【1】僕は、生きていて良いのかという疑問。




 

 魔術樹の街が急襲されて、僕とニコが密命を受けて地上へと降りたのは、つい先ほどの事だ。
 降りる衝撃で、ニコはまだ意識を失って……眠っている。


 ――地上へ降りてから、僕は、街の事を回想していた。
 そうしながら、手では、僕以外には一人しか持つ者がいない魔導書を開く。
 雑念混じりのままだったが、やらなければならない事が一つあった。

 ――ニコのために。

 それだけなのだと思うが、少しは、魔導書で連絡を取る相手について考えていた。

『珍しいなァ、お前から連絡なんて。研究の打ち合わせは、もっと先じゃなかったかァ』

 すぐに返ってきた応答に、僕は静かに瞼を伏せる。

 相手は、魔術湖の島に住む、研究者だ。いつかニコに話した事のある、要注意人物――ワークス教授である。僕は、彼に事実だけを告げる事にした。

「魔術樹の街が落ちたんだ」

 正確には、時間の問題であるが。すると、驚いた様子もなく、ワークス教授は僕の言葉に、ただ静かに耳を傾ける。僕が概要と要件を告げると、短く彼は答えた。

『――おう。分かった』

 それから少し話をし、僕は魔導書を閉じた。

 その間、ずっと考えていた事がある。仮に、魔術樹の街が落ちたとしても――僕は、ニコがいる限り、生きていて、良いに違いない、という現実と。そして疑問。

 それは――本当に?
 では、ニコが死んでしまったら?

「魔術樹の女神って、本当に性格が悪いよね」

 ポツリと僕が呟いた時、ニコがピクリと肩を震わせた。
 堪えきれずに溜息をつきながら、視線を向けると、ニコが瞼を開けていた。
 それから――僕の大切な弟子は、飛び起きて僕を見る。

「し、師匠! どうなった!?」
「おはようニコ。もう夜だけど。よくそんなに長時間気絶できるね。疲れてたのかな」
「……気絶……そうだ、飛び降り……ま、まさか、ここは地上か?」
「まさかも何も地上だよ。大至急、魔術湖の島に行かないとならないから、夜の内に旅立とう。その方が、色々と都合が良いんだよね」
「分かった」

 頷いたニコに、僕は焚き火の前に刺しておいた魚の串を手に取り、一つ渡した。ニコはいつも、僕の料理を不味いと言うが――今は、非常事態だ。そして、僕はこれまでの人生、魔術樹の街で過ごした以外の時分は、常に危機的状況に身を置いてきたから、食欲がみたせれば十分だというのが、実は本心である。それでも向上心は一応あったし、ニコには出来れば喜んで欲しいのだが……。

「……有難う」

 ニコは僕から受け取ると、まじまじと魚を見た。こういったワイルドな料理は、物珍しいのかもしれない。なにせニコは、記憶上はずっと平穏なあの街で暮らしていたのだから。幼少期の記憶は、ニコにはほぼないと、僕はよく知っている。

 それからニコが、ゆっくりと魚を食べた。

「……あ、美味しい」
「塩を振って焼いただけだからね」

 思わず僕は、苦笑してしまった。ただ焼いただけの魚の方が、ニコは僕が必死で作る凝った料理よりもお気に召したらしい。弟子の頬が緩んでいるからすぐに分かった。

 その後、街の心配をするニコをなだめてから、僕は改めて、現在の状況を告げた。

「寧ろ、僕とニコが危ないんだよ」
「……ああ」

 だが、僕の言葉を聞いた後でも、ニコは街に残っている、同期の少女達の心配を止めない。約一名は敵だったようで――それは、僕にとっては新しい情報だったが、収穫だと感じるよりも先に、僕はニコに釘を刺さなければならないと考えた。

 ――ニコが、女王国に投降を決意しているようだったからだ。

「ニコが出て行っても、ニコが殺された後、皆殺しだと思うよ。その時間に、僕が書状を届けたとしても、僕には帰る所が消えてるだろうね。そもそもその場合僕は街に残ったし、その時はニコが殺されても、僕達にはそれが知らせられず、ニコを殺すぞって脅されて、僕や大司教様が動けなくなって、全滅するんじゃない? それよりは、良いかもね。今の状況の方が」

 これは、事実だ。少なくとも僕はそう思う。ただ反面、僕はニコを非常に心配していたし、ニコに危険な目にはあって欲しくない――そう思った上で、苦しそうなニコを、少しでも慰めてあげたいという気持ちもあった。ニコの瞳が辛そうだったからだ。

「師匠、俺の命に、そこまでの価値は無い。だから、今後の道中で何かがあったら、自分の命を優先してくれ。そして、俺が死んでも、師匠が書状を届けてくれ」

 しかし、僕の言葉は、ニコの心には響かなかったのかもしれない。
 僕が――ニコ以外を優先するはずがないと、彼はまだ気づいていないらしい。

「ニコの命には、十分価値が有るよ。僕は人を庇う性格じゃないけど、ニコの事はきちんと守るしね。大丈夫、ニコも僕も無事に到着できるよ。ニコが奇っ怪な行動に出ない限り」「奇っ怪な?」
「ニコが例えば、道中でいきなり『自分はローゼンクォーツの女王陛下の兄だ!』とか、叫び出さない限り、大丈夫」
「へ?」
「そんな事したら、ニコも僕も捕まって、パンって殺されるからね。やめてね、余計な行動は。必ず、何か大きな事をする場合、僕に確認をして。これは、一般的な任務であっても同じだよ。今回は、僕がリーダーだけど、僕以外がリーダーの仕事もある。必ずリーダーに確認と報告をするようにね」

 再度、弟子に僕は釘を刺した。

 すると、暫しの間思案するように視線を揺らした後、ゆっくりとニコが頷いた。そして僕に向き直ると、真剣な表情になった。

「他に何か気をつける事はあるか?」
「うん。僕は外見で穢痴族だとすぐに判明するから、ニコ以外の多くの人には、別のもっと目立たない人間が見える魔術を常にかけてる。けどこの術は、穢痴族同士だとすぐに分かる。だから穢痴族の追っ手がかかりやすいんだけど、穢痴族だと公表して歩いても追っ手はかかるし、周囲の差別度合いも踏まえると、外見を変える方が良い。だから周囲が僕の特徴と一致しない、『金髪ですね』とかと言ってきても気にしないで」

 ――穢痴族は、忌み嫌われている。
 しかし、ニコには、その知識はほとんど無いだろう。
 だが、僕はそれを告げて、ニコに怯えられたり、嫌われるのが怖い。

「分かった」

 だから、頷いたニコを見て、続ける事にした。

「それで僕とニコの年代の男二人旅と言うのは、職人と見習いが多いから、呼び名は師匠で通して。そのままで良いよ。だけど『ラーゼ』とは呼ばないで。僕の方は、『君』で通すから。二人の時で、結界の中で、安全なら大丈夫だけど、普段から名前で呼ばない癖をつけておいて」

 実際には、男の二人旅は、性的な関係を疑われやすい。僕はそれを知っていたけれど、ニコには告げなかった。僕の中で、ニコは聖域であるから――爛れた現実には、可能な限り、触れて欲しくは無かったのだ。

「うん。呼ばない。師匠を師匠っていつも以上に呼ぶ。けど、職人って、何の?」
「魔術薬職人と見習いで良い。生産技能なら、そこそこの魔術師でも持ってるし、時には魔力が無くても見習いになれる」
「分かった。師匠はもう、寝たり食べたりしたのか?」
「僕は十分だよ。あとは、一緒に旅立つだけだね」

 実際には、僕は何も食べていないし、一睡もしていない。それは、見張りのためでも、肉体的な動作の問題でもない。

 ――不安。

 その一言に尽きる。現在の状況は、我ながら万全の体制だが、それでも、ニコの事を思うと、この目で周囲を確認し続けなければ、ニコがいなくなってしまうような恐怖に駆られていたし、そのせいで食欲などまるでわかない。

 僕は基本的に、特に任務に関しては、冷静だという自負がある。なのに、何故なのかニコが絡むと、僕は平静ではいられない。それだけ、僕はニコが大切だ。

 その後、ニコに指示をいくつか出してから――僕達は本格的に、旅を開始する事になった。実際には、無駄な旅だと僕は感じている。

 物珍しそうに歩くニコを先導し、翌朝、僕達は最初の村へと到着した。