい。それが叶う平穏が訪れたのだからな」
「その空想が的を射ているとは到底思えないから、私も言いたいし、言うとしようかねぇ」

 何度か頷いてから、雲中子はさも余裕があるような顔をした。
 ニヤリと笑う。失恋を覚悟しながら。

「君を抱きたい」
「雲中子、それは――」
「ずっと燃燈が欲しかったんだ」
「――先に、その理由、想いを述べてから言うべきでは無いのか?」

 振られると思って言葉を続けた雲中子と、真面目な顔をした燃燈の声が重なる。

「尤も、先に想いを告げずにお前を誘ったのは私だが」
「……え?」
「時折考えた。あの夜、やはり帰るべきでは無かったなと」
「誘って、って……本当に? 私の勘違いじゃ――」
「お前は私の誘いを躱したのだとばかり……少なくともそう思って、何度かのたうち回りそうになったぞ私は。だが、やはり告げてからにして良かったと、長き日々の間に思っていた。その結果が、今のお前の言葉と私の回答だ。何故雲中子は私を抱きたいんだ?」

 雲中子は虚を突かれた顔をした後、嬉しそうに破顔した。

「決まっているだろう、私は燃燈の事が好きなんだよ。即物的で申し訳ないねぇ」
「ならばこれからは、私達の関係性は変わるという理解をして良いか?」
「燃燈、それは私の恋人になってくれるという事で良いんだろうねぇ?」
「私はそれを希望するが、雲中子は?」
「口約束に意味があるとは思わないで生きているけれど、燃燈との間になら、それがあっても悪く無いなと思う限りだ。好きだよ、燃燈の事がね。我ながら、どうかしているくらいに、ずっと」

 二人はそれから見つめ合い、平和を分かち合うように改めて笑顔を浮かべた。
 ――これを契機に、雲中子と燃燈は付き合い始めた。
 歴史の道標が無い今、一つの両片思いが終焉を迎えた瞬間でもある。