【二】




 最初に変化したのは、道徳の来訪頻度だった。同時に、雲中子が道徳を待つ頻度も増加した。実験の最中、試験管を振りながら、集中力が途切れた一瞬に、ふとぼんやりとして道徳の顔を思い浮かべてしまう時、雲中子は思わず瞼を伏せ嘆息するようになった。

 付き合い始めて、現在三ヶ月。
 その間に、道徳は十二回以上、玉柱洞を訪れている。少なくとも、週に一度は顔を合わせている。用件は――雲中子に会う事に変わっていたから、饅頭を持参する事は無い。代わりに様々な土産話を運んでくる。日々の出来事、太乙がどうした、赤精子がどうしただのと、道徳は楽しそうに雲中子に対して語る。

 それだけではない。道徳は、真っ直ぐだ。本日も玉柱洞へと訪れている道徳は、ソファに背を預けると、実験を一区切りさせて顔を出した雲中子に笑いかけた。

「好きだぞ」

 ストレートすぎるその言葉に、いちいち雲中子は照れてしまいそうになるから困る。素直に自分も好きだと言えば良いのだろうが、羞恥が勝る。

「奇特だよねぇ、道徳は本当に」

 だから唇に無理に笑みを浮かべ、平静を装って、冗談めかして雲中子はいつもそんな風に返す。道徳は両頬を持ち上げて、軽く首を捻るのみだ。

「そうか?」
「そうだよ。私を好きになるなんて、世にも珍しいとしか言い様がない」
「ま、俺以外がお前を好きになったら困るから、それはそれで良いけどな」
「……」

 道徳は率直だ。本心をそのまま口にする。雲中子は思わず天井を仰いだ。それから顔の位置を戻して、チラリと道徳の顔を窺う。

 ――もう、三ヶ月だ。
 『もう』……。
 その間、変化はと言えば、顔を合わせる頻度と想う頻度の増加のみ。
 恋人らしい事は、言葉のみ。

 果たして道徳は、それで満足なのだろうか。人体の摂理こそが肝要な研究対象である雲中子は、恋人になると決まった時、最初に体を重ねる事を考えた。当初は、それが不安だった。これまで、研究一筋だったからだ。しかしながら、求められる事も無く、口づけすら交わしていない現在は、そちらの方が余程不安だ。

 道徳は雲中子に対して、いつも愛を語る。だが、肉体関係を迫る事は無いのだ。
 あるいは己から言い出せば良いのかとも考えたが、元々が性交渉に僅かな恐れがある為、雲中子は言い出せない。

「じゃあな。そろそろ帰る」
「そう」

 本日もソファから立ち上がった道徳を、玄関まで雲中子は見送る事にした。ただ――胸中に渦巻く恋故の不安が起因したのか、気づけば無意識に道徳の袖を引いていた。

「雲中子?」
「なんでもないよ」

 自分の行動に動揺した雲中子は、慌てて手を離そうとした。だが、その手首を道徳が軽く握った。そして――雲中子を抱き寄せた。抱きしめられる事も、初めての事だ。一気に雲中子の心拍数が上がる。想像以上に厚い道徳の胸板に、ギュッと押しつけられてその体温を感じた時、雲中子は体を強ばらせた。

「なんでもなくないだろ?」
「……本当に、なんでもないんだよ」
「俺が帰るのが寂しいとか、か?」
「……」
「なぁ雲中子。いつも俺ばっかり話していて、俺は話せるだけでも楽しいからそれは良いんだけどな――もっとお前の言葉が聞きたい。俺の事、どう思ってるか、雲中子も、もっとちゃんと言ってくれ。たまに不安になる。俺、空回りしてるか?」

 それを聞いて、雲中子は何も言えなくなった。道徳の事ばかり考えているのに、確かに対面している時は専ら聞いているだけで、自分の言葉はあまり出てこない。『好き』を、もっと伝えたいのに、それが出来ない。

「なぁ、雲中子」
「……」
「好きだぞ」
「……私だって、その――……」
「少なくとも、俺の腕の中にいるの、嫌じゃないって事で良いんだよな?」

 そう言うと道徳は、より強く雲中子を抱き寄せた。腰と後頭部に回った道徳の手に、雲中子はギュッと目を閉じる。嫌なはずがなかった。

「俺は、もっと雲中子が欲しい。でも、お前の気持ちを尊重したい。だから、我慢してる」
「っ」

 核心的なその声に、雲中子は静かに顔を上げた。見れば精悍な顔立ちの道徳が、真剣な瞳でじっと雲中子を覗き込んでいた。道徳はそれから片手で、雲中子の顎を持ち上げる。

「キス、しても良いか?」
「聞かなくて良いよ」
「じゃ、これからは聞かない」
「ン」

 次の瞬間には、道徳の口づけが振ってきた。最初は触れるだけのキスで、雲中子が薄らと唇を開くと、次第にそれが深くなる。舌を絡め取られた雲中子は、ゾクリとこみ上げてきた感覚に、息を詰めた。


 ――この日から、二人の間に、キスが加わった。