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「え?」真摯な間宮のその言葉に、務は自分の口から奇妙な程明るい声が漏れた事実に、違和を強く感じた。初めは、妹のことをはき出してしまいたい気持ちに駆られたのかもしれない。けれどすぐに、まるで彼が有紗の死を知っているのではないかと、そんな疑惑に駆られた。しかし首を振る。まさか、そんなはずはないのだ、と。先日の間宮とは逆に、今度は自分が、相手の知らない情報を自ら口にしてしまってはいけないのだと言い聞かせる。今ではどの店に立ち寄ろうとも、姉との一言一言の会話であっても、全て皆が、有紗の死を知っているのにあえて知らないふりをしているようにさえ思えるのだ。
ポケットに両手を差し入れた間宮は、うつむき加減で自嘲するように笑っていた。
「まぁ俺じゃ信用無いかもしれないけどな」
だが、そんな声音と彼の姿に、務は唾液を飲み下し頭を振る。
「違う、そうじゃない。ただ――……僕、そんなに酷い顔してるかな」
「してる。目も赤い」
「寝てないからだって……うん。でも、嬉しいよ、本当。有難う。だけどね、本当になんでもないんだ」
そう応えた瞬間、握ったままだった有紗の携帯が震えるのを実感した。
丁度その時、三時間目の終了を告げるチャイムが鳴る。
「そっか。じゃあ無理はすんなよ」
響いた音に、間宮が軽い調子で述べ、立ち上がる。
「四時間目どうする?」
「僕はいいや」
メールの返信があるからとは続けずに、務もまた立ち上がった。
「今日は部室の様子を見に来たんだ」
「明菜がお前が来ないの気にしてるから、ちょっとくらい教室にも顔出せよ」
「前沢さんが? 何、また志望校落ちたの?」
何故なのか自分と同じ大学を多く受けている同級生の顔を思いだし、務は嘆息した。最近顔を見ると思えば、自分の元までやってきて、受験のコツを聴いていく。
「いや、滑り止め受かってるらしいけど、お前と同じ大学いきたいみたいだな。務の本命は俺も知らないけど」
「まだ決めてないんだよね」
「大学じゃない方の本命は?」
「さび吉かな」
「お前の家の猫だっけ? せめて妹にしとけば? 明菜も猫に負けるよりは未だ人間の方が気が楽だろ」
「猫のかわいさと有紗のがさつさを知らないからそういうことが言えるんだろうね。大体いくら何でも前沢さんに悪いよ、そんな噂たてちゃさ」
「務って本当に鈍いよな。知ってたけど。じゃ、俺行くわ」
手を振り見送ってから、再び務は座り込んだ。
久しぶりに、面と向かってした下くだらない話題は、幾分か気を休めてくれたようにも思えた。下らない話題自体は、妹の携帯越しに、数え切れないほどしているのだけれど。
気を取り直して、先ほど間宮と一緒だった時に受信した、新着のメールに視線を落とす。
――4時に、臨海公園の第2建設現場MIOの一人と話すけど来られる? カルミネイトは不干渉らしいよ。
そんな原文で、送信者は「(無し)」。どうやら名前が登録されていないらしい。ここの所頻繁にやりとりをしている相手で、有紗自体とも少し前から急にやりとりが増加した相手であるらしかった。有紗相手のメールでは大半が、時刻と場所の記載のみだったが、自分とメールのやりとりをしている限りでは、体調のことばかり気遣っているようだった。
立ち上がり、務は行ってみようと決意した。
非常階段を駆け下り、生徒玄関を経由して、校門へ向かう。三階の窓際で、授業を受ける間宮の姿を一別した。この学校は、一時間半4時間制だから、4時の時点では、まだ間宮は授業中のはずだ。来ないとは思うのだけれど、姿を見られたらまずいのだとそこで思い至る。どうしたものかと考えて、ひとまず帰宅することにした。
鍵を開け、自室に荷物を投げ置いて椅子をひく。
まだ1時間以上ある。
三十分は移動時間としても、変装するには十分な時間だった。
そんなことを考えながら、有紗の部屋へと向かう。
そして扉を開け放ち息を飲んだ。
自分は、こんな事をしている場合なのだろうか?
悪臭が鼻につく。
変色してきた妹の額を眺め、慌てて布団をかけ直す。
見えなくなった妹の姿に僅かに安堵してから、頭を振ってクローゼットに手を伸ばした。
やはり、見に行こうと務は決意する。
あるいは少しの間であっても良いから、有紗のことを忘れていたいと思ったのかもしれない。彼は妹が時折かぶって遊んでいた、長い毛先が緩く巻かれた金色のウィッグと、白いニット帽を手に取りまず床に投げた。それから机上の派手なサングラスに目を落とす。これらの存在を思い出したから、変装をすぐに実行しようという気になったというのもある。普段髪が肩程までしか無く、そこまで明るい色をしているわけでもない妹の外見が、驚く程良く変わったことを思い出す。
問題は服だった。流石に入らないだろうと、恐る恐る妹のスカートを手に取ってみる。しかし寧ろ緩いようで、務は複雑な気分になりながら、まさか上は無理だろうと適当なインナーを探った。
十分後には、体のラインを隠す緩めの装いの、少女の服を纏った務がそこにいた。ウィッグと帽子、サングラスを着用し、自分と身長が変わらなかった妹によく似た姿を鏡越しに目にすると、不意に嘔吐感が募ってくる。異臭がまとわりついている気がしてならない。適当に香水と思しき瓶の中身を振りかけてから、そういえばと、妹がスカートの下にはいつも黒のレギンスをはいていたのではなかったかと思いつく。クローゼットからそれも見つけ出し、務は階下に降りた。
エントランスで、妹のブーツを履こうとして、流石にそれは履けなかった事に、逆に安堵しそうになって、そしてそうしてまた動揺した。
慌てて姉の部屋へと向かい、箱の中にしまってあったブーツの一つを選び出す。
扉から室内飼いのさび吉が飛び出していったが、そんなことは些細なことだと務は思った。有紗が近年軽く猫アレルギーの気があった為、このような処置をとっていたのだが、今では滅多にさび吉は二階に近寄らなくなっていた。二階はどうやら有紗の陣地だと理解しているようで、さび吉は行ってはならないのだと思っているようだった。
無事に姉のブーツを掃き終えて、務はエントランスから外へと出た。有紗の携帯で時刻を確認すると、あと三十分程時間が残っていた。これならば早めに臨海公園へとつけそうだ。
そんな事を考えながら務は駅へと向かった。
二駅離れた場所にある臨海公園へは、空を走るモノレールで向かう。
ゴルフ場が遠くの山の麓に見え、それから直ぐに、第一臨海公園の巨大な石級のオブジェが視界に入る。
丁度日が水平線に口づけしたところで、淡い橙色が、水面を金色に彩っていた。
指定された場所の付近に近づいたところで、剥き出しの鉄骨の陰に身を隠し、務は嘆息する。車のエンジン音が聞こえたからだった。
人気はまるで無く、この状況では変装などしていなくても、誰かに見かけられたら声を掛けられそうだと恐怖に駆られる。
しかしその焦燥感の方が、妹の遺体と共にいる時の畏怖よりも、余程心地良い。
一台目は、白い体躯に、青い文字でMIOと書いてある乗用車で、後続の二台は、深緑色の重量車だった。
息を殺していると、扉の開く気配がした。
地を踏むハイヒールの音が響く。
「良いな? 絶対に発砲してはいけない。何せ太母の身体には大量のマグネエルライト結晶が存在するんだ。この街を第2の蓬にするような事はあってはならない」
厳しい調子の女性の声だった。
どうしようもない違和を感じて、静かに務は声の側を一瞥する。
音を立てぬように唾液を嚥下したというのに、妙にそれが耳に触って、鼓動のざわめきすら忌々しく思った。そこには髪を上でまとめ、軍服じみたMIOの制服を纏う、姉の姿があった。いつもの柔和な表情とも、言葉遣いとも、似てもにつかない姿だ。
コンタクトをして出かけていったはずなのに、縁のない眼鏡を掛けていたように思えた。
「何としても捕縛するのだ。見目に惑わされるな。永瀬由海はヒトではない」
姉の口から迸る、ここ数日で知った単語や、人名。けれどそれらよりも、創り物めいた険しい口調に、思わず吹き出しそうになる。全てが冗談に思えてきた。何なのだろう、これは。どんな喜劇だ。
「っ」そう思った瞬間、口元を背後から手で覆われて身を固くする。
――静かに、とささやかれて、視線だけで振り返ると、そこには何度かみかけたことのある少女の姿があった。
「良かったアリちゃん、元気そうで。ものすっごい心配してたんだよ」
確か、間宮の妹だ。慌てて頷こうとした瞬間、そのまま背後から両方の胸を触られた。まずいだろう、これは流石にばれるだろうと息を飲む。
「何? やっぱりご飯食べられなかった系? 元から無い胸がちょっと痩せちゃったみたいだよ」
思わず妹の貧しい胸を哀れに思った。だがそんな思いはすぐにかき消される。
「誰だ?」険しい姉の声が響いてきたからだ。
間宮日和は頭が悪いのだろうか。思わず睨め付ける。
「あー、気づかれちゃった」笑み混じりに呟きながら、日和が何かスイッチのようなものを取り出し、押下した。
瞬間、頭上で爆発音がし、クレーン車のワイヤーに固定されていた鉄骨が振ってくる。
避難を命じる姉の声が響いた。
少し垂れ目のあどけない背後の顔に、急に怖気が走る。彼女はさも平然と、とんでもないことをしている。
「何処にいる出てこい」そんな怒声と共に、今度は弾丸の音がいくつもいくつも谺した。
声混じりに息を飲んだ所で、日和に腕をつかまれ、角を曲がって別の鉄骨の後ろ、巨大な木箱の陰にしゃがみ込む。
「本当に痩せたみたいだね? なんか固い。ちゃんと食べた方が良いよ?」
声を出してはいけないからと何度も何度も頷いて応える。
「それになんか動きも鈍いし。あ、もしかして貧血とか?」
悠長にこんな話をしている場合ではないと考えながらも頷いて、背後を一瞥する。右手の開けた場所に、姉と、先ほどより数の減った作業着姿の男達の姿が見えた。
まずは無事だったことに安堵した、その時だった。
不意に地面が揺れ、小石が跳ねる。途端、空間自体が揺れているような錯覚に襲われた。夕闇につつまれ始めた臨海公園の建設現場自体が、振動している感覚。しかし地震とは違うのだと直感的に理解したのは、耳を劈く不協和音が次第に高まっていったからだった。
視界が揺れ、頭が重い。重音と高音が幾重にも混ざり合い、思わず耳を塞ぐ。目も閉じようとして、その直前に、宙に浮かぶ少女を見た。仁王立ちするような姿勢で、ただ口を開けていた。しかし少女は空になど浮かないはずで、その口から緑色の光など放っているわけもないのだから、あれは少女と呼ぶには別の存在なのかもしれないと漠然と理解し、改めつむった目のもたらした心地の良い闇のさなか、その少女の姿をした生き物は、永瀬ではなかったのかと考える。
音が止んだ頃には、既に日が姿を消す直前だった。
最後の光が、開けた地面を蜜柑色に染め尽くす。
そこへ頽れた人々の陰がいくつか落ちていた。
姉はどうなったのだろうかと視線を向けると、蹲り呻いている姿が見て取れた。
その正面へと降り立った永瀬は、制服姿のまま嘆息していた。
今日は学校へは行っていなかったのだろうかと、教室に顔を出さなかったことを悔やむ。
「ヘッドセット持ってきてないとか、どうしたの、本当。まぁいいや。具合悪いんならアリちゃんは此処にいて」
そう告げられ視線を上げれば、元気な調子で、日和が駆けていく所だった。その手には機関銃が握られており、視線を地面に落とすと、そこには先ほどまで彼女が携えていたスポーツバッグが開いたままの状態で置いてあった。
見れば、入ってきた方とは逆側の木箱の端と、近接する巨大な鉄筋の合間から、日和が銃を構えている。これではいけない、そう思い立ち上がった務の元に、姉の掠れた声が響いてきた。
「馬鹿が。私は囮だ」
箱の向こうを素早く一瞥すると、沙希香が何とか立ち上がろうとしていて、背後にあった二台のトラックの側面についていた扉が開いた所だった。軋んだ音と同時に、濃い緑色の何かが発射される。
「それはマグネエルライトから紡いだ繊維で出来ている。逃げられまい」
それが何やら網のようだと務が認識したところで、永瀬の冷静な声が辺りに響いた。
「奇遇ね。私もそう」
その言葉に息を飲み、日和を見れば、まさに引き金を引こうとしていたものだから、思わず務は駆け寄った。
「卑怯だよねぇ、ただ話をするだけだし、一人で来るとか言ってたくせにさ。ごめんねぇ、お姉ちゃんのこと悪く言って。でも、本当、無いよねぇ」
こちらを気にする様子もなくレンズを覗いている日和。
引き金が限界まで――……。
彼女のその小さな身体を思いっきり務は突き飛ばした。
「え?」驚いたような、そんな声が聞こえた気がした。しかし直後に、宙めがけて散発した銃声が、全てをかき消す。
姉の方を一瞥すれば、幸い何もなかった様子で、思わず安堵した瞬間、何か暖かいものが頬に吹きかかった事に気がついた。
何だろうと思い頬をぬぐうと、それは焦げ茶色をしていた。
今の銃発で、どこかから錆ついた水でも漏れ出したのか。
そう考えながら、不意に我に返り、これでは自分の身が危ないのではないかと、恐る恐る日和を見た。そのはずだった。
「え?」今度は務が間の抜けた声を出す番だった。水源が、目的とした人物だったものだから。彼女の目は見開かれ、口はただ酸素を求めて開閉を繰り返している。どこかで、よく似た表情を見たことがあるように務は思った。ああそうだ、有紗の表情に似ている。いや、そんなはずはないのだ。だって妹は死んでいたが、日和は――……。そこで務は気がついた。彼女の胸の合間から、伸びている細長いパイプの存在に。どうやら鉄骨から伸びていたらしく、断面が、何かで切断された後であるように鋭利な遮断面を見せていた。その穴から茶色い水が吹き出ていて、腹部の側面ではじわりじわりと暗い紅が広がっている。
「有紗」気づけば、姉がこちらへ駆けてこようとしていた。
しかし途中で、短く鋭い銃声が聞こえるのと同時に、姉の身体は地に落ちる。
そのまま、横の脇腹の衣服がやぶれ、血液が流れ始めるのを見て取った。
角度を見て取り、反射的に視線を上げると、向かいにある建設中の建造物の割れた窓の向こうに、光る銃口が見て取れた。日和の持っているものとよく似ていると思った瞬間、彼女の持っていた銃が地に落ちた。その思いの外大きくたった音に、ただ務は頭を振り唇を噛む。殺してしまった、殺してしまった? いやそんなまさか、と、渦巻く思考が、言葉が、現実を否定する。それは、あってはならないことだった。何せ彼女は妹の友人だ。そして彼女は、間宮の大切にしている妹ではないか。
二発目の銃声が聞こえ、姉のことを思い出す。
姉はポツポツと血の筋をつくりながらも少しずつこちらへ前進しようとしているようだった。慌てて身を乗り出し、駆け寄ろうとして務は目を見開いた。
正面で、良く見知っているけれど最近会っていなかった父親が、車から降りてくる。永瀬を捉えた網に近寄ろうとしていたからだ。いつも優しい父親だ。なのに、姉に見向きもしようとしていない。こちらへ気づいた様子すらなかった。
その手には、硝子張りの円筒が握られており、中ではマグネエルライトが淡い緑色の光を放っている。
「父さ……何を」
沙希香もまたその気配に気づいたようで、掠れた声で首を上げていた。
「計画が変わったんだよ沙希香。これが終わったらすぐに手当をしてあげよう。大丈夫だ、急所は外れているようだからね。輸血さえすれば、大事には至らない」
呟くような父親の声が聞こえてくる。
姉を気遣ってはいるのだと安堵しながら、見守っていると、父はその皺が増えた手を永瀬の左肩に置き、慈愛に満ちたような顔で微笑んでいた。
「我々人類は、貴方に本当に感謝をしている。我々に進化の道筋と文明の光をもたらしてくれた太母にね。けれど、貴方の役目はもう終わったのだ。ゆっくり休んで下さい」
父親の手が、円筒を永瀬の背に押しつけるところを、務はただ見ていた。
「私は囮だと先ほども言ったでしょう? 結晶の本体を私は今持っていない」
「いや、違うんだよ。本体は、それ単独では力を発揮できないのだからね。私が欲しかったの始めから、貴方の身と融合している断片の方なんだ」
その声音と同時に押しつけられた円筒の中へと、緑色の光が満ち始めた。まばゆいその発光が、一時夕闇を打ち消す。目を覆いそうになり顔を背けようとした時、務は向かいの上階によく知る顔を見つけた気がして息が詰まった。見てはいけないはずの顔だった。そこには憤怒を宿した瞳でこちらを見下ろしている間宮の姿があった気がした。目があったように思う。見られた。最愛の妹を、故意にではないといえ、手に掛けたその瞬間を。
光が潰え、元の薄闇に周囲が支配された頃、ぐったりとした様子の永瀬の身体を屈んで父親が横たえているのを確認した。
それから彼は、静かに沙希香の元へと歩み寄り、微笑を浮かべる。
「さぁ、避難をしよう。すぐにこの街はなくなってしまうのだから」
「どういう事? これじゃあ軸が。それに断片て」
「本体は時期に消えるよ、この街と一緒にね。生身の宿主無しでは、断片がない以上結晶化など出来ないはずだからね」
「待って。だって、本体を宿しているのは有紗だけって……務は? 務はどうするの? あの子は、断片しか」
「ああ。最悪の場合、あの子の断片を有紗に使おうかと思っていたんだが。有紗だけは守らなければならないからね。母さんのための大切な身体なのだから」
「何て事を。務は、務だって」
「務は良いんだよ。必要ないんだ。私の身体なんて、また後でいくらでも作る事ができる」
「違う、父さんの身体なんかじゃ、あの子は」
目の前で繰り広げられている会話が何のことなのか全く分からなかった。分かりたいとも思わなかった。ただいつもの調子に戻った姉の口調にだけ、現実感を覚える。
呆然と走り出そうとしていた身体を正すと、足下がふらついて横の鉄骨にぶつかった。その軋んだ音に、驚いた様子で、父親が振り返る。
「有紗」その驚愕したような嗄れた声とほぼ同時に、向かいの建物で何かが光った。視界を赤い光が過ぎった気がして目を伏せる。正面から重みを感じたのと、銃声が耳についたのはほぼ同時のことだった。
見れば先ほど自分のことを、必要ないと笑った父が、正面から覆い被さっていた。その重い肩から血が滴り始める。
「何で此処にいるんだ……全く、馬鹿な子だな。母さんには似ていない」
「あ、な」
「え? 何だい? 砂月さんなのかい? そうか、良かった、嗚呼、有紗にこれを、さぁ早く。君の身体だ、君の。嗚呼、私の記憶装置を務で――……」
馬鹿な父親だと思った。実の息子を、実の娘と間違え、実の配偶者と間違え、それでなにを気取っているのだろうか、と。そう感じるはずなのに、大好きな父親との数多の思い出が過ぎり、母が亡くなったあの日からの沢山の光景が過ぎる。
ただ差し出された円筒を受け取った時、二発目の銃弾が、父親の向かって右側の顔面を砕いた。飛び散ってきた眼球が頬にあたり、思わず嗚咽する。記憶装置を。その単語だけが頭を過ぎり、慌てて父の頭だったものの左側面から補聴器に似た形の装置を外した。
「有紗、逃げて」
妹だと信じ切っている姉の声が響く。
もう駄目だ。そう思考したのを最後に、務は何も思い出せなくなった。
高い耳鳴りする。何も聞こえなくなった。走り出す。様々な世界の姿が、闇と交互に映ったのだけれど、どれが現実の世界で、どれが記憶の中の光景なのかも分からないまま、ただ務は走り続けた。