7
翌日、ただ宛もなく務は学校の屋上を訪れた。別に前原との約束があったから学校へ来たわけではない。
これからどうすれば良いのか、何も考えられなくなったからだった。
いや何も考えたくなかったからなのかもしれない。
灰色の分厚い雲に覆われた街を眺めていると、自分もまた歯車の一部なのだと実感できるから、心地良いのだった。
他にも理由はある。
確かめに来たのかもしれなかった。
今朝、目を覚ますと、いつも通りに務は自分のベッドに横になっていた。
雲に遮られ半減している日の光に、慌てて飛び起きるも、辺りは無音につつまれていて特に変化もなく。
恐る恐る妹の部屋へと向かえば、そこは相変わらず窓がきつく閉じられた状態で、相変わらず妹の腐敗は進行し、ただ昨日よりも確実に虫が数を増していた。殺虫剤の缶も見あたらず、息を飲んで扉を閉め、踵を返す。
本当に夢だったというのだろうかと小首を傾げ、では一体どこから何処までが夢だったのかと怖くなって階下へ降りた。
姉の遺体も何処にも見あたらず、呆然と辺りを見回す内に、台所の戸棚に、昨日手に取ったはずの殺虫剤が置いてあるのを見つける。ダイニングテーブルには、ラップをした状態のお粥と朝食があり、姉のものと思しき筆跡で、先に出ますという書き置きがあった。
慌てて部屋へと戻り携帯電話を確認すれば、そこには姉の携帯電話から、先に出る旨のメールも確かに来ていた。早く出る時、姉はいつもこうしている。そう、母さんと同じように。そこまで考えて、本当に怖くなった。
昨日は死んだ母さんが、部屋にいたように思った。
そんなことがあるはずもないではないか。
どころか間宮が部屋にいたように思った。
そもそも間宮が問題だ。
この一連の出来事が夢で、やはり有紗の件だけが現実だとするならば、自分は気が狂ってしまったのかもしれない。そう思えば怖くなって、床に座り込んだ。
冷静に考えれば、現実にはあり得ないこと続きなのだ。寧ろ、自分が今まで幻覚を見ていたのではないかと、精神的な病を罹患してしまったのではないのかと、そう考える方が筋が通っている。
ただ、さび吉だけはいないし、有紗もあの様子だから、少なくとも公園での出来事までは夢ではなかったと思う。他にもない物はある。父親の記憶装置と、父親から渡されたマグネエルライトの欠片とやらだ。しかし、ウィッグもサングラスも帽子も見あたらないのだ。確かにこの部屋に投げたはずなのに。
恐怖が募り、居ても立ってもいられなくなった。それもあって務は簡単に身支度を調え、学校へとやってきたのだ。
「何見てるんだよ?」
いつかと同じような声を掛けられ、静かに務は振り返った。
そこには、本当にいつもの通りと言った調子の間宮の顔があった。
「分からない」この問いには初めて返答したような気もする。
「遠くを見てた、とかそういうのか」
「かもね。ねぇ間宮、聴きたいことがあるんだ」
「なんだよ?」
しゃがみ込みフェンスを掴んだまま、彼は務を見上げる。
笑み混じりのその様子が本当にいつも通りで、やはり夢だったのではないかと考えずにはいられない。
「昨日、僕の家に来たよね」
「は? いつ?」
「分からない。夜。多分8時頃かな」
「いや、行ってないけど。昨日は学校終わってすぐにバイト行ったし」
「四時間目全部出たの?」
「おぅ勿論。一回由海の事保健室に送ってったけど、その後戻って最後まで出た」
それは嘘だ。
「それは嘘だろ」
前原明菜が嘘をつく理由など無いのだからと、溜息をつきながら間宮を見下ろす。
「何を根拠に」
「昨日前原さんに会ったんだ」
「何、お前ら進展あったの?」
「そうじゃなくて……その時に、昨日途中でお前と永瀬が早退したって聴いた」
「由海はそうだけどな、俺は何かの間違いじゃないのか? 何なら訊きに行くか? さっき図書館に行くって行ってたから、多分そこだろ」
その言葉に思わず息を飲み時計を見た。嘘ならば、こんな事を間宮が言うとは思わない。今は昼休みだ。確かに彼女は図書館に行っているのかもしれない。それも本当だろう。
「行くか?」
軽い調子で立ち上がった間宮は、肩を竦めると、務が掛けたままだった鞄を引っ張った。
「ちょっと待ってよ」
強引な力に足をもつれさせながら、務は眉間に皺を寄せる。
公園でのことは夢ではないと、そう確かに自信があった。
さび吉がいないのだから、夢と言うことはあり得ない。
けれど、けれどだ。
その頃から夢と現が錯綜していたのだとしたらどうなる?
昨日、間宮が最後まで授業に出ていたとしたらどうなる?
臨海公園の出来事はどうなる?
どこからが夢で、どれが夢で、夢? いや、幻覚か。
では今こうして歩いているのは夢ではないのか?
恐怖と否定が心中で混じり合っている内に、務は腕をひかれるまま、図書館の扉をくぐっていた。
「明菜。何読んでるんだよ?」
朗らかな声で前原に声を掛けた間宮の姿と、彼に向かって書籍の名前を説明している彼女。場違いな程ありがちな光景で、強い違和を感じた。
「あ、神野君。神野君は何読むの? 受験関係?」
「いや……そのさ、昨日公園で……」
「あ、覚えててくれたんだ。良かった。そのね、やっぱり言いづらいから手紙にしてみたんだ、それで、その、はい」
見ていると正面に、白縁に緑色のクローバーが付いた可愛らしい封筒が差し出される。
「うん。あのさ……」
受け取りながら、それよりも聴かなければならないのだと考えて、おずおずと口を開く。
「なぁ明菜。俺昨日最後まで授業に出てたよな?」
「うん。出てたね珍しく」
「ほらな? 偉いだろ俺」
「何当たり前のこと言ってるの。ま、一回由海ちゃんの事送って保健室に行ったけど」
「……前原さん、昨日公園で俺に、こいつが先帰ったって言ってなかったっけ?」
「え?」意を決して訊ねた務の声に、驚いたように彼女は小首を傾げた。「言ってないと思うけど……私そんなこと言った?」
「ホームルームの時、先生に帰りの挨拶したの俺だよな」
「そうだね、私の号令遮って」
「急いでたんだよ、委員長」
そんなやりとりに怖くなって、ふるえが走ったから、指をきつく握って誤魔化した。作り笑いを浮かべる。
「ねぇ前原さん。僕さ、前原さんと会った時何してた?」
「え? その、それは……猫……さび吉くん、あ、ごめん……そのさび吉ちゃんが……白い車に轢かれたって、その」
「僕、白い車なんて言った?」
「え? え? 言って、言ってたよ。さっきから何? どうかしたの?」
口にした覚えはまるでなかったが、何度も奇妙なことを訊ねられ怒ったという風情の前原の顔に、慌てて首を振る。
「ごめん、なんでもないんだ。ただちょっと僕疲れてるみたいで、最近記憶が」
「あるある。お前の場合は、でもまぁ勉強のしすぎなんだろ」
「そうだよ神野君、もう進路も決まってるんだし、ちょっと休んだら?」
「有難う」作り笑いのまま応えて、務はきびすを返した。
前原に手を振り、急いだ様子で隣に追いついてきた間宮が、横で腕を組む。
「これで納得したか?」
「うん。悪かったね、変なこと言って」
「いいって、疲れてるんだろ。お前も体調に気をつけろよ。有紗ちゃんだって未だ休んでるんだろ?」
「うん。そうだね」
「もう大分具合は良いんだろ?」
その声に、間宮日和の事を思い出し唾を飲む。間宮があの場所にいたことすら夢ならば、あるいは彼女の死も夢なのだろうか。あれ以来、妹の携帯を見ていないことを思い出す。
「ああ。もう大丈夫そうだよ。ただもう少しだけ休みたいって言ってるから、どうせ冬休みに補講もあるし、それまでは様子見て休ませてあげようと思って」
「そっか」
「そっちは?」
「へ? 何が?」
「妹。元気?」
「珍しいな、お前が俺に妹のこと聴くなんて。いつもは聴くと長くてうぜぇって言って、こっちから喋っても聴いてないくせに」
「別に。それで?」
「それでって?」
「元気なの?」
「ああ、いつもと変わらず愛くるしい顔だぜ?」
その声に、本当だろうかと気になって、鞄から有紗の携帯を探り出す。着信画面を見れば、何件も何件も間宮日和からのメールが着ていた。全て単文だが、連絡無くメールが途切れたことを心配するものばかりだった。屋上で間宮に今日最初にあった時刻にも、先ほどの図書館でもメールを受信していたようで、どころか開いている現在すら、新着のメールが届いた。流石にこの件数は多すぎはしないか。そう思い、まさか、と間宮を見据えた。自分が妹のふりをしてメールの送受信をしているように、彼もまた日和の携帯電話を操作していると言うことはないのだろうか?
「ねぇ、ちょっと携帯見せて」
「は? なんだよいきなり」
「いいから。ちょっとでいいから」
「お前は俺の彼女か?」
「へぇ、永瀬は間宮の携帯を見るわけだ」
「違う。そうじゃないって、だからあいつは俺の彼女じゃ――……」
間宮がそういいかけた時、不意に、窓の外で何かが光ったような気がして、務は一瞬顔を上げた。
「どうした?」
「え、いや、今何か光らなかった?」
「嘘だろ、おい、来い」
「え? ちょっと――」先ほどと同じように強く腕をひかれ、務はのけぞった。