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さて、シュークリームを食べるか。僕はフォークを手に取った。こういう場では、特に許しを得る必要はない。ぱくぱくと僕は食べた。皮が固くて美味しい。クリームは生クリームだ。カスタードクリームじゃない。

そういえば殿下はいつもこれを『買ってくる』と言う。どこで買うんだろう。王都に住んでいるのだから、今度自分で買いにいってみようかな。良い考えだ。やることが出来た。僕は殿下を見た。殿下はイチゴタルトを食べながら、マーシェとミレイスと雑談している。視線に気づくと殿下が言った。

「王宮の東塔にあるルーランドという洋菓子店だ」

いつも思うのだが、殿下は僕の考えている事を、よく推測できるな。この分だと、特務塔に就職した理由も見破られているかも知れない。

「そういえばお前、学校卒業が前提条件にない仕事の中で、一番楽な勤務態勢の仕事を選んだんだろ?」

続けて言われた。さすがは殿下だ。

「この二人はな、それぞれ、お前と王宮で競うつもりだったらしい」

しかし続いた言葉は予想外だった。

「お前が騎士になったらマーシェが、宮廷魔術師になったらミレイスが、ライバルになる予定だった。絶対にお前には負けたくないし、仮に負けても何度も挑むと言っていた。感想は? 受けて立つか?」
「全力で遠慮するよ。感想としては、怖いからローランドに帰りたくなったにつきる」

僕はフォークを止めた。二人をそれぞれ見たが、口元は笑っているが目は本気だ。敵対心が滲んでいる。明らかに二人とも、僕に好意的ではない。殿下に視線を戻すと、ニヤニヤと笑っていた。楽しそうだ。恐らく二人を煽ったのは殿下だ。

殿下は競い合わせたいんだろうな。そして僕を叩きつぶしたいのだ。僕達は仲が悪い訳じゃない。断っておくが、どちらかと言えば仲良しだ。ただ殿下は、「お前はこの程度じゃ潰れないだろ?」という風に僕を苛めるのが好きなのだ。買いかぶりだ。始まる前から、僕はぺったんこだ。

「ネル、社会には修羅が溢れている。いつまでも純粋なままじゃいられない。優しさは弱さにもなる。蹴落とされるなよ」
「別に僕は純粋でも優しくもないけど……」

蹴落とされる可能性は存分にある。それに多くの人には、僕を蹴落とすメリットがあるのだ。僕というか、僕ごと僕の家族を蹴落としたい人は多いだろう。そして僕には、助けの手をさしのべてくれそうな人は少ない。場合によっては、家族も、被害を被らないように僕を斬り捨てる。

腐竜退治をする人間がいなくなってしまうから、命を取られることはないだろうけど。例えば傀儡魔術をかけられて自分の意志を奪われ、命令のままに討伐に臨むような戦闘奴隷にされる可能性はある。服従魔術で、体の統制権を握られる可能性もある。これまでにも何度か、魔術を放たれているから、これは悪い妄想ではない。いつも僕は撃退してきた。昔は祖父が守ってくれたのだ。今は、自分で頑張っている。

たとえばの話だが、僕はこの二人に勝ちたいと思っているわけではないけど、自分の身を守るという観点から、負けるわけにもいかないのだ。力をつけなければ身を守れないのに、力をつければつけるほど狙われる事が増えていった。悪循環である。

率直に殺されそうになったことも数え切れない。腐竜退治のことが念頭にない敵は、お構いなしだ。毒を盛られたり、斬りつけられたり、散々だった。それでも僕や親族は結構慣れているのでなんとかなる。だけど他人は巻き込まれると厳しい。例えば僕の乳母は、誘拐されて殺されてしまった。僕と親しくなった人は、それだけで命の危険が高まるのだ。うわ、吐き気がしてきた。鬱だなぁ。

「……まぁ、大丈夫だよ」

とりあえずそう答えておいた。

「ネル、顔色が悪いぞ」
「クラウのせいだよ」
「――だからいつも言ってるだろ。俺だけに忠誠を誓って、俺の言うとおりに行動すれば守ってやるって。俺の命令だけに従い、何も考えずに動けばいい。楽になれる。身の安全は保証される」

余裕たっぷりに殿下が笑っている。その目は真剣だ。多分殿下は本気で言っているのだろう。昔から殿下は、僕を自分の陣営に引き込もうとする。陣営と言っても、王位継承権を争うだとか、そう言うつもりではない。

むしろ第一王子殿下を補佐するための陣営だ。それでいて自分の立場を強固にし、思い通りに国を導く基盤を作ろうとしているのだ。思い通りにと言うと言葉は悪いが、なんというか、殿下の観点で思うとおりに良い国にしたいということのようだ。

僕の家族は、両親は勿論国王陛下を、妹は婚約者だから第一王子殿下を全力で支援している。祖父母はちょっと規格外だけど。五賢人と他国の元王族だから毛色が違うのだ。そして姉は、自分の夫の宰相閣下を支援している。兄と僕は、勿論彼らを支援しているが、それほどべったりでもない。

ただ兄は、クラウ殿下よりも年上で、すでに自分の仲間を持っている。ある意味兄には、自分の陣営があるのだ。だから僕なのだろう。僕だけ空いているのだ。そして殿下が言っていることは、多分正しい。もし僕が第二王子殿下の手足となれば、僕に害をなした者は、第二王子殿下を敵に回したという扱いになる。公爵家だけでなく王族の中でも巨大な派閥力を持つ殿下をも敵に回したら、この国では生きては行けないだろう。

その上、僕は命令に従って行動することが苦ではないし、それこそ殿下が言うとおり楽なのだ。僕はいつもやることを見つけられないから。それでもやることが見つかれば、家訓もあるから全力で取り組める。何事にも全力投球するという家訓があるのだ。きっと殿下の陣営に入れば、僕はそこに属する人々に優しくしてもらえるだろう。

目の前の二人だって、親しくしてくれるかも知れない。時には妬まれるかも知れないが、共通の敵に立ち向かう時は、仲間扱いしてもらえるだろう。晴れて友達も出来るのだ。それはもしかしたら、楽しいかも知れない。だが、僕の答えは決まっている。

僕は目を細めて、殿下を睨め付けた。殺気を込める。魔力を意図して解放する。周囲に冷気が漏れたようになる。我ながら冷たい眼差しと表情になった自信がある。

「クラウディオ第二王子殿下。それはサザーカインツ公爵家への意思表示ですか?」

殿下の表情が僅かに引きつった。こめかみを汗が伝っていく。少し気圧されてくれた。しかしここでおされて倒れてしまうほど殿下は弱くないのだ。殿下は空気を変えるように、唇の両端を持ち上げた。

「すまなかった。冗談だ、ネルレイン」

僕は少し間をおいてから、気配を戻した。実は、このやりとり、気配変化を含めての応対は、何度も繰り返されている、僕らの間の様式美のようなものだ。別に僕は本気で怒っていた訳じゃない。だが、場合によっては、僕は全力で殿下を叩きつぶすために行動できる。

それを明確に示したのだ。僕は、頑張ればそれが可能だろう。それは殿下も分かっている。だから殿下はあっさりと謝ったのだ。殿下は余計な敵は作らないのだ。人を苛める趣味があるけど、それもギリギリの所を見計らう。例えば今回ならば、二人を煽って僕を苛めたけど。今の僕の冷気を二人に見せつけることで、二人のことも苛めたのだ。

ちらりとみれば、二人は真っ青で、表情がない。呼吸を止めていたようで、苦しそうに吐息している。汗がだらだら垂れていた。これは殿下の僕に対する優しさでもある。僕を怒らせてはならないのだと二人に示してくれたのだ。二人はふるえを押し殺している。

「機嫌を直してくれ」
「無理」
「ネル。俺はお前のことが大好きだ」
「僕は、どちらかと言えば好き程度だったけど、今評価が変わる転換点に立ってるかもしれない。勿論下方修正だ。悪い方向に変わりそう」
「そんな事言わないでくれ。俺達は大親友だろう?」
「殿下にとっての大親友という言葉は、僕にとっての知人と同じレベルなんじゃない。きっと定義が著しく違うんだ」
「ネル。ごめんって」
「そろそろ帰る」
「許せ」
「嫌だ」
「俺は、俺と対等なお前のことが本当に好ましい。俺には王族という位と人脈がある。お前には力がある。そうだろう? 俺に面と向かってそんな態度を取るのはお前だけだ」

僕は、こういわれると困ってしまう。別段力がそこまであるとは思わないが、態度に関しては自覚がある。そして殿下は、そういう態度をされたいのだ。だから人を苛めるのだ。

殿下は寂しがり屋なのだ。僕も、こんな態度を人にされることはないから、気持ちは分かる。ただ僕は、殿下を対等な相手だとは思わない。殿下は僕にとってはやっぱり目上だ。飼い慣らされる気は毛頭無いけれど。

「僕は優しい人が好きだ」
「両思いじゃないか。俺ほど優しい人間はめったにいない」
「殿下の優しさを解説してくれる専門家の養成が急務だね」
「そろそろ二個目を食べるタイミングだろ?」

その声に僕は、シュークリームを見た。一つ目もまだ半分残っている。

いつも殿下が二つ買ってくるのは、僕の機嫌を直すためだ。ようするに最初から、僕を苛める予定だったのだ。とりあえず一つ目を片づける。食欲が失せてしまっているのに。味がしなくなってしまった。泣きたくなってきた。涙は出ないけど。僕は何故なのか、悲しくても涙が出ないのだ。もう何年も、欠伸や目にゴミが入った時以外涙が出ていない。

「念のために聞くけどな、ネルにとっての優しさって何だ?」

僕は亡くなった友人と、彼の妹の事を思い出した。友人は僕の乳母兄弟だった。妹は僕の婚約者だった。彼女は傀儡魔術をかけられて、僕を殺そうとした。さされた僕は、治癒魔術で自己治癒出来たから今呼吸していられる。心臓に完璧に突き刺さったのだ。

だけど、その瞬間から、自分で短剣を抜き取るまで、魔術を使い続けて難を逃れた。彼女にかかっていた傀儡魔術は解除できないものだった。あるいは時間をかけて研究したらその限りではなかったかも知れないけれど。

そして僕を殺そうとさらに襲いかかってきた彼女を、僕は返り討ちにした。つまり、僕が殺したのだ。僕が初めて人を殺めた瞬間だ。僕は幼いながらに、彼女のことが好きだった。あれは恋だったんじゃないのかなと思っている。僕は正直、彼女に殺されることをしかたがないと途中で諦めたのだ。しかし、僕が抜き取った短剣に、勢いをつけて突進してきた彼女がぶつかってしまったのだ。彼女の体に短剣は突き刺さった。

事故だったともいえる。僕は、最初は何がどうなったのかよく分からなかった。僕に倒れ込んできた彼女の体を抱き留め、自分の体が血に濡れていくのを不思議に思っていた。その頃の僕は、治癒魔術を自分自身にしか使えなかった。上手く制御することが出来なかったのだ。そして僕が手にする短剣が彼女に突き刺さるまさにその瞬間、その場の扉を兄である友人が開けたのだ。彼は彼女の名前を叫んだ。それから僕の名前を呼んだ。

僕は彼に、人殺しと糾弾されたのだったな。最初僕は必死で違うのだと訴えた。僕は引き倒されて、彼に首を絞められた。彼は僕を殺してやると何度も言っていた。泣きながら言っていた。あの瞬間まで、僕と彼は親友と呼んでも差し支えのない仲だったと思う。彼ら兄妹は、僕の乳母の実子だ。その時には乳母は既に亡くなっていた。彼は言った。母だけでなく妹まで奪ったのかと。

それまで乳母のことを彼に責められたことは一度もなかった。僕は盲目的に、優しい彼の慰めを真に受けていた。僕のせいじゃないのだという言葉を信じていた。しかし違ったのだ。そして僕自身の内側には常に罪悪感があったから、逆に気が楽になりさえした。それに気づいた時、自分に吐き気がした。

どこかで、僕はもう何を言っても無駄だと思った。何か言ったところで彼が僕を信じてくれることはないし、事実彼の認識の方が正しいような気もした。この時から、僕は言葉を発するタイミングが多分分からなくなったのだ。息苦しさとごちゃごちゃの感情と思考で、頭の中が次第に真っ白になっていった。直後、僕の魔力は暴走した。彼はそのせいで、内側から弾けて破裂して死んでしまった。

彼も、僕が殺したのだ。僕は意識的には彼を殺そうとは思っていなかったが、無意識的には分からない。彼の言葉をもう聞きたくなかったのかも知れないし、首を絞められている手を緩めたかったのかも知れない。その日から二年ほど、僕は精神的な問題で、声が出なくなってしまった。けれど魔力の制御は必要だったから、僕は無詠唱を叩き込まれたのだ。

僕が声を取り戻すことが出来たのは、その後別の友人が出来たからだ。彼のおかげで、僕は少し明るさを取り戻した。新たな親友だったのだ。僕は彼の存在に舞い上がっていた。僕は一人ではないと思っていた。だけどある日、彼は僕の身代わりに捕らえられ、首だけで帰ってきた。僕宛に、箱に入った状態で、彼の生首が届いたのだ。

開けた僕は、どうしたのだったかな。彼は公爵家の使用人の息子だった。この時には、僕は泣かなかった。ああ、この時には、僕は涙を失っていたのだな。こういったことがあったから、家族は僕に過剰に優しい。僕は怒られた記憶がほとんど無い。そして僕の家族は、皆自衛できるから、めったに死なない。

僕にとっての優しさは、そうか、生きていてくれることなんだろうな。生きていてくれるだけで良い。そう考えれば、殿下もめったな事では死なないだろう。ならば殿下も優しいのだろうな。

「――やっぱりクラウは優しいと思うよ」

僕がポツリというと、殿下が考えるような顔で無表情になった。その後殿下は少しの間僕をじっと見ていた。僕はそれに気づいたけど、視線を合わせることが出来なかった。俯いて、味がしないシュークリームを口に運んだ。義務的な作業だった。クリームが焼け付いてきて、気分がどんどん悪くなっていく。それでも完食した。

「ごちそうさま。本当にそろそろ帰るよ。来てくれて有難う」
「また買ってくる。送ろう。俺は、優しいからな」
「ありがとう」

僕は立ち上がった。二人を見て笑顔を浮かべることを忘れなかった。目に見えて安堵していた。殿下は苦笑しながら、僕を送ってくれた。一人で帰れるんだけどな。部屋の前に立った時、殿下が僕の手首を掴んだ。

「ネル、無理はするなよ。何かあったら、いつでも頼ってくれ」
「クラウ、有難う。頼りにしてる」
「またな」

そう言って僕らは別れた。僕は、殿下を頼りにする日が来るのか、本心としては分からなかった。部屋に入って、僕はまっすぐにソファに向かい、横になった。どっと疲れが押し寄せてくる。僕にしては、会話が弾んだ方だと思う。

楽しい話題ではなかったが、言葉が途切れなかったのだから、成功した方だ。それに殿下は楽しかったんじゃないだろうか。人を苛める時、殿下はいつも生き生きとしているから。僕は、催眠作用があるお茶を取り出して、一気に飲み干した。寝逃げすることに決めたのだ。何も考えたくなかったのだ。