【三】
――日光が、眩しい。
睡眠不足だから、尚更なのだろう。雲中子は、額に手を添え、無意識に影を求めていた。道徳と共に、黄巾力士に乗り、浮遊して移動をしている。太乙作のこの宝貝自体、揺れや振動への対処や制御がなされているし、道徳の操作も巧みなのだが……雲中子は乗り物酔いをしそうになった。お世辞にも体調が良いとは言えない。これだから、人間はきちんと眠らなければならない生き物なのだと、頭の隅で再度考えた。軽く横になったから眠気自体は幾分かマシになってはいたが、体の重さや辛さは変わっていない。
玉虚宮に着いてからは、雲中子は会場を眺めて佇んでいた。道徳は準備に追われている。手伝いをして回っているようだった。
何度か瞬きをしながら、雲中子は幻想的な会場の光景を構成している、一つ一つの要素を見ていく。枠組みは、星の輝く夜空だ。
そこに、春の桜、夏の蛍、秋の芒、冬の雪が、一緒くたに存在している。
四季折々の美しい風景で築かれた無秩序。
「どれか一つをとっても、酒の肴には充分すぎるだろうにねぇ」
スッと目を細めて、雲中子は呟いた。聞く者は誰もいない。
それからほどなくして、宴が始まった。
――雲中子は変人と名高いが、相応に高仙として認識されてもいる。
だからなのか、酒を注ぎに来る仙人も多い。あるいはこうした、賑々しくも華やかな場所で、雲中子を見かけるのが珍しかったり、久方ぶりに顔を合わせたからであったり、いくつもの様々な理由が存在するのではあろうが……結果は同一で、盃を飲み干しては、次の酒を注いでもらい、再びそれに口をつけるという繰り返しだ。雲中子が酒を注ぐ場合もある。
――酔いがまわるのが早い。
雲中子が目眩を覚えるまでには、そう時間を要しなかった。適度に酒を断る予定が、崩れたからだ。体が気怠い上、蒙昧とした思考では、上手く交わす言葉が出ては来なくて、気付くと勧められるがままに酒を飲んでいた。
それとなく会場を離れた雲中子は、それから玉虚宮の屋内に逃れて、休める場所を視線でさがした。この時には既に、歩く事にも必死だった。
「雲中子?」
その時声をかけられて、雲中子は視線だけで振り返った。するとそこには、道徳が立っていた。
「出ていくのが見えたから、気になっちゃってさ」
苦笑するような道徳の顔を見た時、雲中子の視界はグラグラと歪みつつあった。
「酔ったのか? 珍しいな」
「……」
「――と、いうか、顔色が悪いな」
「……」
「おい? 雲中子? っ、おい!」
焦るような道徳の声を耳にした時には、既に雲中子は立っていられなくなっていて、体勢を崩していた。倒れ込んできた雲中子を、両腕で抱き留めた道徳が息を飲む。
「大丈夫か?」
道徳の問いかけに、返答は無い。青白い顔で目を伏せている雲中子は、完全に意識を落としている様子だ。その体を抱きしめながら、道徳は細く息を吐いた。
想像以上に、雲中子は肉づきが悪い。華奢だ。己の腕力が強いというのもあったが、これ以上手に力を込めたら、雲中子が壊れてしまいそうだと道徳は考えて、馬鹿げた空想だと一人苦笑する。
そんな思考には反して、雲中子に回した腕には、どんどん力を込めてしまう。既に倒れたところを助けた状態ではなく、完全に抱きしめていると言えた。
「救護室なら、休めるか」
呟いてから、道徳は雲中子を抱き上げた。そのままひと気のない回廊を、横抱きにして運ぶ。そして誰もいない真っ暗な救護室の電気をつけてから、その白い寝台に雲中子の体を横たえた。室内には医薬品の臭いが溢れている。
死んだように眠っている雲中子の、思ったよりも長い睫毛を見ながら、道徳はいつも浮かべている笑みを消した。別段、それまでが作り笑いだったわけではない。ただ襲ってくる自己嫌悪から自然と表情が険しくなってしまい、道徳はきつく目を閉じた。
――考えてみれば、雲中子は最初から、断ろうとしていたではないか。思い返してみれば、玉柱洞で目を覚ました時から、雲中子の顔色は悪かったように思うし、本人も休みたいと口にしていた。
「……」
道徳は、溜息をおし殺せなかった。無理をさせた自分自身への悔恨が浮かんでくる。そもそもの話、今日強く道徳が誘った事だって、単純に雲中子と同じ空間に居たかっただけだという自覚があった。
たった二日、連絡が取れなかっただけで、嫌われた可能性まで考えた。会いたいとばかり願ってしまい、声を聞きたくなり、些細な事で不安に駆られる。叶う事ならば、自分を見て欲しい。
道徳は、雲中子の事が好きなのだ。
気付くと道徳は、寝入っている雲中子の唇に、触れるだけの口づけをしていた。半ば無意識の事で、我に返って息を飲む。酔っている相手の寝込みを襲うなど最低だ。それも、体調不良の人物の。いくら好きでも許されないだろう。
その後は翌朝まで、道徳は隣の椅子に座って、眠る雲中子をただ静かに眺めていた。
「ん……」
朝が訪れた。本日はその白い光とともに目を覚ました雲中子は、上半身を起こしながら周囲を見た。玉虚宮の救護室だった。
「目が覚めたのか? 良かった」
「道徳、私は……」
どうしてここにいるのかと聞こうとして、雲中子はやめた。おぼろげに、道徳の前で倒れた記憶が甦ったからだ。
「……醜態を晒してしまったようだね。ついていてくれたのかい? 申し訳ない事をしてしまったね」
雲中子が困ったように笑ったのを見て、慌てて道徳が首を振った。
「気分はどうだ? 顔色は、少し良くなったみたいだけど」
「もう平気だよ。あんなに酔いがまわるとは思っていなくてねぇ」
「具合が悪い時は言ってくれ。だけど、そうか。良かった」
微笑した道徳の口元を見て、不意に雲中子は昨夜見た夢を思い出した。
「そう言えば昨日、おかしな夢を見たんだ。なるほど、道徳が看病してくれていたからか」
「夢? どんな?」
「道徳が私にキスをした夢なんだ」
冗談めかして、揶揄するように、楽しそうに雲中子は語っていたが――それを聞いた瞬間、道徳は硬直し何も言えなくなった。笑みがこわばっていく。夢ではないからだ。昨夜、確かに道徳は、雲中子にキスをした。
「嫌だったか?」
「どうしてだい? 道徳が私にキスをするなんて、非常に……そうだねぇ、嬉しかったけど」
表現が難しいなと考えながら、雲中子が答えた。それを聞いて、道徳が短く息を飲む。
「ただ、どうせなら、夢じゃない方が良かったかな」
「……そうなのか? 本当に? どうして? その方が面白いからか?」
「ううん。私は道徳が好きだから、キスをしたいと思っただけだよ」
その言葉に、道徳は目を見開いた。それから一度、ゆっくりと視線を揺らしてから、静かにいう。
「悪い、夢じゃないんだ。昨日寝ているお前に、キスをした」
「え? それこそどうして?」
道徳の言葉に、今度は雲中子が驚いた顔をした。
「俺はお前が、雲中子が好きだからだ」
「――それなら、起きている時にしてくれたら良かったのに」
雲中子は道徳の返答にそう告げると、穏やかに微笑んだ。
それを聞くと、道徳もまた頬を持ち上げてから、手袋を取った手を、静かに雲中子の顎に添えた。そうして二人は唇を重ねる。
こうしてその日、二人の両片思いは終了した。結果として――雲中子の不健康な眠れない夜も終了する。それは、恋人とともに寝る夜が増えたからだ。道徳と過ごす毎日は雲中子にとてかけがえのないものだったし、それは道徳にとっても同じである。
【END】