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どこをどう走ったのかはもう覚えていなかったが、気づいた時には、自分の家のエントランスにいた。ブーツを脱ぎ捨て、務は何も考えられず引きつった表情のまま階段を上った。血塗れの円筒と記憶装置が入った横掛け鞄をソファに置き、身体を引きずるようにして有紗の部屋へと向かう。
見ると僅かに部屋の扉が開いていた。
そういえば通路の扉も少しばかり開いていたことを思い出し、怪訝に思う。瞬間、まさか、と思い息を飲んだ。
慌てて有紗の部屋へと入ると、そこでは何か白いものを口にくわえ引きずっている大きな雄猫の姿があった。さび吉だ。白と黒の斑模様、いつもは愛らしく感じるその瞳。
それが今はどう猛な肉食獣のものにも、こちらを内心見下し笑う道化師のものにも感じられ、慌てて走り寄った。
「止めろ、駄目だ」
すると猫の口から、右腕と思しき本体が、鈍い音を立てて床へと転がった。
しかし、人差し指の肉は既にそげ、中指は骨毎紛失している。見れば心外だと言った調子のさび吉の口から、腐りかけの指の端が覗いていた。
「止めろ、止めろって、止めろ、止めてくれ」
気づけば叫び泣き、手を伸ばしていた。だが制止も虚しく、さび吉は馬鹿にするような調子で通り過ぎ、部屋の外へと出て行った。
嗚咽混じりに、務は帽子とウィッグを床へと投げ捨て、上着を放り投げる。血に濡れ、べちゃべちゃしていた。ぐちゃぐちゃだ。嗚呼、何て気持ちが悪いのだろう、体中がイチゴジャムのような甘い香りにつつまれているのは香水を掛けたせいだろうが、この感触はまず間違いなく血液のぬめりだ。誰のものかは知らないけれど。ああ、日和のものか、父親のものなのか。どちらでも構わないと思った。思ったけれど、有紗の手は、このままにしてはおけないとも思った。服を脱ぎ捨て、自室へ戻り適当に見繕う。
急いで階下へ降りると、さび吉が、今にも開けたままだったエントランスから外へ出ようとしているところだった。まさか玄関さえ閉め忘れたのだろうか自分は。鍵を掛けた覚えはなかったが、扉までとは思い出せなかった。何も思い出せない、どうでも良かった、しかし、有紗の手は何としても取り返さなければならない。
務は涙を拭って走り出す。
だが、その追いかけっこはすぐに終わった。
角を曲がった所の旧道で、道を横切ろうとしていたさび吉の首を、乗用車が踏んだのだ。
鈍い音が、ゴキリと響く。
呆気にとられ口を開いたままで、次に務が愛猫の姿をとえらた時は、そのしなやかな二つの後ろ足だけで横向きに、巨大な体躯が跳ねているのを見た時だった。首と前足は動かないようで、その度に何度も何度も路地上に叩き付けられている。
助けなければ。
確かにそう思ったのだ。けれど竦んだ足が動かない。
見開かれたその目が、何かに似ていると感じた。
嗚呼、つい先ほども似た光景を見た。
そうだ日和に、嫌、有紗の目に似ているのだ。
もう見たくない。自覚した途端に恐怖に駆られ顔を伏せる。
すると白色の対向車が過ぎるのを視界の端が捉えた。今度響いてきた音は、グチャリとした粘着質で水音混じりのものだった。
何か、白いものが飛び散ってくる。ああ、見覚えのある緑色の瞳だ。ついで、灰桃色の固まりが頬に付着した。反射的にぬぐい去る。先ほどの父親の顔を思い出す。
なんだこれは。なんなのだこれは。なんだというのだ一体。
叫び出したい心地に駆られ、けれどこらえて、おずおずと肉塊へと歩み寄る。
死してなお、残った口は、有紗の指をくわえたままだった。
上着を脱ぎ、遺体ごとそれを刳るんで抱き上げる。
それからどうやって歩いたのかは分からなかったが、気づくと務は近隣の公園にいた。人気はない。ベンチの脇にはえた杉の側へと歩み寄り、上着に来るんだものを置く。
本当は保健所へ連絡すべきなのだろうと思った。
いや、動物病院が先だったはずだ。
有紗の時と同じだ。
自分はただ見ているだけしかしなかった。見殺しにした。
初めは手で土を掘り、続いて木の枝で、それから石で、次第に無心になりながら務は穴を掘った。ただ無我夢中で。
「あれ、神野くん?」
唐突に名を呼ばれ、務は我に返って身を固くした。気づけば涙も鼻水も乾いているようで、まだ頭は霞がかっていたが、どこかすっきりした気分にさえなっていた。
反射的に笑顔を取り繕いながら、務は振り返る。
「ああ、前原さん。今、帰り?」
「うん。え、どうしたの? 何してるの?」
「ちょっとね……うちの猫がさ、轢かれちゃったんだ、今」
「え」務のその声に、慌てたように前原明菜が瞬いてから、掌で口元を覆った。
「こんな所に埋めたらいけないって分かってるんだけど……さび吉、ああ、僕の猫がさ、よくこの公園に来ていたみたいだったから。せめて好きな場所に眠らせてあげたくて」
思ってもいないことがよく言えるものだと、務は自分自身を内心嘲笑った。
「そうなんだ……ごめん」
「前原さんが謝る事なんて何もないよ」
二つに結った髪が揺れるのを眺める。
「その、私」何も関係のない彼女の両眼から、水滴が流れ始める。「手伝っても、その、良い?」
「……有難う」断っても不自然だろうと、作り笑いのまま応える。
園芸店の帰りだという前原は、小さなシャベルを持っていた。
二人で暫く無言のまま掘り進めていると、気まずそうな相手の気配を務は察した。
「そうだ、今日は間宮、ちゃんと授業全部出てた?」
「あー、なんだか3時間目はいなくてね」
ほっとした様子の彼女を一瞥して頷く。別に含みがあったわけではなかったが、四時間目の始めに、窓越しに間宮の姿を見たことを確かに思い出した。先ほど見たように思った彼の姿が、見間違いであってくれれば良いと祈る。
「四時間目は途中までいたんだけど、なんだか由海ちゃんがお腹痛くなっちゃったらしくて、付き合って保健室行ったみたい。その後は戻ってきてないよ」
「へぇ、そうなんだ」
「あの二人、本当に仲良くて羨ましいよね。そうだ、あ、その、神野くんは、その、だから、好きな人とか、その」
「……さび吉かな」
「え? 女の子だったの? って違、そうじゃなくて、その、あのだから、でもいや、ごめん。今、こんな話題してる場合じゃ……それに私、私じゃそんな資格もう、ごめん、本当なんでもない、なんでもないから」
資格というならば、人に愛される資格など自分にはないだろうと務は感じて怖くなった。
ある程度の広さになった穴へと、上着ごと遺骸を置く。
この現状ではと、指の回収はあきらめた。
もはや有紗のあの手の状態では、指の有無など大した問題ではないはずだ。
「今日は、有難うね前原さん」
埋葬を終え、立ち上がり砂を払う。
「ううん。その、本当にごめんね」
「何が? 逆だよ。とっても助かった。本当に有難う」
「うん……明日は学校に来る?」
「どうかな」
「ねぇ、そうだ。この後、その、ゴハンとか」
「ごめん。妹が今新型なんだ」
「あ、そうだっけ、ごめん……じゃあ、その明日。話があるんだけど、聴いてもらって良い?」
「何?」
「今は、その、整理つかなくて……だから、ごめん。でもあのね、あとその、泣きたい時は泣いた方が良いと思うよ」
「え? 僕泣きそう?」
「うん。すごく辛そうだよ。私で良かったら聴くから。なんでも話してね」
「有難う。じゃあ明日、学校で」
務その言葉に、前原の表情が幾ばくか明るいものへと変わる。
あまり興味が抱けなかったものの、務は作り笑いのまま頷いて、岐路へとついた。
嗚呼、姉が戻る前に、有紗の部屋をどうにかしなければならない。
戻るか否かも分からないとはいえ等と考えながら。
そう思いながら、先ほど投げ捨てた分のブーツも回収し、何事もなかったように務は整えた。有紗の部屋へと戻り、ばらばらになった腕をかき集め、布団へと歩み寄る。腐臭には、もう鼻が麻痺してしまったようだった。
布団の下へ戻そうと、先に腕毎潜らせる。
瞬間蠢く何かに指先が触れた。
途端に身体に震えが走り、自身の歯の鳴る音が耳をも麻痺させる。
気づけば体ごと後ろに飛び退いていた。
恐る恐る掛け布団を剥ぐと、暗闇でもはっきりと分かる、白く太った蛆虫が、無数に有紗のはだけた腹部から顔を覗かせていた。瞬間、耳元を羽音が掠める。目で追えば、黒い小さな羽虫が数匹室内を住処にしているようだった。吐き気がした。
ああ、これはもう――……
そう思った時、階下で扉の軋む音が響いた。
「務」
自分の名を呼ぶ声が聞こえる。
慌てて鼻水を啜り、何度も何度も涙を拭い、彼は部屋の外へと出て、きつく扉を閉めた。
通路の扉もきつく閉め、鏡で再度涙が出ていないのを確認してから、階下へ降りる。
「沙希香」
すると、玄関には姉が倒れ込んでいた。
「沙希香、何これ、どうしたの? 今救急車」
自分の動揺した声が、妙に作り物じみて聞こえ、務は頭を振る。
「姉さんて呼べって言ってるでしょう。待って、良いから」
横たわったままの姉は、立ち上がろうとした務の腕を掴んで引き留め、静かに笑った。
「有紗は? 帰ってる?」
「いつもの通り部屋にいるけど。そんなことより、こんな時くらい自分の心配――」
「良いの、私は良いの。有紗は? 有紗は無事? 元気?」
「うん、元気だよ。さっきもお腹すいたって騒いでた。だから姉さん、早く夕食にしないといけないよ、だから、その……」
「これを……これがあれば、務も大丈夫だから」
「何、これ。それよりさ……」
「マグネエルライトの結晶……これは本体だけだけど……私が母さんからもらったの。私と母さんの形見みたいなものだと思って……っ」
「姉さん、何言っ」
「早く、それを持って避難して。もうすぐここは、蓬の大陸と同じ事になるの」
「え? でもこの街に原発なんて」
「良いから……良いから。誰にも言っては駄目。それからこれ……地下にシェルターがあるから。そこに、早く。いまから32時間後に、この街は……」
「うん」それが最後の沙希香の言葉だったのだけれど、務は笑顔を浮かべたまま、続きを待った。
「うん」何度も何度も一人相づちを打つ。
「うん」握っていた姉の手が、次第に冷たくなってきても、そのまま笑い続けた。
「うん」堅さが増してきた手の重みに、腕がしびれてくる。
「うん」それでも笑っていた務が、唐突に手を振り払ったのは、その冷たさが、有紗のいつかの首筋と同じ温度だと気がついた時のことだった。すぐには取れず、何度も何度も振り払い、漸く外れた姉の腕は、鈍い音を立てて床に激突した。
気づけば務は笑み混じりに吐息していて、その瞬間塩辛い水が口の中へと忍び込んでくる。
何が現実なのかもう理解も出来なくなり始めていた。
こんな事、現実であって良いはずなど無かった。
自分は、なにを、どうすれば良かったのだろう。
笑ったまま、泣いたまま、混乱し、許容をとっくに越えた胸の内を抱え、ただ務は姉の身体をリビングの床まで引きずっておいた。
それから台所へと向かい、殺虫剤の缶を手に取る。
有紗の部屋をどうにかしなければ。
ただ一つ理解できる現実的な事柄は、虫の除去だった。
上階で通路の扉を静かに開けた時、一匹の虫が静かに舞い出て行くのが見えたが気にしない。それよりも、点けた覚えのない有紗の部屋の灯りが、暗い通路に漏れていることが気に障った。
「お前毎日、姉貴に嘘をついていたのか? ああやって今みたいに」
冷房とは違う、澄んだ空気が部屋をつつんでいた。開け放たれた扉からは、数羽の羽虫が出たり入ったりしているようだった。
妹の机の上でたたずんでいる間宮が、こちらを複雑そうな表情で眺めていることに、務は数分たって漸く気がついた。声は初めから聞こえていたのだけれど、それが言葉であることが暫しの間理解できなかった。
「嘘? 何が?」
「有紗はどうしたんだよ? さっき俺の妹を殺したのは」
次に気づいた瞬間、後頭部に鈍い、けれど激しい感覚がした。入り口のすぐ脇の壁に叩き付けられ、首元を持ち上げられているのだと把握した時には、間宮の険しい顔が正面にあった。
「ああああそういう事か。そこにあるので変装してたわけか。お前に女装の趣味があったとはなぁ」
息が苦しくなってきて、酸素を求めて唇が勝手に開く。
「どういう事だよこれは。復讐か? ああそうだな、これでお前も俺と同じ人殺しだ」
「ヒトゴロシ……?」
それがどういう意味なのか分からなくなった。気づけば頬が奇妙に引きつっていくことを務は実感する。
「お前……何笑って……」
「笑って……? 誰が……?」
涙がこみ上げてくるのは分かったが、楽しい気持ちなんて微塵もないというのに、笑っていると言われたことが心外だった。
「務?」
「ねぇ間宮、話したら楽になる? 何が? 本当? ねぇ、ねぇ? なんでここにいるの? ここ二階だよ。それと同じ事だよ。窓が開いてたって普通は入れないのと一緒。有紗が死ぬわけ無いだろ? 死ぬなんてそんな馬鹿なことがあるわけがないんだ。大体、姉さんだってそうだ。死ぬわけ無いだろ。妹が死んだ? 君も何を言ってるんだよ。日和ちゃんが死んだ? 死ぬわけ無いだろ。さび吉が死んだ? まさか。大体、父さんだってさ、そもそも母さんだってさ。あり得ないよ。あるわけないよ」
気がつけば、確かに自分自身が笑っていることを、務は実感した。
「夢だよ、きっとそうだよ夢だよ、こんなの全部夢なんだ。現実であるはずが無いじゃないか。あって良いはずが無いじゃないか。夢だ、夢に決まってる、夜のじゃなくても良い、白昼夢とか、そういうので全然良いんだ。幻覚でも良いから、だから、止めてくれよ、もう、おかしな事は言わないでくれ、何も聴きたくないんだ。嗚呼、もう無理だ嫌だ助けて、助けてよ、僕が一体何をしたって、嫌違う、これは」
まくし立てた務は、一気に間宮の手がゆるんだ瞬間床へと頽れた。
「夢じゃないなら……」
もう涙でゆがんだ視界には、何も入ってこなかった。
「もう殺してくれ、僕のことも」
「務、お前」
「恨んでるだろ? あんなにお前、大切にして……」
「……ああそうだな……これは、夢だ。もういいから務。全部、夢なんだ」
そんな間宮の声が聞こえた気がした。本当だろうかと顔を上げた瞬間、間宮の隣で微笑む母親の姿を見たように思った。
「そう、務。貴方は何も悪くなんて無いの。貴方は私の誇りだから。何も心配することも悩むこともないの。一人で頑張って偉かったわね」
そうだその通りだ、姉さんのことも、最後まで悲しませ……悲しませ……
思考が途切れる。母親に抱きしめられた心地と、ゆっくりと自身の身体が床に置かれたことを実感する。柔らかい。ああ、だから自分は固い固いと言われたのだろうと、女性特有の柔和な暖かさに頬がゆるむ。久しぶりに優しい涙が眦から溢れたことを実感し、務はそのまま意識を失った。