【001】はぴはろマンホール
その日草壁は、気怠い体をひきづって、メンタルクリニックへと向かった。
眠気でおかしくなりそうだと目元を幾度か擦る。
到着したクリニックは閑散としており、この時間に予約している患者は草壁しかいない様子だった。現在、午後八時。そもそもこの時間帯に開いているメンタルクリニックは少ない。
「今日も酷い顔色だね」
「早く薬をくれ」
白衣姿の主治医・桐生瑛は、細いフレームの黒縁の眼鏡をかけている。色素が薄いのか、髪の色は薄茶色だ。目の色も同じである。色白だ。
「僕は三分診療はしないといつも言っているよね」
「早く帰りたい」
「だったら近況をきちんと話してもらえるかな? 最近は、どう?」
無表情の桐生だが、声は柔らかい。
「話なんて、これといってないからな」
「最近はどのくらい眠れているの?」
「……朝の四時には、その……」
「起床は?」
「五時というか……」
「お昼寝は?」
「たまに十時とか三時に寝落ちる。寝ていないわけじゃない」
「寝ていないよ。睡眠が足りていないね」
歯切れの悪い草壁の声に、ほぉっと桐生が息を吐く。
「最後に熟睡したのはいつ?」
その問いかけに、先日雨宮と体を重ねてしまったことを想起し、思わず草壁は顔を背けた。男前の顔には、わずかに照れたような色が見える。眠れはしないが、鍛えるのは怠らないし、必要最低限のカロリー補給もしている草壁は、腰回りは若干細いが、十二分に筋力がある。
「……少し前には、眠った」
「薬、少し強い物に変えるのと、増やすよ。あまり増やしたくはないんだけど。それと、そろそろ不眠の原因が知りたい。本当に心当たりはないの?」
桐生の問いかけに、草壁は俯いた。
無論、無いわけではない。脳裏では、己が嘗て銃を撃った時のことが過る。
あの時跳んだ、血、肉片。
思い出さないわけもなく、忘れられるはずもない。
「ありそうだけどね。嫌なことがあるんじゃないかい?」
「あると言ったらどうなるんだ?」
「少し、気分が浮上する薬を処方するよ」
「……それを飲むと、楽になるのか?」
「体に合えばね」
果たして、そうなるのだろうかと、草壁は疑問に思った。そして――自分に、楽になる権利はあるのだろうかと考える。
「じゃあ、また二週間後に」
その後、何を話したのかはよく覚えていなかったが、草壁はメンタルクリニックを出た。空に輝く星。十月三十一日の本日、通りかかったカフェの飾り付けで、今日はハロウィンだったかと思い出した。
それから再び俯くと、シーツとカボチャのおばけが描かれたマンホールが視界に入った。青っぽく見えた時、革靴でそれを踏む。
――ぼわん。
と、そんな音がした気がして、気付くと視界が変わっていた。
だぼりとした緑色の外套。
「ん?」
眠気が一気に飛んだ。見ると、外套は大人のままのサイズだったが、中に着ていたシャツとボトムスごと、草壁は――縮んでいた。目線の高さが、カフェの観葉植物より低い。さきほどまでは同じくらいのサイズに見えたのだが。なによりウィンドウに映る自分は、どこからどう見ても子どもだった。
「なっ」
また不可思議な現象が起こったのだと直感し、草壁は子どもには似つかわしくない表情、眉間に皺を刻んだ険しい表情に変わった。
「なんで子どもに……一体どうすれば――……」
十歳前後の子どもになってしまった草壁は、ポケットの中に財布があることを確認して、慌ててタクシーを拾う。運転手は、『もう暗いから、早く帰らないとダメだよ』と、草壁を諭した。子どもになった中身は大人だと告げても信じてもらえないだろうと判断し、草壁は曖昧に笑って見せた。
そうしてマンションに到着し、自分の家の前まで行くと――「あ」
ドアの前には、俯いている雨宮の姿があった。