【2】僕は、ニコを不安にさせたくない。





 ――僕は、汚く弱い惨めな自分を、決してニコには見せたくない。
 何かを失敗したわけではない。ただ、酷い失態を犯した僕は、間抜けな事に負傷した。

 現在僕は、ローゼンクォーツ女王国の片隅にいる。
 大規模な回復術の術式を展開しながら、襲ってくる痛みにだけは対処した。
 死ぬわけには行かない。死んでしまえば、ニコを守る事が出来なくなる。

「また僕は、言い訳をしながら、生きていくのか」

 気づくとそう呟いていた。
 深い深い森の中にある、木造の狭い小屋。

 避難に備えて、事前に準備をしていたその場所で、木の壁に背を預けて、僕は座り込んだ。床には、魔法陣や十字架、魔導書が散乱している。ニコが見たら、掃除を申し出るに違いない光景だ。

「これはまた、酷い有様だね」

 不意に声が響いたのは、その時の事だった。
 身構えようとした僕は、緩慢に視線を向けながら、それを諦めた。

「僕にとどめを指す依頼を、現在引き受けていますか?」

 意識が朦朧としている現在、本気で来られたら絶命しかねない力量を持つ――友人の声を耳にして、僕は率直に尋ねるだけにした。無駄な抵抗は、死期を早めるだけだ。

「いいや、今はねぇ、多忙な私にしては、至極珍しいプライベートのひと時でね。たまには木漏れ日の中、森を散策するのも悪くないと考えて歩いていたら、不思議な小屋を見つけたから、興味本位で中へと入ってみた所だよ」

 いつもと変わらぬ余裕ある友人――バジル・レッドライムのその声は、僕を苛立たせる事が常ではあるが、今の状況では、奇妙な安堵をもたらした。

「バジルさんは、何故なのか扉を用いず入ったその小屋で、『誰にも遭遇しなかった』――報酬はいくら?」

 淡々と僕は続けた。彼は、情報こそが命だと考えている、とある新聞社の代表取締役である。僕を捜索しているはずのローゼンクォーツ女王国の戦略魔導師達に、この場所の情報を高値で売りつける可能性が、一番高い。

 自分では、手を汚さずに。しかし、それが友人に対してであっても、仕事であれば態度を変えない。それが、僕の知る、バジル・レッドライムという人物だった。

 座り込んだまま、僕は彼を見上げた。
 赤味が混じり込んでいるように見える、琥珀色の瞳を見る。
 目を細めて笑っているバジルさんは、狐色の髪を揺らすと、僕に一歩歩み寄った。

「幸いな事に、私は既に報酬を得ているよ」
「どういう意味ですか?」
「――まるで旧知のラーゼ君の持つ物のように強い魔力を感じて、私は、その相手に好奇心を抱いた。結果的に、その持ち主が何処の誰なのか、既に私は確認済だ。君が逃げるでもなくそこに座ってくれていたおかげで、私は好奇心を満たす事が出来たのだから――それは報酬に値する」

 バジルさんの声を聞いて、僕は片側の目だけを細めた。
 僕には、彼の思考回路が、時に――いいや多くの場合、理解できない。

 それでも友人だと考えるのは、彼もまた強い魔力を持つ魔導師……だから、ではない。その力を駆使して、僕と同じように汚い事柄に、平気で手を染めるからだ。僕は、彼のその部分が好ましい。醜悪な行為をする自分を、見せてもバジルさんは何も言わない。何せ彼は、僕以上に後ろ暗い仕事を多数抱えているはずだからだ。

「だから私は、誰かに問われたならば、こう告げるだろう――『その人物が身元を偽証していたので、私も含めて、逃亡犯だとは気付かなかった』と。これで良いかね?」

 回復術を続けながら、僕は曖昧に頷いた。
 とりあえず、僕には彼を信じるという選択肢しか、今はない。
 疑う事は、後からでも可能だ。それまでに肉体を治癒させなければならない。

「念のため聞きたいんだけど、いつ頃、誰に聞かれる予定ですか?」
「三時間後には、ローゼンクォーツ女王国の城のそばに、最近出来た美味しいと評判の、鶏料理専門店で食事でもしようかと考えていてね。折角の休日なのだから、謳歌しなければ」

 時刻は既に夕方に近い。晩餐には丁度良い時刻ではあるが、バジルさんの言葉は、暗に情報を売りに行くと僕に示しているに過ぎない。僕の体が完全に回復するには――三時間という刻は、短すぎる。

「それまでに、魔術樹の街へと帰ってはどうだね? 優秀なローゼンクォーツ女王国の魔導師達が、夜にこの小屋を発見しないとは限らない」
「――今は、戻れない」
「何故だい? 既に歩行可能な程度には、治癒しているように見受けられるが」

 不思議そうに続いたバジルさんの声に、僕は視線を床へと落とした。
 そんなものは、決まっている。

 負傷している無様な僕の姿を見た時――優しいニコが、僕を『心配』してくれるだろう事は、分かりきっている。僕は、僕自身の事で、ニコを不安にさせたくはない。ニコの心までをも含めて、守りたい。

「バジルさん、折角のプライベートを、もっと有効活用する気はない?」
「食事以上に、かい? 私を満たしてくれる何かがあるというのかね?」
「バジルさんって、食欲しかないの? それ以外、楽しみがないの? 寂しくない? 人生」
「……ラーゼ君に、そんな事を言われる筋合いは無いんだがね。私には数多くの楽しみ、趣味、交流があり、食欲以外の欲求も当然持ち合わせている。例えばそうだね――承認欲求、これが一つだ」

 引きつった顔で笑ったバジルさんは、それから僕の正面で屈んだ。
 そしてじっと僕を覗き込む。

「『情報屋』としての腕を認められる事は、そう――仕事を評価される事は、今後のプライベートの貴重な時間を、更に楽しくさせる香辛料ともなる」

 腕を組んでいるバジルさんは、それから琥珀色の瞳をスっと細めた。

「私のプライベートを買いたいのかね?」
「……そうですね。明日の朝までは、せめて」
「私の時間は、非常に高額だ。それはね、ラーゼ君の情報よりも、あるいは値が張る」
「はっきり言って欲しいんだけど、いくら?」

 改めて僕が尋ねると、バジルさんが溜息をついた。

「幸いな事に、今私の懐は潤っていてね。そうだね、報酬は――鶏料理を食べたいという欲望を、別の形で満たしてもらう事が相応しいと、現状ならば言えるかもしれない」
「僕が何か料理を作ればいいんですか?」
「……それは、私に、死ねという意味合いかね?」
「え?」
「ラーゼ君は、自分の料理が美味しいと考えている……私には、これが不可解でならないね。それはそうと、私は君の料理を求めていない。断言して、それはない」
「……」
「食欲に代わる、人間の本能的な欲望には、何があると思う?」
「睡眠欲」
「他には?」
「性欲」
「正解だ――折角の休日だからね、花街にも足を運びたいと、丁度考えていた所でね」

 バジルさんはそう口にすると、唇の両端を持ち上げた。

「お相手願おうかな? 久しぶりに」
「――思ったよりも、安い報酬で、安心したよ。バジルさんにも、知人を慮る優しさが時にはあるんだね」
「ラーゼ君は、私にとって知人ではなく、大切な一人の友人だが――安い、か。価値を決めるのは、私だという前提の上で言うが、もう少しその体、大切にしてみてはどうだね?」
「僕は常々、バジルさんが報酬を要求する場合としない場合、そしてその価値について、理解できないから、無理」

 簡潔に答えて、僕は己の首元に手を添えた。
 ――服を脱いで、一夜我慢すれば、それだけで良い。それが分かって安堵していた。

 これで、ニコを不安にさせずに済むのだ。安すぎると言って良いだろう。

「私が求めるものは、比較的分かり易いと考えているのだけれどね」

 バジルさんはそう言うと、嘆息してから、僕の手首を軽く握った。

「体が辛そうだ。私が脱がせてあげる事も、やぶさかではない」

 曖昧に頷きながら、僕はボタンを外す手を止める。
 ――こうして、僕はこの日、バジルさんと一夜を過ごす事に決めた。