02
入院病棟の外は、まだ寒い。今は、二月末だ。外套のファスナーをしめて、外を歩く。それから、いつも立ち寄るベンチへと移動した。そして僕はぼんやりと、正面に立つクリニックの巨大な硝子窓を見上げる。灰皿が傍らにあるそこで、僕は赤いマルボロの箱から一本取出し、煙草を銜えた。火をつけると紫煙が、冬の空へとのびては、とけて消えていく。この煙草を吸うようになったのは、最初の入院の時に出会った人の影響だ。
洋二さんといった。
二人でドライブへと、退院後一度出かけた事がある。ぐにゃりとまがった峠にさしかかった時、洋二さんは言った。
「このまま一緒にこの崖から落ちちゃおうか?」
僕は笑って――……何と答えたのだったか。ただ笑っていた事だけは覚えている。
洋二さんが、その場所からあの時の白い車で、転落死したのは、その一週間後の事である。
人は簡単に死んでしまう。
死ぬのは非常に難しい事なのに。
これは僕の中の一つの矛盾だ。
煙草を深く吸い込みながら、低い雲に圧迫された空を見上げる。
今でも僕は洋二さんの事を、煙草を吸うたびに思い出す。僕は洋二さんと同じ歳になった。二十七歳だ。煙を吐きながら、それでも結局は戻ってきた精神科の事を思う。そう、僕は戻ってきたのだ。一度は受診しなくなったこの場所に。
今朝、相田さんと煙草を吸っている時、ふと恋バナの合間に言われた。
「皐月君は病気には見えないよね」
僕は、笑っておいた。
「自分でもそう思います」
別に内心からそう思っていたわけでも、本当に笑っていたわけでもない。本当はただ、何も思わなかっただけだ。
それから僕は、煙草を灰皿に捨て、いつものとおり、クリニック一階のカフェへと入った。注文したのはアイスコーヒー。僕は大体この場所で小説を書いていたわけである。ただ今日からは、自分について回想して、過去と現在の記録を書こうと考えている。
昨日主治医の先生には、言われた。
「過去は変えられないから落ち込むなら必ずしも振り返る必要はないんじゃない」
僕もそう思う。だから書く事を続けようと決意したのは、ただの自己満足だ。
さて、少し過去を振り返ろうか。
初めはそれこそ、中二病だったのである。
契機は、血管は青いのに、なぜ血の色は紅いのかと思った事だった。中学三年生の冬、僕は手首を一度切ってみたのである。悪戯の成功を喜びつつも糾弾を恐れるような、何とも言えない高揚感と背徳感を覚えた気がする。
その年は、色々な出来事があった。
部活では地区大会で優勝したり、学業面では学区一の進学校に受かったりした。県の造形展で賞をもらったり、絵にかいたような優等生だったような気がする。過去は美化されるものだし、人としてクズとなった現在から振り返ればの話にすぎないのかもしれないが。
ただはっきりと覚えているのは、いつも不安だった事と、この世界から脱したいと思っていた事だ。どこか別の所に行きたかった。
だから高校が遠方にあった事を幸いに、僕は下宿した。そして簡単に挫折した。
当時の僕は、午後の八時まで部活をし、午前三時半まで勉強し、翌朝七時には学校の自習に顔を出していた。偏に、テストで悪い点を取る事が怖かったのである。だが眠気のせいで授業には身が入らない。授業中にさされる事も怒られる事も怖かった。
そしてあっさり、高校最初のテストの結果を見て絶望した。テスト順位は、学年で真ん中だった。1位でも2位でもなかった。井の中の蛙が大海を知った瞬間だ。そこから努力して海に臨めば良かったのだろうが、僕は諦めた。なにせ、その時点では少なくとも全力だったからだ。全力の努力をしていると思っていた。そして努力して出来ない事は何もないのだと僕は盲信していたのだろう。その信仰が崩れ去った瞬間でもあったのかもしれない。
自分には価値がないと思った。
死にたいと思った。
今になって考えれば、実にくだらないが、当時の僕にとっては、たえられない現実だったのだろう。そして向かった先は、下宿の屋上だった。
フェンスを乗り越え、下を見た。
最後に、両親に謝ろうと電話をかけた。しかし口から謝罪の言葉が出る事は無く、気づけばいつものとおり明るく話そうとしていたから不思議だ。それでも最終的には「死のうと思う」と口にしていた。すると母が言った。
「精神科に行こう」
その言葉を聞いた時、僕の中で、手首の傷が別の意味を持ち始めた。それは死への切符に化けた。
電話を切り、その足で自室に戻り、僕は衝動のままにザクザクと手首を切ったのである。
この時の診断は、心因反応。その後は適応障害へと変わり、僕は初めての入院をする事になった。当時は任意入院をしていたため、ひどい時には、二・三日で退院したりもした。任意入院とは、基本的には自分の意志で退院できるのだ。その頃は、医療保護入院は、今とは違う仕組みだった。さてこの結果、現在に至るまでの入院回数を数えれば、僕は十数回入院している事になる。
今の僕は、前述のとおり、双極性感情障害U型でラピッドサイクラ―らしい。
本当に昨日までの僕は元気だった。しかし昨日の午後から、一転してずっと死にたいと考えている。誰にもこの考えは話していないが。
特に辛い事があったわけではない。
理性では、世の中には生きたくても生きられない人が沢山いるのだと考える。
昔のように衝動的に自殺未遂をする事もない。
ただ、ただ死にたいのだ。消えたいのではない。死にたい。
僕は、PSW(精神保健福祉士)の専門学校に、大学卒業・就職後に通ったのだが、その時の担任の先生が言っていた。
「死にたいというのは、死ぬ程辛いという事なんじゃないかな」
そういう人が多いんだろうと僕も思う。
しかし何もないのに、あるいは何もないからこそ死にたい僕はなんなのだろうか。時によく分からなくなってくる。そして僕は知っている。この気持ちは、そう長くは持続しない。
逆に明るい気分になった時、僕は浪費する。アクセサリーを買い、服を買い、自分には様々な事が出来るという気分になり、誇張してものを言うようになる。そして鬱になると後悔するのだ。なぜあんな事をしたのだろうかと。
まぁ要するに、普通の人よりも気分の浮き沈みが激しいのだ。
――普通とはなんだろう。
そんな事を考えながら、僕はアイスコーヒーのストローを銜えた。飲みほして席を立つ。さぁ病棟へ帰ろう。歩きながらふと思うのは、僕の記録のような出来事は、実にありふれた出来事なのかもしれないという事だ。ただ、それでも良いのだろう。
新しくなった入院病棟を僕は見上げた。
今はなき古かった頃、嘗ての病棟の事も僕は覚えている。
まずは、僕が過去に築いた黒歴史についてでも書こうか。
僕は、大きなものでは二回、自殺未遂をした事がある。
精神科には、保護室というものがある。
一度目の大きな自殺未遂の時、僕はそこへ入った。ピンクの柄のカミソリを隠して病棟に持ち込み、トイレで手首を縦に切ったのだ。血管に沿って。手首の傷が十字になった。
その頃保護室は、Zと呼ばれていた。理由は知らない。作業療法は、コロコロ玉を転がしていた気がする。今とは大違いだ。
木製の壁に、(おそらく爪で)般若心経が彫られていた。トイレは四角い穴だった。時折小窓から、看護師さんが覗くのだ。
二度目は、アルコールを買ってきて、退院後に一人暮らしの家で、薬を二百錠程飲んだ。吐き気などなかった。ため込んだ眠剤(睡眠薬)と向精神薬、風邪薬などを、ありったけ飲んだのだ。二百錠までは数えていた、というだけで、実際にいくつ飲んだのかはわからない。記憶がない。この記憶がない時間に、僕は無意識からなのか酔っぱらってなのかはわからないが、実家に電話をかけたのだという。そして家族が警察に通報した。隣室から警察官がベランダを乗り越えて僕の家へと入り、救急車を手配したのだと後から聞いた。この時は、三日後に意識を取り戻した。天井一面に赤い丸――幻覚が、副作用で見えた覚えがある。
可愛いものだろう。
切腹したわけでも、首を吊ったわけでも、首を切ったわけでも、両目をつぶそうとしたわけでも、飛び降りたわけでもない。皆、僕の知る生者だ。
ただこの時、思った。もう二度と、自殺を試みる事は止めようと。
この服薬自殺未遂をきっかけに、一度僕は投薬中止となり、それに伴い、その後精神科から離れたのだ。薬をもらいに行く必要がなくなったため、自然と足が遠のいたのである。
しかし定期的に死にたくなった。
飛び降りる場所を探して、ぐるぐるマンションの周囲を彷徨ったり、ハサミを手にじっと刃を見ていたりした。電車のホームに立つ度に飛び降りる想像をしては、僕の死より遅延を迷惑に思う人の方が圧倒的多数だろうなと考えたりする。そんな期間が、必ず訪れる。
そこに意味は無いのだ。
何も、無いのだ。
何もないのに勝手に涙が出る。
そんな時には、大学時代に専攻していた心理学を思い出す。ジェームズ=ランゲ説だったか。忘れてしまった。なにかあった。泣くから悲しい、とする理論が。しかし僕は、涙は出るが悲しくもなんともないのだ。不思議だ。救いが無いわけではない。救いは神と同じだ。心の中にあるのだろう。僕の中には無いが。
さて話が暗くなってしまったが、別に、生きている現実が今、暗いものだと僕は思っていない。精神科は、言葉は悪いかもしれないが、大変面白い所だ。色々な人がいる。そんな病棟での顛末と、これまで出会った人、あるいは日々感じた、感じ続けている事の話に戻そう。
本当に、ただの記録である。