18
こうして僕の新生活が始まった。
無論、躁状態よりは、幾ばくかは落ち着いた鬱気味で体調を維持する方が良いらしいとは聞いていたが――退院してすぐに、僕は双肩が異様に重い事に気が付いて、布団の上で蹲った。それなりの広さの部屋だが、僕は入院生活でベッドに飽き飽きしていたため、敷布団を愛用している。その上に横になり、僕は布団を握り締めてギュッと目を閉じた。
自分の気分が下降気味であると、よく自覚していた。呼吸をするのが億劫になり始め、終始鈍い頭痛がする。締め付けられるようで、何も考えられなくなっていく。だから寝転がっているのだが、睡魔が訪れる事はなく、しかし眠れないため全身が鉛のようになり動かなくなっていくのである。
このままだと、僕は沈む。そうなれば、再び入院することになるかも知れない。
何よりもそれが恐ろしい。そう考えながら、もう三日ほど部屋から出ていない。
階下の優しい人々に心配されている事には気づいていた。
何度か青井さんやタカノ君が声をかけに来てくれたのである。
僕は風邪だと偽った。熱があると口にしたのだ。
――心配される価値が僕にあるのか分からない。
早く寝てしまいたい――部屋の扉の鍵が回ったのは、その時のことだった。
ゆっくりと視線を向けると、そこには如月さんが立っていた。
「大丈夫か――……大丈夫ではなさそうだな」
「大丈夫です」
我ながら引きつった顔で空笑いをしてしまった自信がある。靴を脱いで入ってきた如月さんは、僕が起き上がるよりも一歩早く、僕へと手を伸ばした。骨ばった指が、僕の額に触れた。冷たい。とはいえ、僕は実際には熱があるわけではない。
「――熱はないな」
「ええ、平気です」
「仮病だからか」
僕は目を閉じた。如月さんは、『名探偵の心が聞こえる』という能力の持ち主なのだという。その力には発動条件があるが、何故なのか僕の考えていることは、はっきりと読み取れてしまうそうだ。それが嘘であっても本当であっても。自分が知りたいと強く思っている感情以外。それを聞いてから、僕は迂闊に考え事をしないようにしようと思っていたのだが、現在は余裕が無かった。
「余裕が無い方が、俺には有難い。聞き取れるからな」
心の声に返事をされて、僕は苦笑しようとして、失敗した。目眩がする。
そんな僕を抱き起こして、如月さんが溜息をついた。
「飲み物も飲んでいないのか」
「飲んでます。薬と一緒に」
「足りないだろう」
如月さんはそう言うと、近くに置いてあった未開封の、味付きの水を手繰り寄せた。
僕が座り直す前で、そのキャップを開けてくれた。
礼を言って受け取り、静かに飲んだのだが、思いの外ボトルが重く感じた。
「眠れないのか? いつから寝ていないんだ?」
「横になっているので平気です」
ボトルを返すと、キャップをしめてから如月さんがそれを低いテーブルに置いた。
そして笑う僕を、じっと見た。居心地が悪い。顔をそむけると、不意に頬に指を添えられた。軽く持ち上げるようにされたため、視線を如月さんに戻すと、烏の濡れ羽色の瞳が僅かに細められていた。
「――抱きしめても良いか?」
「え?」
「いなくなりそうで怖いんだ」
如月さんはそう言うと、僕が答える前に、僕を両腕で抱きしめた。その温もりに、なぜなのか僕は泣きそうになった。オロオロして、僕はその腕の中で震えていた。借りてきた猫というのは、今の僕のためにある言葉だと思う。次第に如月さんの腕には力がこもっていく。ようやく逃れるという思考が浮かんで、僕は軽く如月さんを押し返そうとして、体勢を崩した。そのまま僕達は、どさりと布団に倒れ込んだ。如月さんの重みを胸で受け止め、僕は息を飲んだ。困惑しながら改めて如月さんを見る。そして――動けなくなった。
そこにあった獰猛な瞳、何かいつもとは違う光を宿した黒い眼に、僕は身動き出来なくなったのだ。射抜くようなその瞳は、初めて話をした日に見たものにそっくりだった。
「っ」
今度は横になったままで抱きしめるようにされ――押し倒されたような形になり、僕は小さく呻いた。重い……何より、体温が自分とは違う、息遣いが聞こえる。混乱しないほうが無理だった。僕を逃げられないようにしているのか、体重をかけてくる。そして、相変わらずじっと如月さんは僕を見ている。
「嫌か?」
ポツリと言われて、僕は首を傾げた。
――何が?
「何が、と言われると……だから、その――……」
「現在の状況についてなら、重いし落ち着かないから早く退いて欲しいです」
「――落ち着かない?」
「落ち着かないです」
「そうか。俺を意識してはいるんだな」
「普通自分の上に人が乗っていたら、重みを意識すると思いますけど……?」
如月さんが、何を言いたいのか、僕には分からなかった。
すると少し体が離れて重みが消えたのだが、代わりに後頭部に手を回されて、髪を優しく掴むようにして顔を抱き寄せられた。そして唇と唇が触れ合いそうな距離で、再び覗き込まれた。近い。一体何ごとなんだろう?
「如月さん……?」
「無防備だな――……」
「確かに今は、体に力が入らないですが、詐欺とかに騙されるタイプでもないし、無防備という事は……部屋の鍵だって閉めていたけど、如月さんは、青井さんから合鍵を借りてきたんですよね?」
「……そういう意味じゃない」
「じゃあどういう意味ですか?」
「こういう意味だ」
嘆息混じりに口にして、如月さんが僕のパジャマのファスナーを下ろした。
ジジジという音を聞きながら、僕は首を捻る。
見ていると、如月さんが、その下に着ていた僕のTシャツの裾を捲った。
「……? もっと厚着をして重装備にしろという事ですか?」
「少し黙れ」
如月さんがそう言ってから――引き寄せた僕の唇に触れた。驚いて息を飲んだ時、口腔に如月さんの舌が入ってきた。狼狽えて体を引こうとしたが、再び体重をかけてきた如月さんと布団に挟まれているから、身動きができない。
「ッ」
舌を引きずり出されて甘く噛まれて、僕は思わず目を閉じた。
――え? 何が起きたのか分からない。僕達は男同士だ。僕にだって同性愛者や両性愛者の知識はあるが、異性愛すら経験に乏しい僕には、理解が追いつかない。歯列の裏側をなぞられると、ゾクリとした。不思議と嫌悪感は無かったが――代わりに、不可思議な感覚がした。そのまま角度を変えて、何度も何度も深く口づけられた。
「っ、は」
ようやく如月さんに唇を解放された時、僕は涙が浮かんできている事を自覚した。
「理解する必要はない、その感覚を、ずっと感じていれば良い。嫌じゃないんだからな」
「ま、待って、いきなり何を――」
「いきなりじゃなければ良かったのか?」
「そう言う事じゃなくて」
「お前にとってはいきなりだったのかもしれないが、俺にとってはかなり遅々としていたんだぞ」
「何がですか?」
「お前が大切すぎて触れることが怖かった。だけどな、今は、お前がいなくなる事が何よりも怖い。だから腕の中に閉じ込めて、抱きしめて、触れて、皐月が確かにここにいると実感したいんだ」
如月さんはそう言うと、左手で僕の手を取り握るようにして、右手では僕の頬を撫でた。頬を擦るように撫でられた。それからもう一度キスをされた。
「俺と寝るか?」
「……青猫館では、絶対に眠れないと思ったけど……時間はかかりましたけど眠れました」
「躱すな。俺とSEXするかと聞いているんだ」
「え」
僕は、息を飲んだ。如月さんは、同性愛者なのだろうか?
「そういうわけじゃない。ただ――洋二が言っていた。体を重ねた後は、どんな時でも眠りに落ちることができるそうだ」
「それって、如月さんと洋二さんは、そういう……?」
「どう思う?」
そう言われても困る。僕には人の心を読み取れるような特殊能力は無い。ただ、ドクンドクンと心臓が煩い。僕は酷く動揺していた。理由は自分でも分からない。
「如月さんは、僕を洋二さんと似ているというけど、僕は洋二さんじゃない」
「もうよく分かってる」
「だから代わりにはなれません」
「代わりだと思ったことなんて無い。似ていると思っただけだ――だからこれは、どちらかといえば、洋二にお前を取られるのが怖いという感覚に近い」
僕の頬がカッと熱くなった。瞳を揺らした僕の顎に手を沿え、再び如月さんが僕に深く口づけた。何度も何度も。その後は、逆に啄むように優しく触れられた。クラクラしてくる。恥ずかしくなってきて涙ぐんだ僕の額に、さらに意地悪く誂うように如月さんがキスをした。居心地が悪い。だがそれは、彼がここに来た直後の感覚とは違う。
「如月さん……も、もう、止めて……」
「怖いか?」
「う、うん……怖いです……」
「俺が止めると思うか?」
――そうは思えなかった。
獲物を捕るような瞳をしている如月さんを見ていると、身が竦む。
僕が震えた時、如月さんが苦笑した。
「名探偵の出した答え通りだ」
「ぁ……ッ……」
首筋を強く吸われて、僕は声を飲み込んだ。ギュッと目を閉じる。
「嫌か?」
――嫌じゃない。
そう考えて、ハッとして、僕は目を見開いた。
すると如月さんが、笑みを浮かべていた。これまでとは異なり、明るい。
「じゃあ大人しくしていろ」
なんて自分勝手なんだろう。僕は抗議するための言葉を探したが、上手く見つけられない。そもそも、何故嫌じゃないなんて思ってしまったのかも分からない。
「お取り込み中失礼しまーす」
その時、扉をコンコンと叩く音がした。見れば、エントランスの扉が開いていて、呆れたようにこちらを見て笑っているタカノ君と、その横で腕を組んでいる青井さんがいた。
「如月……具合の悪い皐月くんを襲おうとするなんて見損ないました」
「お前ら……」
僕は瞬時に赤面して、如月さんを押し返した。すると、すんなりと如月さんが今回は離れてくれた。い、一体何だったんだろう。僕は、完全に空気に飲まれかけていた。羞恥から、玄関に居る二人と如月さんを交互に見た。
「ち、違います。たまたま、そ、そう! たまたま僕が転んで、そうしたら如月さんも転んで、だ、だから僕は、だからその」
何故なのか咄嗟に否定すると、青井さんが微笑し、タカノ君はにやりとして、如月さんは腕を組んだ。誰も信じていないし、如月さんは怪訝そうだ。僕は両手で顔を覆って、彼らの視線から逃れようとした。
「――もし食べられそうならと思って、キノコのお粥を持ってきたんです」
「ありがとうございます」
「如月君に食わせてもらえば良い」
「っ、や、あ、の、一人で食べられるから……」
僕は思わず、蓮華でお粥を救って、息を吹きかけて冷まして、僕にお粥を食べさせてくれる如月さんを想像して、大きく首を振った。すると如月さんが吹き出した。
「そうしてやっても良い」
「結構です!」
なんだかこんなやり取りをしていたら、気分が軽くなってきた。
僕は、再び、沈みかけていたところを引き上げられたらしい。
起き上がった僕は、必死で笑いながら――今度は、動揺を隠すための作り笑いを頑張りながら、何度か頷いた。その時、正面からギュッと如月さんに抱きしめられた。
「!」
ドキッとして、僕は硬直し、さらに赤くなったと思う。
「そうでした、如月に手紙が来てます」
「皐月くんももう少し休んだほうが良いっつぅのは間違い無ぇけど、それが邪魔した目的だぞ、恨まないでくれ」
二人は、手紙とお盆をもって中へと入ってきた。美味しそうなお粥がテーブルの上に置かれ、手紙は如月さんが受け取った。その間も片腕は僕に回っていたから、僕はずっとおろおろしていた。
僕の新生活は、順風満帆……なのか、どうなのか、僕にはよく分からなくなったものである。