【1】僕は、ニコが大切だ。
今でも僕は、あの声を鮮明に記憶している。
『貴方は死にたくても死ねません。寿命の老衰でポックリ逝くまでは』
――響いてきた言葉の意味を、当時の僕は、特に感慨深いとも思わずに、静かに耳にしていたように思う。もっとも、七歳前後の『子供』であった僕には、あの一言から己の未来を予測するような想像力が、ただただ欠落していただけなのかもしれない。
それよりも余程、僕にとって色濃い声の記憶は、別にある。
『貴方は二番になる機会に恵まれています。その才能もあります』
直前まで――手を引いていたニコに、魔術樹の女神が言祝いだ瞬間だ。
噴水を遠目に見ながら、その時の僕は、大樹の幹に背を預けて、静かに腕を組んでいたように思う。茶色い髪と目をした幼子が、不思議そうに周囲へ視線を向けるのを、僕は確かに見た。当時は、その瞳のみが、『女王陛下によく似ている』と思える唯一だった気がする。
――あれから、既に十年の歳月が流れている。
最北のアトリエを受け継いだ僕は、そこでニコの『師』となった。
弟子であった時分、僕は師である実の祖父――大司教様を鬱陶しいと思っていた。
しかし師匠業についてみると、初めて分かる苦労も多い。
僕は、僕自身に対する評価として、己の感情が欠落しているとは考えていない。
ただ……ニコを前にすると、無意識に自分の表情が変化する事を知っている。
ニコが大切だ。僕は、弟子として、あるいはそうでなかったとしても、ニコが大切だ。
あるいはそれは、嘗て愛した女性によく似た顔立ちに育ったからなのかもしれない。色彩は、父親似ではあるが――そっくりだ。
理性的にそう判断してはいるが、今、僕の中でニコは、あるいは『弟子』として、一人の別個の大切な存在となっている。愛おしい。果たしてこの感情は、庇護欲なのだろうか?
――朝。
陽光が降り注ぐ度、僕は遮光カーテンの隙間から入ってくる白に、目眩がする。
絵筆を置き、製作中の魔導書を一瞥してから、僕は立ち上がった。
レトロな造りのアトリエの階段を下りていくと、魔術温室には、既に愛弟子の姿がある。僕に気づいて顔を上げたニコは――実物の太陽よりも明るく思える表情で、真っ直ぐに僕を見た。
「師匠、聞いてくれ! 恋人が出来た。ロッテが俺の彼女になった!」
……嬉しそうな弟子の声。
「そう」
僕は、感情を押し殺すべく努めた。
内心では、二つの事を考えていた。
一つ目は――『今度は、何日もつのだろうか?』という、我ながら酷い考えだ。
だが問題は、二つ目である。
僕はニコを女性的だと感じた事は、今の所無い。
寧ろ、僕よりも男らしい外見をしていると、評する人物もいる。
例を挙げるなら、大司教様は、ニコをそう評価していた。
ただ、ニコと女王陛下の顔面の類似を、否定するのは不可能だ。明るい性格、積極性、些細な表情の変化、仕草――ニコは、僕の愛した相手によく似ている。これもまた、揺らがす事の出来ない一つの事実だ。
結果、二つ目の問題が生じる。
片思いしていた相手に、目の前で僕ではない誰かとの恋について、語られている錯覚に陥るというものだ。僕は、ニコをあくまでも弟子として愛しているだけであり、今尚心の中にいるのは、ウニ女王陛下であるのは間違いないと思うのだが――ニコの口から恋の話題が出た時、僕は苦しくなるのを止める事が出来ない。
そんな内心に蓋をする意図も込めて、僕は感情表出を控える。
――ニコが振られたのは、三週間後の事だった。
帰宅した弟子の気配に、僕はニコの自室へと向かう。
扉の前に立ち、僕は深呼吸をした。用件は一つで、アトリエの掃除を頼む事だ。明確にそう理解してはいるのだが、僕は日増しにニコの前で、感情が制御出来なくなりそうで、怖くなっている。
ニコが大切だ。ニコが好きすぎる。ニコの事ばかりを考えている。
……そんな自分が、僕にとっては、『不自然』だった。
ただ一つ分かるのは、この愛情の種類は、”恋”では無いという『事実』だ。
そんな、淡く優しい名前の感情では無い。
僕の全てはニコであるし、ニコのためならば、何でも出来る。
そう考えながら――どこかで、僕は理解もしている。
ニコのために、何でもする自分……これは、実際には、ニコのためを思ってではないのだ。僕は、ニコがいるからこそ、呼吸し、毎日昇る日の光を浴びる事を許されると感じている。つまり――ニコは、僕が生きる理由なのだ。
――ニコを守ると言う仕事があるから、自分は、生きていても良い。
僕は、いつも考える事を、この瞬間も想起しながら、ニコの部屋の扉を閉めた。
即ち、僕がニコを愛しているのは、己のためなのかもしれない。
ニコだけが、僕にこの世界で生きる赦しを与えてくれる存在だと、時に感じる。
「……」
自室へと戻り、僕は扉に手を添えて嘆息した。
利己的に他者を愛する事に、僕は疲弊している。
それでもこの魔術樹の街で、ずっと共に暮らしていきたいと願っているし、離れたいとは思わない。
「なのに、どうして何だろう……」
ニコがいない自室に戻ると、奇妙なほど、僕は落ち着いた。
矛盾を孕む内心の制御法を、僕は知りたいと望んでいる。
「もっと、距離を置いた方が良いのかな……」
それは――紛れもなく、僕自身のために。
そう考えながら作った夕食は、我ながら凡庸な味をしていた。
――紫色の薔薇の蝋燭で封がなされた手紙が届いたのは、それから暫くしての出来事だった。それを見て僕が最初に感じた事は、一つだ。その後は色々と冷静に思考を巡らせたものであるが、大司教宮に向かいながらも、咄嗟に感じたその事柄がずっと僕の脳裏を占めていた。
『ニコと離れる事が出来る』
これは――僕にとっては耐え難い事であるはずなのに、確かにそれを望んでいる僕がいた。僕は、恐らくニコの前では無理をしている。理由は簡単だ。せめてニコの主観的な観点からのみで良いから、綺麗な人間でありたいという願いだ。
本当の僕は、決して清純な人間では無い。僕は、誰よりも良く、その事実を知っている。
こうしてその日、僕は地上へと、久方ぶりに降りた。