【一】
紫陽花の季節が近づいてくる。
名前からの連想は安易なのかもしれない。それでも、この季節になれば、青峰山について――紫陽洞について、なお言うならば道徳について、確かに雲中子は想起する。
だが、ただ思い出すだけだ。
玉柱洞の庭に出て、そこで咲き誇る紫陽花を愛でるだけだ。手を伸ばし、その花弁に触れる。青、斑、紫、ピンク。酸性からアルカリ性までの土壌をわざと作って、色彩を楽しんでいる。最初、それは研究の一環で、今ではただの趣味だ。
一度だけ出かけた紫陽洞では、無作為に様々な色彩の紫陽花が咲いていた。道徳は土に配慮したわけではないのだろうが、そこに広がる風景が羨ましかった。特に青い花を見た時、雲中子は道徳を漠然と思い出す。更に言えば、緑の葉を見た時に。
道徳と顔を合わせるのは、数年に一度といった所か。気まぐれに道徳が、終南山に顔を出す時ばかりである。実験に熱中していれば、数年など一瞬だ。だがそれでも雲中子は、年に一度は、道徳の事を確かに考えていた。
「ん」
その時、終南山に来訪者の気配を感じた。仙気でそれがすぐに、今し方思い浮かべていた道徳だと理解して、雲中子は顔を上げる。すると玉柱洞へと続く道を、道徳が走ってくるのが見えた。庭に立ったままで、雲中子は道徳を出迎える。
「よ。雲中子」
「久しぶりだねぇ」
「そうか?」
道徳は笑顔だ。実際、仙道にとっては久しぶりというほどの時間経過は無い。だが、気にしていた己が滑稽に思えて、雲中子は嘯く。
「二百年ぶりくらい?」
「二年ぶりの間違いだろ。忘れるなよ」
気を悪くした様子もなく、道徳が喉で笑った。そして手袋をはめた手に持っていた袋を掲げた。
「美味しい饅頭を貰ったんだ。雲中子、好きかと思って持ってきたんだよ」
「そう」
別段、雲中子は饅頭が好きというわけではない。だが最初に玉柱洞へと一人でやって来た時から、必ず道徳は饅頭を持参する。それが玉鼎から貰い物だという事も、過去に同じ品を貰った事がある雲中子は知っている。
「入って」
踵を返して洞府へと、雲中子は道徳を促した。居室のソファへと道徳を促して、饅頭に合いそうな茶葉を考える。いつもであれば、来訪者には一服盛る所なのだが……不思議とそういう気分にはならなかった。
「どうぞ」
雲中子が湯飲みを差し出すと、こちらも危機感が無い様子で、道徳が普通に受け取った。同時に雲中子が持ってきた皿に、道徳が袋から取り出した饅頭を並べていく。
穏やかな午後の一時。
その始まりだ。
それは嬉しかったが、道徳の顔を見ていると、不思議と胸騒ぎがする為、雲中子は内心で溜息を押し殺す。別段常に道徳について考えているわけでは無いのだが、頻度として道徳を年に一度はであっても思い出すというのは、雲中子にとっては随分と多い事であったし、実際に顔を合わせていると、道徳の事ばかり考えだし数日は引きずる事もある。
だから、ずっと聞きたい事があった。
「ねぇ道徳」
「なんだよ?」
饅頭を片手に道徳が顔を上げる。何気ない調子で小首を傾げている。
「どうして道徳は、私の洞府に来るんだい?」
「――来ちゃ、ダメか?」
「これといった用件も無く、ここに訪れる仙道は少ないからねぇ」
「用件ならあるだろ? ほら、この饅頭」
その言葉に、雲中子は湯飲みの中へと視線を落とした。茶色いお茶の水面をじっと見る。
「なぁ、雲中子」
「何?」
「饅頭っていう用件じゃ、ダメって事か?」
「え?」
「俺は、俺なりに、必死に用件をきちんと作ってここに来てるつもりなんだぞ?」
「どういう意味?」
「お前に会いたいって意味以外にあるか?」
道徳のその声に、驚いて雲中子は顔を上げた。すると道徳は、どこか不貞腐れたような顔をしていた。
「私に会いたいって……どうして?」
「俺、回りくどいのは苦手だし嫌いだし無理だし、でも、それなりに頑張ってみたんだよ。ちょっとずつ、雲中子に近づきたいと思って。けどもうきつい。言う」
「何を?」
「好きだ」
「っ」
「俺の恋人になって欲しい」
真剣な顔をしている道徳を見て、雲中子は虚を突かれた。最初は体が硬直し、次に気づいた瞬間には――自分でも驚くほどに赤面していた。頬が熱い。骨張った片手で口元を覆いながら、雲中子は俯いた。
「私を好きだなんて変わってるねぇ」
「好きに理由は無い。好きなものは好きなんだ。だからいつも俺は、会いに来る理由を探していて、そうしたらこの饅頭を雲中子が気に入っているって聞いたんだよ」
「……嫌いでは無いけどねぇ。別に、その……会いに来るのに、理由はいらないよ」
「? お前だってさっき、『用件は?』って聞いただろ?」
「『道徳なら』、用件は不要だよ」
頬を朱くしたままで、雲中子が呟くような小声で言った。すると道徳が目を丸くする。
「へ?」
「答えになっていると思うけど」
「悪い。はっきりと言ってくれ。答えって、俺の告白への答えなら、本当にしっかりと」
道徳がまじまじと雲中子を見た。頬の赤味を隠す事に必死になりながら、雲中子はゆっくりと長めに瞬きをする。
「私も……多分、道徳が気になっているよ」
「多分は余計だ」
「私にしては、特定の他者を思い出したり、考えたりする頻度で言うのならば、道徳は特別だよ」
「それ、好きか嫌いかで言ってくれ」
「っ、だ、だから――好きだと思う」
「思うも余計だ」
そうは言いながらも、雲中子の答えに、道徳が実に嬉しそうな顔をした。あんまりにも明るい道徳の顔を一瞥し、雲中子はきつく目を閉じる。気恥ずかしくて、見ていられない。
この日を境に、道徳と雲中子は恋人になった。