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帰宅した務は、カギがいつもの場所にない事に眉を潜めた。
確かにいつもと同様、朝鍵を閉めた時には、黄色い紐をつけたカギを、鞄の前ポケットに入れておいたはずなのにと何度も探る。
しかし床へと落とした視線が、その瞬間、エントランスの扉の正面に落下している黄色い紐を捉えた。この夕闇の中では黄色と分かるもはずもないのだけれど。
慌てて手に取り嘆息する。今朝は急いでいたから、ここで落としたのだろう。
何事もなく見つかり、本当に良かった。
無事に家へと入り、自室のソファに鞄とマフラーを投げ置いてから、務は妹の部屋へと通じる通路の扉に手を伸ばした。電気をつけて有紗が起きてしまったら悪いからと、暗いままで進み、立ち止まって声を掛ける。
「有紗、大丈夫?」
返答はなかったが、握った缶の温もりを思い出し、折角だからと扉を横にひいてみる。
「有紗?」空調の音と共に、携帯の振動音が響く。すぐに出ない様子に、ああ本当に寝ているのだろうと思い至った所で、床に投げ出された布団に気づいた。
「ちゃんとかけなきゃ駄目じゃないか……。全く寝相が悪いんだから」
思わず溜息が出た。ポケットから有紗の分の缶を取り出して机に置き、自分の分の既に開いている缶を傾けながら、天井から伸びる電気の紐に手を伸ばす。
スープを嚥下しながら、静かに明るくなった室内で、改めて妹へと視線を向け、そして務は目を瞬いた。
ここ数日と同じ、ぼさぼさになっている染められた髪。灰色のスウェット。
ただ違うのは、窶れた白い首元を掻き毟るようにしている両手だけだ、と初めは思った。それから爪の間に食い込んでいる白い皮膚と、爪に抉られた様子で紫に変色している首を見た。ヌメリ光る液体が線を引いている。それに沿って視線を上げれば、昨日よりもずっと色合いが暗くなっている唇から泡ともつかぬ唾液がこぼれ落ちようとしている所だった。目は見開かれ、ただ天井を見つめている。
「有紗……?」
呟いた瞬間我に返り、どこか酸味の聴いた臭いが漂っている事に気がついた。
「有紗」喉と唇が震え、息苦しくなる。「おい! ねぇ、ちょっと、有紗?」
同様と焦燥感に駆られ、次に気づいた時には、務は有紗のすぐ側まで近寄り、ベッドの脇で妹をのぞき込んでいた。缶が床に落ちた音で我に返った。スリッパ越しに、垂れたらしいコーンポタージュの感触を覚える。
恐る恐る伸ばした指先が、彼女の首元へと降りる。
「ひ」務は触れた瞬間手を引いて、そこから飛び退いた。
冷たかった。ただ、冷たかった。
脳裏を雑多なニュースが過ぎっていく。新型のこの病では、多くは通常の感冒と同様回復するが、時に呼吸困難などを引き起こし亡くなる者がいるのではなかったか。いやでもそれは既往歴がある人間だけではないのか? 有紗は元気だった。昨日も今朝も元気だった。熱も下がっていたではないか。でも確か、健康で既往歴のない同世代の少女が亡くなったという報道はなかったか? 熱が下がった後に、再度具合を悪くし亡くなった少年もいたのではなかったか? でもそれは有紗の話じゃない。でも違う。でもだから有紗が死ぬなんて言うそんな事は――……死ぬ?
「救急車……」それまで全く思いつかなかった事を、務は漸く考えついた。何故有紗が死んだだなんてそんな事を思ってしまったのだろう。未だ助かるかもしれない、嫌、きっと助かるだろう。死ぬだなんてそんなばかげた話があるわけ無いではないか。
務は床に転がっていた有紗の携帯電話に手を伸ばす。その無機質で冷たい温度に、有紗の首筋を思い出したが、頭を振って考えない事にする。
開いたその画面には、書きかけのメールが広がっていた。宛先は務だった。――『お兄ちゃん、苦しい、息が出来』と綴られていた。震える手が携帯電話を取り落とす。あわてて拾い上げると、『メールを保存しますか? 上書き、新規』といったメッセージが表示されていた。呆然としたまま新規に保存し、送信ボックスの画面を見れば、その一つ前のメッセージがやはり自分宛で『お兄ちゃん、』までで保存されていた。時刻は16:32。丁度自分が間宮と話していた時に、有紗はメールを打っていたのかと考える。もう午後6時を回っている。無理だろう、助かるわけがない、二時間近く経過しているはずだ、呼吸が止まってから。だって、だってだ。冷たかった。冷たかったのだ、アレが生きている? そんなまさか。携帯電話がまた震えた。未読のメールと、不在着信もやはり午後4時半以降たまっていた。
「務? 帰ったよ。有紗は?」
次に我に返ったのは、姉の声を耳にした時だった。
姉になんと話そう。きっと沙希香は強いショックを受けるだろう。混乱が次第に強まり、務は耳鳴りを覚えた。息を飲む。その瞬間、漂っていた悪臭をさらに強く感じ、有紗の横たわるベッドの上を改めて見た。そこでは汚物が遺体から漏れ出している様子で鎮座している。これを見たら沙希香はどう思うか。見られたら有紗はどう思うか。
そんな事を考えて、反射的に務は、遺体の下からシーツを引き抜いた。思いの外妹の体が重く感じたのは何故なのだろう。
シーツを抱え、洗面台へと向かいながら、務は階下へ向けて返事をした。
「おかえり、今眠ってる」
蛇口をひねりシーツを濡らしながら、眠っているとは何だ、と自問する。永眠だ。間違ってはいないのかもしれない。けれど、けれどだ。気づけば涙が出ていた。鼻水もこぼれそうになって、慌てて啜る。手が汚れるのも構わずに、務は泣きながらシーツを洗った。嘘であって欲しかった、こんな現実、現実ではなく夢であって欲しかった。
軽く絞って、洗濯機に放り込む。
それから顔を洗って、拭いたタオルも放り込む。
その後、脇にあったトイレットペーパーを一つ手に取り、有紗の部屋のフローリングの床の上で広がっているコーンポタージュを拭き取った。ゴミ箱へと投げ、袋毎それを持ち出す。一端それらを、洗面台脇のダストボックスへと投げ捨てて、洗濯機の電源を入れた。
義務的に清掃作業を行っている内に、少しだけ務は冷静さを取り戻した。
深呼吸をしてから、通路の扉を開け、自室に戻る。
すると丁度姉が粥を載せた盆を手に、階段を上がってくる所だった。時計を一別すると、すでに7時を回っていた。自分はどれくらい、有紗の部屋にいたのだろう。
「まだ眠ってるの? 具合未だ悪そうなら、明日辺りもう一度病院に連れて行ってあげたいんだけど」
いつもよりも声を潜めた調子で、沙希香が口にする。
「え、いや、その必要はないと思うよ」
「そう? じゃあ今日もお願いね」
反射的に渡されたお盆を受け取り、務は息を飲んだ。
「ちょっと待って沙希香」
「なぁに? もう、お姉ちゃんて呼びなさいってあれほど」
寸分もいつもと変わらぬ様子の姉は、階段を降りながら首だけで振り返っている。
「うん……別に」
そのあまりにもいつもと変わらない様子に、務は、自分が夢を見ていたのではないかと思った。本当は、有紗は生きているのかもしれない。
そんな事を考えながら、お盆を持って有紗の部屋へと向かう。
しかしてそこでは、やはり妹が天井を見つめたまま、身動き一つせず冷たくなっていた。
机の上にお盆を置き、妹の椅子をひき腰を下ろす。
その上に片膝を建てて座り、自分はどうすれば良いのかと考える。
姉は、ここの所忙しいらしいのに、毎晩毎晩早めに帰宅し、お粥を作っている。務が作ると言っても、勉強をしていろと言うばかりで、夕食の用意も夜食の用意もしてくれる。そして遅くまで階下で仕事を行っているのだ。
勿論自分を気遣ってくれてもいるのだろうが、何よりも妹の体を案じているはずだ。仕事の手前、接触を厳しく制限している事が、負い目なのかもしれない。そうだ、もうここ数日、対面していない姉が、最後に有紗の元気な姿を目にしたのはいつの事だったのか。
こんな事になるのなら、もっと有紗の話を良く聴いてやれば良かった。
母親が亡くなった時は、始め実感が伴わなかったが、現実として受け止めるようになるにつれ、これからは誰かがいつ亡くなっても、後悔などしないで済むように、人と接しようと考えていたはずではなかったのか。それを、それが。
沙希香には何て伝えれば良いのだろう。どう言えば良い? 伝える? 僕が?
母の葬儀の前後の、泣きはらしていた姉の姿を思い出す。
自分たち弟妹の前では必死に涙をこらえ、深夜に一人泣いていた姉の姿。確かその時の沙希香は、今の自分と同じ歳では無かったのかと、務は考える。
有紗と二人、その姉の姿を見た時に、もう沙希香を悲しませないようにしようと、苦労を掛けないようにしようと約束をしたのではなかったか。
務は、スプーンに手を伸ばし、お粥を一口掬った。
口に含む。
塩辛かった。
約束をしたというのに、有紗は死んでしまった。
せめて、僕は約束を覚えていて、そして守るべきではないのかと務は一人考え、お粥を口に運び続ける。
また、泣いてはいけない。姉だって、あの時泣かなかったではないか。
次第に粥は味がしなくなっていき、音も何も聞こえなくなってきて、ただ務は無感情に食事という動作を繰り返すようになっていた。
スプーンが陶器と奏でた不協和音で、皿が空になった事に気がつく。
ああ、自分はやりきったのだ、という奇妙な満足感を務は抱いた。
盆の上に皿を戻し、立ち上がる。
「じゃあ、行くよ有紗。何かあったら、すぐに声――……」
応える者がいない事は知っていた。
なのに反射的に喉を突いて出た声が、妙に滑稽に思えてならない。
見開かれていた双眸を静かに指で伏せる。近くにあったティッシュの箱で、妹の口から流れ出る泡を拭き取った。それを皿と共に盆に載せる。それから床に転がったままになっていた布団を拾って、有紗の上に静かにかけた。
盆を手に階段を下ると、リビングで姉が夕食を広げていた。
「どうだった?」
「うん、実は――……」
「あ、本当にあの子食欲戻ったみたいだね、良かった。え? 何?」
「……もう白いお粥飽きたから梅か卵を入れて欲しいって。全く我が儘だよね」
ひとりでに口が、そんな言葉を紡いでいた。両頬が持ち上がったのが分かる。
思いの外明るかった自分の声に、誰よりも務自身が狼狽えていた。
「ま、元気な証拠かな? この調子なら病院には本当に行かなくて良さそうだよ」
こんな嘘をついて、一体どうなるというのだろう。
そして、これから一体自分はどうするのだろう。
「そっか」
呆れたように笑う姉の声。楽しそうに揺れるその華奢な肩。
「本当、我が儘だなぁ。折角作ってるのにねぇ。でもリクエストされるって事は、料理自体はOKなのかしら」
「最初は酷かったからね」
「うるさい」
ただこうして笑う姉の笑顔を、もう少し見たかっただけなのかもしれない。
もし姉が今、有紗の食欲が戻ったようだなどと言わなければ、自分は伝えられていたのだろうかと、務は考える。そもそも自分は、何故あのお粥を食べたのだろうと思い至る。
恐らく自分は、もう何も考えられなくなっているのだろうと、そんな気がした。いろいろな事があって、いろいろな話を聴いて、けれどどれもきっと結局は、些細な事柄の積み重ねで、けれどけれどけれどどれ一つをとっても、何も他と同じものはなくて、だからその。
ただ流れに身を任せれば、如何様にか成るのではないかと、そんな気がしたのだ。