【001】のっぺらぼう







 桃灰色の肉片が跳んだ。
 吹き出した紅。

 頬と、首と、服と、そして、何が濡れたのだった?
 その血は生温かったのではなかったか?

 染まった赤。眼前の光景は受け入れがたく、赤と緑の砂嵐に視界が襲われ、目眩がして。
 吹き飛んだ頭部。
 残った口は裂けていた。ギザギザの黄ばんだ歯が確かに見えた。陥没したのは、本来はながある場所からその上で、それで――?


「ッ、は」

 飛び起きた草壁広親は、上半身を起こすと必死で息をした。
 気付けば涙ぐんでいた。

「……っ」

 また。まただ。
 過去の歪な記憶の再現、それがここのところ見る悪夢だ。
 正確には、単純性PTSDが原因のフラッシュバックである。

 だがそれを認めたくなくて、草壁は睡眠導入剤を貰いに行くメンタルクリニックにおいては、原因を告げない。ただ眠れないだけだと口にしている。主治医は胡散臭そうに草壁を見てばかりだが、同じBarの常連ということもあり、深くは追求してこない。

 ベッドから降りた草壁は、ダイニングキッチンへと向かい、水道から水を出した。
 そしてコップに入れると一気に飲み干し、音を立ててコップを置く。
 手の甲で口を拭ってから、寝る前に出しっぱなしにして置いた錠剤を手に取ると、プチプチと二錠出した。追加で飲むことは許されている。それを口へと放り込み、ギュッと目を閉じた。眠れない、いいや、眠ると悪夢が襲ってくる。過去の、亡霊が。

 それでも無理矢理ベッドへと戻り、布団を掛けた。
 まだ暑い夏ではあったが、空調が冷たい息を吐き出している。きつく瞼を閉じ、草壁は睡魔を待つ。今度は、夢を見ずに眠りたかった。それが、希望だ。



 ――その昔。四年ほど前。
 二十九歳の頃、草壁は公安部の刑事をしていた。階級は警部補。都内の高名で優秀な大学を卒業し、警視庁に入ってすぐに配属された。エリートと言っても過言ではなく、当時は自身とやる気に満ちあふれていた。当然、悪夢なんて見やしない。

 男前の容姿をしている草壁は、黒髪を揺らしながらオフィスに入った。

「よぉ、早いな」

 すると同期の朝霞史靖が声をかけた。

「おはよう」

 媚笑して挨拶を返した草壁は、己の席に鞄を置く。室内には他に、今年配属になったばかりの、二十四歳の雨宮颯人の姿がある。草壁を見ると、雨宮は笑顔を浮かべて立ち上がり、コーヒーサーバーからカップに褐色の液体を注いで、デスクに置いた。他には、奥の部屋に、管理官である上司の高遠大輔がいるはずだった。

「おはようございます、草壁さん」
「ああ、おはよう。昨日の調書はまとまったか?」
「はい。おかげさまで」

 そつなく笑った雨宮は優秀で、草壁と同じ大学の法学部を首席で卒業したのだという。朝霞もまた同窓だ。

「それよか、《覆面男》が厄介だなァ」

 朝霞がため息を零した。
 今、公安部で追いかけているのが、俗称・覆面男と呼ばれる連続誘拐犯だった。老若名如を誘拐して財布を取り、追いかけてきた相手を廃ビルに連れ込んでは――……なにをしているのか、不明である。ただただ決まって十三日後に解放された被害者達は、相手が顔を出そうとした瞬間に気を失ったと証言する。財布の金も無事であることが多い。だが被害者達はその後、その状況の記憶を失ったままだ。なにか、まるで怖い物を見たかのように、証言しようとするだけでも失神する者までいる。

 連続誘拐事件だ。
 なんらかの暗示を用いている可能性もある。
 危険性があるとの判断で、公安部が担当することになった。

 その時、部署の電話が鳴り響いた。朝霞がすぐに受話器を取る。そして真剣な眼差しに変わった。

「ええ、わかりました」

 それから電話を切った朝霞は、真っ直ぐに草壁を見る。

「出たぞ」
「また被害者か?」
「違う。黒い覆面をした窃盗犯が、廃ビルに入るのを見かけた被害者が、先に所轄に通報したんだ」

 それを聞いて草壁もまた真剣な表情で頷く。

「雨宮は待機していてくれ」
「はい」

 後輩にそう告げてから、草壁は雨宮とともに、覆面パトカーで急行した。
 降りながら、携帯していた拳銃を取り出す。
 被害者は中にはいないのだが、明らかに廃ビルからは人の気配がした。
 ギヒヒ、というような、笑い声と歯ぎしりの音が聞こえる。

 朝霞と視線を合わせてから、靴音を立てないようにして、草壁は踏み込んだ。朝霞は後方にいる。すると黒い覆面姿の男が、ぽつりと置かれた椅子に座り、手に鉄製のバッドを持っていた。誘拐は未遂だが、窃盗の現行犯だ。そばには財布が落ちている。

「動くな」

 鋭い声を、草壁がかける。すると。

「――なァんだ。“F機関”の奴らじゃねぇのかぁ。へへ、ギヒヒヒヒヒ」

 不気味な笑い声を発した覆面男に、怯まず草壁は近づく。
 背後からは朝霞が歩み寄るのが分かった。

「しょうがねぇから相手してやるよ、お前らならな」

 覆面男はそう言うと立ちが上がった。草壁は足元を狙い、威嚇射撃をする。
 その時、覆面男が――宙を舞った。跳んだというより、くるりと回転するように浮遊したのである。

「な」

 驚愕した草壁が、今度こそ怯んだ。その瞬間、覆面男がバッドを振り下ろす。こちらも狼狽えていた朝霞の頭部に、バッドが直撃した。朝霞が横に吹っ飛ぶ。焦って草壁は、着地したところの覆面男に銃口を向けた。そして、肩に一発。血飛沫が舞う。後ろで血を流して気絶している朝霞を一瞥してから、草壁は覆面男を睨めつけた。

「その覆面を取れ!」

 そう厳しい声で告げると、また「ギヒヒ」と覆面男が笑った。いいや、嗤った。
 覆面男が、黒い覆面に手をかける。
 そして素直に覆面を取ると――「っ」

 思わず草壁は目を見開いた。

「ばぁーッ」

 そこには、顔が無かった。
 いいや、正確には口はあったが、その形も人間にしては歪に避けていて、ギザギザのサメ歯がむき出しだった。黄ばんだ歯を開けて、覆面男――いいや、“のっぺらぼう”が嗤う。

「お前が追いかけてたのは、こんな顔の奴かぁ?」
「っ」
「こんな顔の『人間』いるわきゃないがなぁァ」

 思わず草壁は発砲した。のっぺらぼうの額に着弾し、それはのっぺらぼうの頭蓋の上、中ほど、本来花があるはずの場所から上を砕いた。脳漿が飛び散った。ピューピューと流れ出た血が、草壁にかかる。

 ハッとしてから、動悸を抑え、冷や汗を抑え、寒気と熱の両方に身体を襲われながらも、草壁は朝霞に走り寄ろうとした。

「ばぁーっ、ッ!」

 だが直後、のっぺらぼうの口から、長い二股の舌が飛び出てきて、草壁の手首に絡みついた。思わず拳銃を取り落とす。

「人間ごときにゃ、この俺は、“消せない”ぞ? 第一、俺を捕まえたきゃ《×××》を追うこった」

 そう聞いた瞬間、のっぺらぼうが体勢を立て直し、両手を伸ばした。そして草壁の首を両手で締め上げる。

「っく」

 息苦しさに、意識が霞む。頭部を撃たれて無事な人間など、それこそいないはずだ。
 ――コツ、コツ、と。
 その時、背後から靴の踵の音が聞こえたように、草壁は思った。だがすぐに、意識を手放したのだった。


 次に意識を取り戻すと、草壁は病院の一室で眠っていた。上半身を起こすと、手の甲に四つ股の点滴器具が見えた。

「ここは……」

 呟いた時、隣から声がした。

「東都中央病院です」

 気配などまるでなかった。驚いて草壁が視線を向けると、そこには黒髪に銀色のフレームをかけた一人の青年が立っていた。自分と同世代に見えた。二十代後半、いいや、三十代だろうか。通った鼻筋をしていて、目は細い。

「あ、朝霞は――」
「朝霞史靖警部は、意識が戻りません。俗に言う、植物状態と言えます。目を覚ます見込みはゼロではありませんが、限りなく低いだろうとの見方です。それは貴方も同様でしたが、草壁警部補」
「……植物状態……」
「今日は事件から二ヶ月目です」
「っ」
「貴方だけでも目が覚めて幸運ですね」

 淡々と無表情で言われ、草壁は困惑した。

「貴方は?」
「私は川嵜緋砂、F機関の職員です」

 F機関という言葉に、草壁は鮮明にのっぺらぼうのことを思い出した。

「のっぺらぼうは――、のっぺらぼうだ。俺は確かにのっぺらぼうを見て、それで――」
「のっぺらぼうは、もう“いません”。存在しない」

 断言した無表情の川嵜に対し、草壁が問う。

「お前が俺や朝霞を助けたくれたのか?」
「私は特殊機功『F.R.A.M.E.』の中でも、“消去”に特化した品を申請して持ち歩いておりましたので。助けたというのは正確ではない。のっぺらぼうに関してを“消した”だけです」
「『F.R.A.M.E.』――? それは一体……?」
「F機関が科学の粋を集めて創り出した品とだけ」
「……F機関とは、一体なんなんだ?」

 戸惑いながら草壁が尋ねると、川嵜が腕を組んだ。

「F機関とは、政府の特務機関です。公には存在しない部署だ」
「……」
「人の生活を記録し、同時に表沙汰にできない案件を、たとえば超常現象などを扱い、対処する機関です」

 そんな馬鹿げた話、とは言えなかった。のっぺらぼうが超常現象でないとしたならば、一体何なのか説明がつかない。

「のっぺらぼうは、本当にもういないんだな?」
「ええ」
「では、のっぺらぼうが口にしていた《×××》という存在は……?」
「……今、なんと?」
「ん? 《×××》だ――……あ」

 そこで草壁は気がついた。確かに発生しているはずなのに、《×××》という語が、日本語として聞こえない。意味を脳裏では理解出来ている気がしたが、それもよく考えると曖昧だ。ただ、耳に残っている。それが確かに、《×××》だ。それだけは分かる。

「――少なくとも我々は関知していません。のっぺらぼうは、なんと?」
「自分を捕まえたければ、《×××》を追いかけろと……」
「……そうですか。調査しなければなりません」

 川嵜の表情が、初めて変わる。目を眇めた川嵜は、眼鏡のフレームの位置を指で正す。

「草壁警部補。貴方も探して頂けますか?」
「え?」
「――もしかしたら、朝霞警部補が意識を取り戻す手がかりにもなるかもしれません。脳幹などには異常がないのに、目を覚まさないそうなので」

 その言葉に、草壁は目を見開いた。
 出て行く川嵜を無言で見ていると、入れ違いに上司の高遠と、雨宮が入ってきた。

「目が覚めたのか!」
「どうしてすぐにナースコールを押さないんですか!」

 驚いた様子の二人が、草壁にそれぞれ声をかける。それからすぐに、雨宮が押したナースコールによって、医師や看護師達が入ってきた。


 ――草壁が朝霞の病室を訪れたのは、それから三日後のことだった。酸素チューブが繋いである朝霞、その瞼は伏せられている。心拍などの計器に異常は見られない。だが、起きる気配がない。

「朝霞……早く目を覚ませよ」

 そう呟いたが、その後半年しても、朝霞史靖が目を開けることはなかった。
 その頃には、草壁は決意していた。

「退職する?」

 退職願を受け取った高遠が、首をわずかに動かし、悲痛そうな面持ちに変わった。

「確かにあんなことがあったのなら、無理はないが……」

 雨宮は詳細を知らない様子だったが、高遠には報告書を出していた。少しの間沈黙してから、はぁっと高遠がため息をつく。

「いつでも戻ってこい」
「……そうですね」

 もし、《×××》を見つけられたならば。そうする未来もあるかもしれない。だが、今は希望など持てない。朝霞は、己が怯まなければ、負傷することはなかった。植物状態にはならなかったはずだ。悔恨。だが、悔やんだところで、どうにもならないのは分かっていた。それでも悔やまずにはいられない。

「高遠警視、俺の荷物は全て処分しておいて頂けますか?」
「――ああ。元気で」
「ありがとうございます」

 草壁はその足で、オフィスの自分の席へと戻った。
 すると雨宮が歩み寄ってきた。

「草壁さん、顔色が悪い。まだ本調子じゃないんじゃ?」
「いや、そんなことはない」

 思わず草壁は作り笑いを浮かべた。心配そうな雨宮を、煩わせたくなかった。

「昼食を買ってくる」
「はぁ」
「雨宮、お前もしっかり食べろよ」
「わかってますよ」

 雨宮が頷いて見送る。スーツジャケットを羽織り、草壁はオフィスを後にした。
 もう、ここへと戻るつもりはなかった。


「懐かしい記憶だな」

 朝。
 久しぶりに悪夢だけではなくその前後の夢も見た草壁は、上半身を起こして布団の上に手を置くと、俯いた。その瞬間、涙が頬を伝う。悲しいわけではないはずなのに、頬が濡れた。静かな涙、一筋の雫。

「絶対に《×××》を探し出す。朝霞のためにも。たとえ……」

 その結果朝霞の意識が戻らなかったとしても、せめてもの手向けとなるはずだ。
 時々、草壁は意識のない朝霞の見舞いに行く。
 そして、苦しくなるのが常だ。

「……」

 本日も東都中央病院に見舞いへ行く予定なので、昨日は無理矢理眠った次第だ。
 シャワーを浴びることにし、ベッドから降りる。
 こうして一日が始まった。