03
昨年の六月から八月、そして『現在』の一月から、僕は新しくなった病院に入院している。昔は2004年前に短期の入退院を繰り返していた。
本日はその中からどのエピソードを書こうかと思いながら、横になっていた。
「皐月君、起きてるかい?」
そして、煩いなぁと思った。他の入院患者さんが、毎朝三人くらい、僕を起こしに来るのだ。看護師さんではない。恐らく善意なのだろうが、寝穢い僕にとっては、鬱陶しい事この上ない。人によっては五時台に起こされていたりもする。
「皐月君、おはよう!」
「皐月君トランプやる?」
だ・か・ら……! 僕は眠いのだ。起こさないでほしい。しかし僕は、起こすのをやめてほしいという一言を口にできない。それから起床し、朝食をとり、薬を飲む。
周囲には、男性も女性もいる。病室は分かれているが、ホール等は共通だ。
それから、相田さんとともに外へと出た。
エレベーターに乗った段階で、いつもより機嫌がいい相田さんを見る。外出前に、僕はアヤノちゃんに聞いていた。
「手紙渡した?」
「はい!」
本日は相田さんの誕生日なのである。先日アヤノちゃんは、入院しているから何もできないと嘆いていた。そんな彼女に僕は言った。
「そばにいてくれるだけで幸せなんじゃないかな? そうだ、手紙でも書いてみたら?」
そしてアヤノちゃんは手紙を書く事に決めたらしかった。僕は応援すべく、レターセットをアヤノちゃんにプレゼントしたものである。
昨日は渡すタイミングの相談にものった。
結果、本日、無事にそれは相田さんの手に渡ったのだ。頑張ったね、アヤノちゃん。
ニコニコしている相田さんと目が合った時に、僕は言った。
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
この幸せそうな二人を見ていると、告白時に二人の仲を取り持った僕としても気分が良い。僕は精神疾患の有無を問わず、恋愛とは自由であり、なおかつ大変難しいものだと考えている。だからこそ、純粋に見える二人を心から応援している。――しかし、応援できない恋もあった。
これは一月下旬から二月の頭にかけて、病棟で繰り広げられていた恋愛模様である。
僕の数日後に入院し、二週間程で退院した患者さんに、ハルコさんという人がいた。小柄で、どこか幼さを残した風貌の三十三歳。ちょっとした過食と嘔吐をする、うつ病の女性だった。そして彼女は、今年二十歳になる男の子――山口君の外見が大変好みだったのだという。
ハルコさんは、前回の入院時は、相田さんが好みだったらしい。前回の入院時も、相田さんと時期が被っていたのだそうだ。その時は、相田さんのベッド(個室)に横になっていたそうで、相田さんは性的な誘いを断ったのだという。ハルコさん本人からそう聞いた。
しかし山口君は違った。彼はハルコさんに告げた。
「シたい」
何をかは、聡い方にはもう分かるだろう。Sexだ。そしてそれは、山口君の病室でなされた。個室のトイレだ。当然避妊具などない。
最初にハルコさんからその話を聞いた時、それは入院中には越えてはいけない一線なのではないかと考えた。さすがにダメだろうと直感的に思ったのだ。
今病棟に、煙草を隠し持ってきて、隠れるでもなく意表をついてベッドの上で吸っている人がいるのだが、その人並みにOUTだと思った。何せその時の山口君は、すごく病状が悪かったという事もあるし(良ければいいとも思わないが)、ハルコさんには旦那さんとお子さんもいるしと、ぐるぐると思考迷宮を彷徨った。複雑恋愛……不倫自体よりも、僕は純粋に、勝手に心配した。子どもが出来たらどうするのかと。心配したまま、毎日毎日Sexについて聞いていた。そんな中、僕はOTさん――担当の他埼さんに言ってみた。
「世界って広いですね」
そしてそれとなく、誰と誰の話なのかは伏せて、病棟で情事がなされている事を伝えた。僕の中ではその時それが悩みの種だったのだ。聞いてもらった後、主治医の先生に相談してみてはどうかと助言を受けた。
OT室から戻り、病棟で僕は先生を待った。しかし、待てば待つ程、何と話していいかわからなくなっていく。そして僕は、最初に入院した頃から知っている、看護師の春川さんに相談する事にした。
すると、「思ったままを話せばいい」と言ってもらえた。
そして――……『誰と誰が』という話になった。当然だろう。他埼さんも、病棟の事だから看護師さんも把握しているのではないかと言っていた。
「大体想像はつくんだ。ナオちゃんでしょ?」
――違った。僕はポカンとしそうになった。そちらは直接聞いたわけではなかったから、僕は考えないようにしていたのだが……。
「違います、その――……」
そこで、犯人当て推理の様な事がなされた。気づけば口の軽い僕は、実にあっさり、ハルコさんと山口君の事を話していた。この時、「今聞いた事は秘密にする」との事で、安堵したのを覚えている。
その後、先生と話した。
先生は、言う。水野先生という名前だ。最初に受診した時からお世話になっている。
「――まぁ人それぞれだからね。それで、何が一番心配なの?」
僕は茫然とした。確かに人それぞれだ。個人の自由だ。しかし僕は、この言葉を聞いた時、自分はただの告げ口犯ではないのかと感じた。何が心配か? 勝手に二人の未来を考えて、不安になっているだけなのだ。僕には関係のない事であるにもかかわらずだ。しいて言うならば、生々しい相談を受けるのが辛い。
「相談を受けるのが嫌なら、断ってみたら?」
「断れないんです」
「ここだけの付き合いだし。人は断ったからと言って、それ程傷つかないよ」
「言えないんです。僕はダメです」
それに先生……先生が思っているよりも多分ずっと、入院中・退院後の患者同士の付き合いや関係はあるんです……と、言いたかったが言えない僕がいた。
「前回の入院の時も、人間関係で悩んでいたね」
「はい」
だって、同じ年の患者さんが、僕にずっと、盗聴されているという悩みを毎日訴えていたのだからな。
「人の言動で揺り動かされるのは、自分の中に芯が無いからだよ。だから風に吹かれると揺れ動君だ」
風か。外界は僕にとって嵐だしな。院内にもそれは吹きこむのだろう。
「芯はどうやって作ればいいんでしょうか?」
切実に知りたかった。
「成功体験かな。まずは断ってみるといいよ」
「成功なんてもう何年もしてません。僕はダメです」
本当に色々とダメなんです。周囲の機嫌を窺がってしまうんです。そんな事を心の中で僕は呟いていた。
「自分はダメだと考える人は、認知が歪んでいる事が多いよ。カウンセリングとか受けてみる?」
かくして僕はいつのまにか、ダメな自分について考えだしていた。
しかし先生との面接(診察)終了後、ふと我に返り、何だか相談したかった事と違う話をしていた気がした。あれ? どうして僕の認知の歪みの話になった? と、この時は良くわからなかった(書いてみると、理解できる気もする)。
それにしても……僕はモヤモヤとしていた。そこで今度は相田さんに、コンソメポテチを提供する代わりに、悩みを聞いてもらう事にした。相田さんは一通り聞いてくれた後、「眠い」と言って、いつもの通りニコニコしたまま部屋に戻って寝てしまった。おい!
そして結局僕は、今度は仲野さんという看護師さんに、やはり誰の事かは伏せて相談した。結果、またとある名前を聞いてしまった。
「ナオちゃんの事でしょう?」
「いや……」
「……まぁ個人の自由だからね。俺も個人的にはどうかと思わない事もないけど」
その日僕は、結局モヤモヤしたまま眠った。ああ、ナオさんもなのか、と思いながら。
個人の自由。自由か。自由ってなんだろう。
こんな事を考える僕がおかしいのだろうか? 確かに人に影響されやすく、人の事を考え過ぎだとは思う。悪い意味で。
だがやはり煮え切らない。
すると翌朝、ハルコさんから再び相談を受けた。
「どうしよう。ゴムを買ってこないともうヤらないって言われたぁ」
僕は笑顔だったが、内心泣きそうだった。
なおこの病棟、外出時には、戻った時にボディチェックがある。ハルコさんのランクは3。保護者同伴ならば外出可能だ。ハルコさんは、親の目を盗んで買ってくると言っていた。
聞いた直後、僕はステップ2なので、一日分のお薬詰めの作業があり、看護師のマサミさんと小部屋(面接室)に入った。その時には、もう投げやりな気分になっていたので、僕は言った。
「僕は口が軽い人みたいになってますが、本当にいろいろな人に相談していますが、ちょっとまた聞いてほしい事があるんです。さっきまた聞いちゃったんです。誰がとは言いませんが、避妊具を持ち込むそうなので、ボディチェックの時、その……」
「うーん、個人の自由だから、相手からその相談を聞く事が、皐月君にとって辛い事なら、いくらでもこちらで皐月君の話は聞くよ」
もう何が辛いのか分からなくなった。
ただ、誰にも理解されていない感覚がした。
その時である。
「――実際にはスタッフ間である程度情報共有はしてるし、皐月君が話したってバレないようにするよ。ハルコさんだっけ? ちなみに何回どこでしたの?」
「個室のトイレで毎日」
「それで今更避妊って遅いよね。時間は?」
「夕方から夜にかけてだそうです」
「看護師が少なくなる時間をわかっててやってるのか、エロガキめ!」
僕は、何だかわかってもらえた気がして、心が軽くなった。
この際、春川さんは誰にも言わないと言っていた気がするが、その事は忘れよう。
さてその日、ハルコさんは、避妊具は入手できなかったのだという。親に怪しまれて一人にしてもらえなかったと言っていた。そして最寄りのファミリー・マートで一個ずつ売っているコンドームを買いたいと嘆いていた。その傍ら、別の人とも少し関係を持った。その相手は、國岡さんという。少々特殊な入院をしている人だ。ホールにずっといるランク5の人だ。その人が、「山口とヤるんなら俺とも」と、冗談で言ったらしい。しかし冗談のままでは終わらなかった。今度は國岡さんの個室のトイレで、ハルコさんは手でシたらしい。この日は、山口君は相手にしてくれなかったとも聞いた。國岡さんいわく、僕が密告した日の夜、看護師さんの誰かが山口君の部屋を訪れて、怒って行ったという。真偽は分からない。今度は國岡さんとの仔細も、僕はハルコさんから聞いた。
その後他にも二人の男性患者と、抱き合ったりキスしたりと、ハルコさんは忙しかった。正直僕も誘われた(断ったが)。数日後には、ついに避妊具も持ち込んだ。
僕はもうどうでもいいと思っていた。
変化が起きたのは、ハルコさんの退院が決まった頃の事である。
週末のある夜、山口君の部屋のトイレに、看護師さん二人が踏み込んだのだという。
僕はこの件を聞いて、二つの事を思った。
一つ目は、なんだかんだと言っても、僕は最終的には分かってもらえていたのではないか、という事だ。
二つ目は、僕が看護師さん達に伝えたのだと露見したらどうしようという恐怖だ。
ハルコさんはずっと、その日「誰かが、山口君の部屋に入るところを見ていて密告したんだと思う」と、僕に話していた。実際には、だいぶ前に僕が暴露したのだとは、疑いもせず。僕は罪悪感に襲われた。やっぱり僕はダメだ。これが、認知の歪みか?
僕は、ハルコさんが踏み込まれたという話を、彼女と共通の友人(?)である、秋江君に、OTで会った時に話した。前回入院時に、幻聴が聞こえると僕に訴えていた、同じ年の青年だ。僕は秋江君に、ハルコさんが何を考えて様々な人と性的関係を持つのかわからないとこぼした。すると、一番胸にストンと落ちる回答が返ってきた。
「男の人にチヤホヤされたいんだよ」
なる程。それだ。僕がハルコさんを理解した瞬間である。ちなみに僕は性格が悪い。
まぁそんなハルコさんも退院した。
せめてハルコさんも、特定の相手とだけ、そして恋愛感情を伴うお付き合いをしていたなら、僕も応援したのかもしれない。余計なお世話か。
外で煙草を吸い終えた僕は、嬉しそうな相田さんとともに病棟へと戻った。
さて今日は、何処に行こうかな。