01
「早く退院したい!」
ああ、またか。今日も今日とて誰かが言う。
僕はそれを眺めながら、ボケっと塗り絵をしている。スタッフルーム……詰所前。 傍らでは、ポーカーに興じる入院患者。
ここは、『4階』だ。
正式には、急性期病棟。精神科だ。
ただし僕の入院しているところでは、こころの医療センターという。通称、こころ、らしい。だけど僕たちは、『4階』と言っている。患者認識だと、さらに重くなると『5階』、軽くなったり長期だと『3階』へと移動する。
4階は、基本的には三か月間しかいられない。
ここから退院する人が多い。
そして今日も誰かが言う。
「退院したい」
あるいは、こういう。
「外に出たい」
――この病棟は、閉鎖病棟なのだ。
時には、退院したくないという人もいる。
その一人が、『現在』の僕だ。
恐らくここに綴る一連の記録を、仮に外に出す日が来たら、退院している事だろう。
『現在』僕は、比較的物事がどうでもいい。これは鬱だからではない。僕は根本的に興味がない事はどうでもいいのだ。その分ハマると手が付けられないのだけれども。
じゃあ今興味がある事はと言えば――それが特にないから今これを書いている。
少し前までは、趣味で書く小説に興味があった。今は疲れてしまった。この記録もそうだが、僕が書かなくても困る他者は誰もいないのだ。
誰にも期待されずに生きる事は、思いのほか……楽なんじゃないかと思う。塗り絵と一緒だ。人生の暇つぶし。
「相田さんが格好良すぎて近づけない」
病棟で進行中の恋愛相談で、僕は我に返った。
十九歳の女の子と、三十九歳(には、とても見えないイケメン)の恋が現在進行している。女の子は、アヤノちゃんという。
なお病院は、敷地内完全禁煙。ただし僕は『ランク2』なので、単独外出ができる。大体朝の外出時は、相田さんと時間が被る。目的が同じだからだ。喫煙である。もっぱらその時は、相田さんから僕は恋バナを聴いている。
さてカノジョさん、アヤノちゃんは言う。
これは他の入院患者の、今年二十歳になる男の子も言っていた。
「病気のせいで青春がつぶれてしまった。だからこれからつぶれた青春を取り戻すんだ」
僕は笑う。
「大丈夫だよ。まだまだこれからだよ」
完全な作り笑いだ。
それでもただ笑うのだ。
かつて僕にそうした人がいたように。
懐かしい記憶だ。その嘗てには、僕にも夢があったような気がする。だが忘れてしまった。あるいは忘れたかったのかもしれない。
ああ、言い知れない不安感が募り始める。全身を鉛のような何か、ただし無機質なのに絡みついて決して離れない何かの感覚にとらわれはじめる。倦怠感などという言葉では言い表せない。そんな時は、詰所から『水薬』をもらう。すると頭に輪をはめられたかのような感覚が、少しだけ和らぐ。
けれど僕の顔に張り付いた笑顔ははがれない。はがしたいわけでもない。十代の頃は、カウンセリングで、「皐月君は偽悪者だね」と言われていた。今の僕は望んで偽善者でありたいというのに。ぐるぐると過去の事を思い出していく。つきまとうマルボロの香り。それが嫌いではない僕がいる。生の実感。つなわたり。今の僕は、1か0ではなくなった。その狭間に、ただ無気力に立ち尽くしている。
それで良い。良いのだと思う事にしている。
病院が変わったように、僕も変わったのだ。
ちなみに現在僕が入院しているところは、非常に環境が良い場所だと思う。
さて、そこに『ランク』と『ステップ』がある。ランクは5から1。5が重い。3が保護者同伴の外出・外泊可。2が単独外出可。1が単独外泊も可である。ステップは、薬の自己管理のステップだ。ステップ1が自分で飲みに行く。2が一日分、3が三日分、4が五日分、薬を自分で管理する。5が一週間分だったかな。
現在の僕は、ランク2のステップ2だ。
医療保護入院をしている。
僕は、塗り絵に飽きてきたので、外出する事にした。行き先は大体決まっている。カフェに行くのだ。そこで少し前までは小説を書いていた。だがそちらは、何度『これを最後に書くのをやめよう』と思ったかわからない。今も、そう思っているところだ。僕が次に小説を書く日は来るのだろうか。ただ昨日、ベンチに座っている時に、この記録を書こうと決めた。構想と呼べる程大したものは考えていない。恐らく契機となったのはOT(作業療法士)さんが、とある心の医療関係の雑誌に投稿してみたらどうかと口にしてくれた事を覚えていたからだと思う。
心――ココロの。
僕は、精神障害者である。
病名は、双極性感情障害U型。一昔前は、躁鬱病と呼ばれていた病気である。
この記録は、出来事などの順を追っては書かない。ただ、これまで生きてきて何があったのか、どんな出会いや別れがあったのか、現在は何があるのか、それにまつわる病気の事を、つれづれなるままに記そうと思うのだ。