【2】僕は、ニコの重さが愛おしい。




 竪穴式の住居が並ぶその村に入った時、ニコが僕の腕を引いた。

「師匠、ここは?」

 おろおろと周囲を見回している弟子を見て、僕は静かに笑ってみせる。

「ローゼンクォーツとアメジストロゼリアの国境の街の一つだね。一段低い場所にある竪穴式住居は、ローゼンクォーツの辺境に多い住居形態で、大抵の場合、真ん中の道の突き当たりが、その街で一番偉い人の家。そこからどんどん逆方向になるにつれて、左右の土地が下がり、低い身分の住居となる。高い土地側で偉い人と同じくらいの規模が、その他の高い身分の有力者の家だよ」

 僕が答えると、ニコが首を傾げた。

「このまま通り抜けるのか?」

 軽く顔を上げて、僕は空を眺めながら、つらつらと――用意していた回答をする。

「ううん。路銀を稼ぐ形で、魔術薬職人は、道中の街で、一般的に長宅で挨拶して薬を置いていく。薬は僕が出すから、君は何も喋らずに立っていて。ニコは一発で、魔術樹の街から来たと分かる。理由は、方言が無いからだよ」

 実際には、僕の目的は、薬を売る事では無かったからだ。
 長の家へと到着してすぐに、僕は顔を出した使用人を見て、細く息を吐いた。
 僕を一瞥した使用人は、ニコには気づかれないほど小さく、静かに頷いていた。

 ――バジルさんは、各地に自分の息がかかった者を、飼っている。

 ここへ来た僕の本当の目的は、情報屋である彼に連絡可能な人間に、接触する事だった。その後僕は、ニコの前では薬売りの真似事をしながら、下ろした手の指先で、情報屋に共通する暗号的なボディランゲージによる『会話』を、その使用人と行った。控えていた使用人は、僕の伝言を、バジルさんに伝えてくれるという。

 これでまた一つ、僕は仕事を終えた気分になった。バジルさんとワークス教授に連絡を取る事――これが、僕に出来る、ニコを守るための最重要項目だと、漠然と考えていた。人に頼るという事に、僕は慣れていなかったが、ニコのためならば、なんでも出来る。

 要件が済んだから、薬売りのふりを終えて、僕は再びニコと共に、歩く事に決めた。暫く進んでから、僕はニコの表情に、僅かに疲労を読み取った。

「よし、そろそろ休もうか」
「あ、ああ……餓死しそうだ」

 どうやら、疲れというより、空腹を覚えていたらしい。この状況でも食欲がある神経の図太さは――彼の母親を思い出させる。僕が唯一愛した人物だ。紛れもなく、嘗て恋をした相手である。僕が小さく吹き出すと、ニコが照れたように顔を背けた。

 ――その夜も、僕は眠る事が出来なかった。

 月明かりを眺めながら、ニコの寝顔をずっと見ていた。
 それから――朝陽を見た。

 以降、三日間、僕らは野宿をしながら進んだのだけれど、僕は微睡む事さえ無かった。本来ならば、眠れる時には、寝ておくべきだと理性は言う。だが感情は、それを許さなかった。

 こうして、旅立ちから一週間が過ぎた時、僕達は漸く、帝国へと入国する日を迎えた。ここからは、これまでの旅路よりも、過酷になるのは、明らかだった。少なくとも、ニコにとっては。僕が単独であったならば、そこに屯するのは、案山子同然の連中だと、内心では感じていたが。改めてニコを見て、僕は声をかけた。

「今日、アメジストロゼリアに入国するから、そこの最初の街では、喋らないで。その次の街からは、普通に話して良いよ」
「――なぁ、師匠。今日からアメジストロゼリア帝国で……そこを通り抜けて行くとすると、目的地には、いつごろ着くんだ?」
「早くて二ヶ月半くらいかな」
「……それまで、街は大丈夫なのか?」

 すると、ニコが不安そうな表情で、小声で僕に聞いた。僕は俯きそうになるのを堪えて、努めて平静を装い、ゆっくりと瞬きをしてから――自分の内側の街への不安を消去した。ニコを守る事、これが、今の僕の、任務なのだから。

「大丈夫でしょ」
「本当に?」
「――大司教様と出る前にすれ違った時に、僕と君が島に着くまでの時間は稼ぐと言って笑っていたからね」
「時間稼ぎ……でも、それって、俺達がゆっくりと旅したら、時間稼ぎも長く出来るわけじゃないよな……?」
「どうだろうね。まず、街が落ちた場合、その後、街の中で、君の捜索が行われる期間があるし、仮に陥落していたら、生存者を各国が抱える時間もあるかもしれない。寝返り要求期間とかね。もし決着がついていない状態なら、両国間でもこれ以上の作戦を続行するかの話し合いの場が持たれるかもしれないし、長引いたら負けるとも限らない」
「二ヶ月半……」
「焦って全速力で向かって目立って殺されるよりは、二ヶ月半かけても確実に知らせを届けた方が良いね、今回の場合だと」
「……もう敵が勝って撤収していたら、援軍って意味あるのか? 援軍は、どのくらいで移動できるんだ?」
「僕達は援軍を呼びに行く事だけが任務じゃない。仮に街にとっては無意味な結果となるにしろ、危機を伝える事で、その他の――魔術湖の島が危機を回避できるかもしれない。魔術樹の街が落ちたとなれば、次は島が狙われる可能性が非常に高いからね」
「……分かった」

 ニコの返事を聞きながら、僕は一歩早く歩き始めた。

 背中に愛弟子の視線を感じながら、僕は、今度はニコに表情が見えないのを良い事に、唇を強く噛んだ。大司教様の事が、脳裏を過る。大丈夫だと信じたい。けれど――……そう考えた時、後ろを歩くニコの存在が、重いと思った。けれどその重さが、愛おしい。

 こうしてその日、僕達はアメジストロゼリア帝国に足を踏み入れた。