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全ての事柄に現実感が伴わなくなったのは、いつの事だったのだろう。
屋上のフェンス代わりの鉄線に指をかけ、くすんだ青空と広がる街並みを眺めながら、務は吐息する。
水色と灰色の無様なコントラスト、無機質な街。
「何見てんの?」
不意に声がかかり、正面にミルクの紙パックが現れる。
彼よりずっと背の高い間宮が、頭の後ろから腕を伸ばして、務の正面でパックを揺らしたのだった。嘆息しながら受け取って、振り返る。
現在163cm。まだ伸び盛りだと信じている。せめてあと7cm欲しい。淡い望みから務は、あまり好きではないミルクのパックにストローを指す。現在は姉と全く同じ身長で、それも不満なのだ。そんな事を思いながら、フェンスを背にしゃがみ込む。
そんな務の横に腰を下ろした間宮良和は、指を汲んで空を仰いだ。
「分かった。自分の家を見てたんだな」
「どうして?」
「妹の事が心配なんだろ? いや務も中々シスコンだったんだな。俺は嬉しいよ」
「間宮の同類にはなれないよ、僕は」
呟きながら、開いたままの非常階段の扉を一別する。立ち入り禁止の屋上へ通じる扉は、化学準備室の非常階段からしか登れない。通常の階段から扉の前に立っても、そこには厳重なカギがあるから、ここは化学部の生徒しか立ち入らない。嫌、知らないというのが正しいだろう。化学部は実質帰宅部で、部員数は存外多いのだろうが、務は自分以外の大半の部員の顔も知らなかった。だから恐らく、現在この場所を知っているのは務自身と、務がここへ登るのを見て以来時折顔を出す間宮だけだろうと、思っている。
「正直どうなんだよ? 妹の具合」
「別に。元気そうだよ? 周りにはあんまりいないけど、罹った人も大分いるみたいだし。すぐに治るんじゃないかな」
「早く治ると良いな。日和も大分心配してる」
「メールしてるらしいけどね。昨日言われたよ。妹の話してるとかキモいってさ」
「兄の思いとは妹には届かないものなんだな、悲しいよなぁ。な?」
「いや、同意を求められてもさ」
「ま、有紗ちゃんもそんな話するくらい何だから、本当に元気出てきたんだろう。良かったな」
「どころか、お前が本当に永瀬と付き合ってるのか、なんて話までしてたよ」
呆れ混じりに何とはなしに続けた務は、間宮が肩を揺らして笑っているのを見て取った。ただ笑うだけで、やはり否定はない。しかし肯定も無い。別段訊いてどうするというものでもなかったが、不意に疑念が沸いてきて、ストローを噛んだ。有紗は、ああ見えて、根拠のない話題はあまりしない。
「なぁ、付き合ってるんだよな?」
「何が?」わざとらしく小首を傾げながら、間宮が務を一別する。持ち上げられた唇が、楽しそうに弧を描く。
「間宮と永瀬」パックに視線を落とし、務は続けた。
「有紗ちゃんの一言で揺れる兄貴。だからそんな事訊くんだろ?」
「誤魔化すなよ。言いたくないんなら別に良いけど。そんなんじゃないしさ。ただ、ちょっと思ったんだよ」
「何を?」
「俺、お前の事そういえばあんまり知らないなってさ」
「おいおいもうすぐ卒業だぞ? 3年目のつきあいだぞ? そんな寂しい事言うなよ」
「だからだよ。卒業したら会う事もなくなるだろうし」
「いや、減るくらいに発言止めろよ」
「うん、まぁ。でもほら今みたいに毎日学校で会う訳じゃないだろ?」
「まぁな。だけどな、そんな事言ったら、俺だって務の事そんなに知ってるわけじゃなくなるだろ。有紗ちゃんの話なんて数えるほどしか聴いた事ないし、日和が入学するまで知らなかったしな。そもそもこの三年というもの、ずーっと務は俺を名字で呼ぶしな。あ、分かった、お前、俺と離れるのが寂しいんだな? 俺嬉しいよ」
「どうかな。ただ間宮が、僕の事より、有紗の事の方をよく知ってたりするんじゃないかと思って」
それまで冗談めかして喋っていた間宮の応答が止まる。視線を上げると、相も変わらず笑ったままの間宮の表情がそこにはあったが、ただそれは虚しく口元が弧を描いているだけで、普段は柔和な眦は、些か険しいものに見えた。時折、間宮はこういう顔をする。その度に務は、目が笑っていないとは、こういう顔を言うのだろうと感じていた。
「何か聴いたのか?」
「まあね」少し癖のある自身の髪を、手で撫でながら務は肩を竦めた。
「何て聴いた?」
「さあね」
「もしマキナエルライトの暴走の事なら、アレは本当に俺じゃない。それに確かに俺は神野先生の事は知ってたけどな、だからってお前に声掛けたわけじゃない。机が隣になったのなんてただの出席番号順だろ。この期に及んでまさかお前、俺の事疑うのか?」
「別に……疑ってるわけじゃないけど。ただ、間宮の口から聞きたいなって思っただけで」
「由海の事黙ってたのは悪かったと思う。でも言えるかよ? 言えるわけ無いだろ。信じるか? 普通さ。知ってて信じてくれたとして、それでどうなる? それこそお前は俺を疑うだろ」
「疑うって、それはどの件に対するどういった意味で?」
「そんなの決まってんだろ。MIOの例の2つのテロ騒ぎに……。亡くなったんだろ、その時にお前の母親。断言して言うが、少なくとも俺の知る範囲でカルミネイトは無関係だ」
「じゃあ間宮は、僕に対して謝る事は何も無いって事?」
「その……色々黙ってたのは悪かったと思う。ごめん。でも俺はお前の事、その」
「うん。僕は間宮の事友達だと思ってるからもう良いよ」
「務……」
「友達でも言えない事とか、隠しておきたい事とか、逆に友達だから秘密にしたい事とかって、沢山あるんだと思う。誰にでも。無理にききたいとは思わないよ、そういうのはさ。まぁ聴いたからって言おうとも思わないけど」
「……そうだな。それもそうだな。お前、やっぱり良い奴だな」
「今頃気づいたの? 遅いね」
「言ってろ。まぁ良いや。俺バイト行くわ。お前は?」
「もう少しここにいる。一応部活の時間だからね、今は」
「そりゃそうだ。じゃ、また明日な」
「うん、明日」手を振り応えながら、務は間宮を見送った。
非常階段の軋む音が響き、化学準備室の扉の開閉音が遠くから聞こえてくる。それを耳にしながら、務は呟いた。
「マキナエルライトの暴走って何だろう?」
一人腕を組む。先ほどまで知ったそぶりで聴いていたが、実際には、間宮の話は分からない事だらけだった。
マキナエルライト自体は務も知っていた。7年前に、務の父である神野嚆矢が発掘した、新エネルギーだ。石油の代替物になると言われているが、まだ詳しい事は研究中なのだという。実用化の目処が立っているのかも、務自身は知らない。しかし、幼い頃に一度だけ、鉱物の姿をしたマキナエルライトを、父に見せてもらった事がある。あの淡い緑色の、半透明の結晶の煌めきは、確かに今でもありありと思い起こせる程脳裏に焼き付いていた。
どのような働きでエネルギーとなるのかも知らないが、少なくともあの姿を想起する限り、暴走などしそうにはない。仮にそんな事件が起こったのだとすれば、なぜそんなニュースが報道されないのだろう。しかもまるで、『有紗は、間宮がその暴走をひき起こした』と兄に話したのではないかというような、口ぶりだった。
確か、神野先生とも言っていた。恐らく父親の事だろう。それとも母親のことなのか。亡くなった母はそれよりもずっと前から帰郷していないのだから、可能性は低いか。では姉だろうか。姉も父と同様の研究をしているらしいが、教鞭を執っているとは聴かない。いつも上司に言われどこでどんな雑用をしたのだ、と言う愚痴を聴く。母が亡くなってからずっと、代わりに家事などをしてくれていた姉だ。その母の事にも触れていた。MIOとは、マキナエルライトの情報を発信したりする機関の略称だったように思う。しかしMIOがテロの被害にあったなどという話は聴かない。その上、母がMIOと関係していたという話も知らない。
元々マキナエルライト自体は、考古学者で遺跡の発掘をしていた母が、同行していた化学者の父の理論を元に、発見したとは聴いている。しかし発見後も、母は自分の研究を続けていたはずだ。亡くなった時も、北で発掘調査をしていて、直前まで自分と画面越しに通話をしていた。務は今でも思い出す。それまで笑っていた母の映像が不意に途切れ、数秒おいてヘッドホン越しに響いていた母の声もいきなり消失した事を。
あの時母は、蓬の陸地で大規模な、新人のものと思しき人骨の発掘調査を行っていた。現代の人類に較べると、大幅に眼窩が小さく、代わりに耳穴が肥大化している小さな人骨が、大量に見つかったのだ。また口蓋からは、細長い軟骨が突き出しており、現生人類の歯とは少し異なった趣であったらしい。初めは骨ばかりであったものが、永久氷土の中から、「彼ら」と思われる遺体が発見され、調査が大々的に行われる事となった。口から鮹や烏賊の足に似た器官が外へ出た状態で、耳朶が大きく背丈は小さい人類だったそうだ。猿人や類人猿と人間の中間に位置するようには思えなかったが、それでも現在人類に分類されているのは、高度な道具を用いていた形跡があるからだ。また今でも、嘗ては触刺の生えた人々が闊歩しており、ある日開眼した太母によりこの世界が始まったのだという伝承が、どこかに残っているとも言う。
だがその遺跡ももう無い。あの日、母と共に蓬の陸地の多くが燃え尽きてしまったのだという。近くにあった原子力発電所に、比較的大きい隕石が衝突したとの事で、現在でも近隣は立ち入り禁止だ。以来半原子力の運動もより盛んになり、一刻も早いマキナエルライトの実用化が叫ばれている、とは教科書でも学んだ。
この件の一体どこに、間宮が関わる余地があったというのだろう。
疑問は他にもある。カルミネイトとは何の事だろう。これだけは単語の意味も分からない。
その上、何故有紗がそれを知っているというのだろう。
これまで務は聴いた事すら無かった。
「早めに帰って聴いてみようかな」
立ち上がり、務は両腕で体を抱いた。日が暮れ始め、次第に寒さが厳しくなってくる。
大昔に恐竜が住んでいた時代は、とても暖かかったのだと幼い頃に母から聴いたのも、今と同じように冬のある日だった。冬はいつだって厳しく寒い。
「コンポタ飲んで帰ろ」
一人口にし、務は、非常階段から下へと降りた。帰ったら妹に聴いてみなければならない事も出来たから、と、二つコーンポタージュの缶を買う決意をして。